読書の記録

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know (ぼやかしているようでけっこうネタバレ)

2017年03月02日 | SF小説

know (ぼやかしているようでけっこうネタバレ)

野崎まど
早川書房

 Kindleで人気上位のSF小説をたどっていったら、これがまだ未読だったので読んでみた。
 ラノベの雰囲気が漂うというか、いささかギミックやキャラの立ち振る舞いがオタっぽいのだが、タイトルが示すように、「情報を知ること」がこの小説のテーマだ。

 

 インターネットは何をもたらしたかというと、情報の遍在化する社会をつくりあげた。全く偏りのない完璧な遍在ではないが、インターネット普及以前にくらべると、我々ははるかに情報へのアクセスが容易な社会にいると言えるだろう。

 情報の偏在化、つまりフラット化された社会は一種のユートピアとされる。世の中のすべての情報(過去に蓄積された情報も含む)へのアクセスを目標とするGoogleの理念は、この人間が住む地球を、あたかも情報で生成された球体の星につくりかえようというものでもある。言わば惑星ソラリスにしてしまおうという野心だ。(しかも一営利企業がである)

 

 しかし、いっぽうで人間社会というのは、支配と被支配を生じさせる力学がある。そして、権力者は情報を独占しようとする。また、弱者であればあるほど、その人の情報は守られなくなる。

 つまり、インターネットは、万人の情報アクセスを容易にしたにもかかわらず、おおむね組織というもののは、むしろ「どの階層にはどこまでの情報をオープンにするか」をまず考えてしまう。あなたの会社もそうでしょう。

 イントラネットを導入しているような大きな会社ともなると、役員は社員のプロフィールを、それこそ出身大学から親の職業まで閲覧することができるが、平社員にはそんな権限などない。ネットワーク技術としては簡単にできるのにむしろ制限をかけるのだ。

 要するに「情報の非対称性」というものが発生し、これを利用しようとする者があらわれるのである。情報がオープンになりやすい環境になればなるほど支配者側は情報の独占に走ろうとする。

 
 この小説「know」の舞台は未来の京都で、そこは超IoTの社会になっている。

 そしてこの社会は、どこまでも「情報の非対称性」が武器になる世界である。情報を知らないもの<情報を知るもの<もっと情報を知るもの<もっともっと情報を知るもの、と格差がある。

 その頂点的存在として、究極の全情報アクセス可能者が出てくる。

 「究極の全情報アクセス権者」ともなるとどんなことまでできてしまうのかは、なかなかすさまじい。ちょっとネタバレすると、なんと未来がわかってしまうのだ。すべての情報にアクセスできるということは、それは一般人の常識や脳の処理能力とはかけ離れた情報量が頭に入ってくることになる。「究極の全情報アクセス権者」はそれらの桁違い情報量を処理できるまでに脳が鍛えられており、その膨大な情報から論理的導出ができる。目の前を飛ぶ蝶の羽ばたきを見れば、そこから遠い外国で竜巻が起こるまでのロジックを完璧に予測できてしまう。何時何分にどこでどの程度の竜巻ができるかを完璧にあてることができる。いわば世界中の回線につながった超スーパーコンピュータ人間みたいなものである。

 いわばラプラスの魔を克服したような、そんな究極の全情報アクセス権者を頂点に、何階層かの情報取得制限者が登場し、最下層、つまりほぼすべての情報が筒抜けなのに自分はなんの情報もとれない属性の者まで出てきて、この格差は完全に「情報の非対称性」による支配被支配の社会となって現れる。

 オープン化とかフラット化とかいろいろ言われているが、情報の非対称性によりかかって自分の立場を有利にしようという姿勢は、言わばマウントをとるようなもので、人間の生存本能的な性かもしれない。

 

 この小説は、そんな究極の全情報アクセス権者が、この地球上の全情報をすべて脳に蓄えてしまった後の相転移がクライマックスとなり、それはそれで面白いのだが、実はこの全情報アクセス権者は、いっぽうで情報アクセス最下層者でもあった、という設定になっている。この設定、本小説のプロットしては特に活かしているわけでもないが、実はこの部分もさらに深堀すれば、フラット化VS情報独占というイデオロギー対決みたいになって、それはそれで面白いことになったに違いないとも思った次第である。


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