読書の記録

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ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来

2018年09月22日 | テクノロジー

ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来

ユヴァル・ノア・ハラリ 訳:柴田裕之
河出書房新社


 大ヒットした前作「サピエンス全史」がほぼすべて全ネタ書き尽くしたような高密度だっただけに、第2作が前作なみの分量で登場したのには驚いた。
 「サピエンス全史」では、人類がいかにこの地球で頭角を現し、世界を支配し、現代社会を形成するに至ったかを述べていた。およそ600万年の歴史の物語である。キーワードは「認知革命」「農業革命」「科学革命」だ。
 その「サピエンス全史」の最終章で、そんな歴史を送ってきた人類だから未来はこうなるであろう、という帰納法的な予測を行っていた。それは、人類自身が手に入れた科学の力のさらなる増幅の未来イメージであった。

 その「サピエンス全史」の最終章にあった人類の未来像を、今度は上下巻にわたって縦横無尽に描いたのが本書「ホモ・デウス」である。いわば「サピエンス全史」は過去の話、「ホモ・デウス」は未来の話だ。
 過去の話を書くのと未来の話を書くのは違うエネルギーを必要とする。それを同じ分量で、同じくらいの視野の広さと深さで描いてみせるんだから驚異的である。


 未来において、「科学革命」を成し遂げた人類は2つの新領域に踏み込む。
 それはAIとバイオテクノロジーだ。これの根幹にあるのは「人類は(というより生命は)アルゴリズムである」という原理原則の発見であった。
 アルゴリズムであるからにはそのロジックツリーさえ解明できれば「同じような機能をもつ」存在を外部につくることができる。それがAIである。しかも「アルゴリズムを生成するアルゴリズム」に行き着いたことにより、AIは「ディープラーニング」を身に着けるようになった。
 また、アルゴリズムであるからにはあるロジックに手を入れればそのあとは違う出力結果が出てくる。したがって、出力結果を狙い撃ちにするように(たとえば「より快感を感じるように)」アルゴリズムをいじくってみる、という発想が出てくる。それがバイオテクノロジーである。

 また、AIにしてもバイオテクノロジーにしても「次に何をいじくればいいか」の決定を人間自身の判断ではなくて、外部の情報から外挿的に行うことができる。人類自身が認知できる限界をはるかに超えた外部情報を取り入れて判断し、決定できるアルゴリズムもまた存在するからである。
 これがつきすすむと、人類はものごとの判断を人類の外に委ねるということになる。これは近代以前に神と占いによって物事を決めていたことと行き着いた現代科学の弁証法的な未来ということになる。


 この2つの新領域が本格的に稼働することが未来の人間社会に抜本的な刷新を迫る。「認知革命」「農業革命」「科学革命」に継ぐ大パラダイムシフトとなる。


 ハラリが描く未来像は、著者本人が認めるようにはっきりいってバラ色の未来像ではない。止まらなくなった機関車のようなものである。

 ハラリ自身は本書を「予言書」と見なしている。それは「警告」することによって「未来」が変わることを期待しているという意味である。

 社会主義はついに世界を制覇するに至らなかった。一時期は国の数で自由主義を大きくしのいだ社会主義だが、今日社会主義を標榜する国はほとんどない。
 しかし、それは社会主義の原典であるマルクス主義が間違ったという意味ではない。マルクス主義を知ることで、そうはならないように努力をする一派が出てきた。それが自由民主主義の一派となり、歴史の淘汰の中で勝利を勝ち取ったとハラリは述べている。

 同様に、「ホモ・デウス」を上梓することで、安易にAIとバイオテクノロジーの暴走に安住しないことに人類が気づき、”「ホモ・デウス」に気づかなかった未来”とは異なる未来へのレールへに軌道がシフトしたのかもしれない。マルクス主義が登場することで、マルクス主義的な世の中になることを防いだのと同様である。なるほど真の予言書とはこういう機能を果たすのか。



 「サピエンス全史」のときからハラリが一貫としているのは「で、一個人としては幸せになったの?」である。認知革命を起こして、農業革命を起こして、科学革命を起こして。それからAIを発達させて。バイオテクノロジーを発達とさせて。で、一個人は幸せになったのかな? という冷や水だ。
 社会の発展(こうなってくると「発展」とは何か?という話にもなるが)と一個人の幸福は必ずしも比例しないし、一個人の幸福と人間の「遺伝子のねらい」もまた実は一致しない。
 一個人の幸福感に大きく関与するのは「物語」である。例えば本書で例として挙がった「空腹」。同じ空腹でも、貧困による空腹と、宗教上の儀式による断食での空腹と、ダイエット目標としての空腹では、感じ方が違う。これはいまの空腹にどういう物語があるかの違いである。食べものが消費されないという点では社会的には同じであり、食物が摂取されないという点では遺伝子的には同じであるが、その「空腹」に至った一個人への「物語」が違うならば、空腹への感じ方は苦痛とも恍惚とも希望ともになりえる。

 思うにAIとバイオテクノロジーの未来は、ディストピア的な言論ばかりがハバをきかせ(そういう情報のほうがネタとして流布されやすいというのもあるのだろうが)、幸福な物語を誰も描けていないということではないかとも思う。早急に見つけなければならないのはAIとバイオテクノロジーが横行する幸福な未来の「物語」ということだろうか。


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