読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀

2023年08月01日 | 社会学・現代文化
1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀
 
速水健朗
東京書籍
 
 僕の両親は団塊世代の入り口にあたる。したがって僕は団塊ジュニア世代ということになる。自分とほぼ同年代のクロニクルを扱っているので追想にひたってみようかと読んでみた。この本、僕らが何歳のころにこのような事件とか社会現象があったよね、というのがずっと述べられている。
 
 このような本を当事者世代が読めば胸熱になること間違いなしと思いきや、むしろ興味深いことに、本書を読んでいて終始あまりシンクロした気分にならなかった。むしろ遠巻き感覚な年表をみているようだった。
 確かに本書が描くように僕が小学生のころにつくば万博があったし、中学生のころに宮崎勤の事件で世間は騒がれたし、高校生のころにカラオケが流行りだした。大学生のころからポケベルが出回りだして社会人になったあたりから携帯電話の時代となり、そしてインターネットが普及した。
 だけど、僕にとってそれは「言われてみりゃたしかにそうだったね」という事実の確認でしかなかったのである。これだったら「滝山コミューン一九七四」とか「1984年の歌謡曲」のほうがはるかに自分の精神に肉薄したななどと思った。

 だからこの本はハズレだったかというと、そういうことを言いたいのではないのである。気になったのは、本書に覚える遠巻き感覚の正体はいったいなんでなんだろうということだ。これを思考するに、その時々の時事・社会・風俗といった時代の事象的側面と、自分という個人的な身体の間には、単なる事象と身体が直接につながっているのではなく、事象と身体のあいだをつなぐ「感情」というものがあって、個人の記憶というのはその「感情」に強くひもづいているからではないかと思い至った。「滝山コミューン一九七四」が強烈に僕にヒットしたのは、「滝山コミューン一九七四」の舞台である日教組に支配された小学校が描き出す著者の気分や感情が、当時の自分のそれと気持ち悪くなるくらいに同じだったからだし、「1984年の歌謡曲」はかの年のヒット曲を歌詞や当時の演出光景含めて次々と文章で再現させるその著者の手腕が、歌番組をよく観ていた当時の自分の感興を掘り起こしたからだ。
 追想とは、事象の確認ではなくて感情の確認なのだなということに改めて気づいた次第である。
 
 もちろん、本書「1973年に生まれて」も、往時往時の著者の感情が記されている。だから、そうそう、そうだったんだよと膝をうつ読者もたくさんいるに違いない。単にこの感情部分が僕のそれと違う世界線だったということである。たぶん著者と僕は同世代ではあるけれど、かなり違う気分をもってこの50年間を生きてきたんだろう。クロニクルを面白く思ってもらうのは単に同年代というだけではなく、気分が共有できないと意外と難しいのだなということを知った。同年代ネタで盛り上がろうとするときに気をつけなければならない部分である。
 
 もちろん著者は単なるエッセイストではなく時代評論家でもあるので、本書は単に感情の共感を求める本ではなく、1973年生まれつまり「団塊ジュニア世代」について考察しており、それは一目に値する。なんにも特色がなくてダウナー気味といわれる「団塊ジュニア世代」だが、この見立ては作られたステレオタイプなのであって、実は案外にも浮かれた世代なのであるということを著者は看破している。失われた30年間に社会に出ることになった世代なので、構造不況やいびつな人口構成の影響をもろに受けているのは事実だが、当の世代は「世の中はこんなもの」というものが初期設定されているから、他世代から同情されるような悲壮感は実はあまりない。入れ替わりものや転生ものみたいに、他世代の人生を経験することができたらいろいろ驚くのかもしれない。
 
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 美しき愚かものたちのタブロ... | トップ | ChatGPTの頭の中 »