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幸福の測定 ウェルビーイングを理解する

2023年04月22日 | 社会学・現代文化
幸福の測定 ウェルビーイングを理解する
 
鶴見哲也・藤井秀道・馬奈木俊介
中央経済社
 
 
 「ウェルビーイング(Well being)」。ここ数年で耳にするようになった概念だ。日本では「幸福」と訳されているが、幸福を意味する英語では昔から「happy」とか「happiness」があったはずだ。何が違うのだろう。
 
 ネットで簡単に調べると、「happiness」は一時的なスパンにおける快楽状態であるのに対し、「Well being」はもう少し長い人生設計や生き方そのものみたいなことを指す、とされている。美味しいものをたべて幸せ、というのは一時的な快楽というHappinessにあたるようだ。
 では時間が持続するものがWell beingということかというとそう単純なものでもないらしい。「お金持ちになって幸せ」とか「出世して幸せ」というのは、とうめん人生は続きそうだが、じつはこれらはHappinessなのだ、とする主張もある。「一時期」の解釈がポイントなのだ。要するにある種の条件がそろっていれば幸せ、というのは反対に考えればその条件が外れると幸せでない、ということになる。「お金持ちになって幸せ」とは、お金がある限りは幸せだが、お金がなくなれば幸せでなくなる。「出世して幸せ」とは、地位がある限りは幸せだが、その地位を失うと幸せでなくなる、ということになる。こういうのは一時的な「happiness」ではあっても永続的な「Well being」ではない。
 
 であるとすれば、「Well being」とは「●●があれば幸せ。という条件の外」にあるマインドセットである。仏教でいうところの「執着」や「煩悩」からの解放こそが「Well being」とさえ思えてくるが、実用的には「少々なにがあっても自分は幸せだと思える精神状態」を持続させることが「Well being」ということになるだろうか。
 
 なぜ、こんな概念が今日になってとりあげられているかと言えば、やはり世の中がものすごく短いスパンで変化・混沌しすぎて、幸せ気分を長く維持できなくなったからだろう。昨日の喜びは今日の失望が繰り返される毎日だ。ユヴァル・ハラリは、「サピエンス前史」でも「ホモ・デウス」でも、とにかく人類は進歩してきたが、それで人間は幸せになったかとなると話は別であるという主張を繰り返し突き付けてきた。「あれができれば」「これになれれば」「それを所有すれば」という欲望を追求している限り、人は幸せの境地に達しないとは幸福論でもよく言われる話、「幸福とは、何も条件を設定しないときにはじめてそこに現れる」とは古から賢者が言ってきたことである。「Well being」とはこれの現代版と言えよう。
 
 ということは「Well being」とはひたすら主観的なものである。財産とか社会的地位とか人脈とかではなく、自分はこの人生にどこまで満足しているかがすべてだ。
 そのようにマインドセットすることはたいへんな努力がいることは間違いないが、「主観的」でもあるので「Well being」はアンケートで計測できる。
 それが本書でも紹介されるGallup World Pollと呼ばれる10段のはしごの図を用いたアンケート表である。
 
 「0の段が最も低く、10の段が最も高いはしごを想像してください。はしごの最も高いところは、あなたが考え得る最も良い生活を意味し、はしごの最も低いところは、あなたが考え得る最も悪い生活を意味しているとします。現在あなたはどの段にいると感じますか。」
 
 この質問の仕方で世界中通用する。ちなみにこのはしごのことを「カントリル・ラダー」という。
 
 で、よく報道などでも出てくる「世界幸福度ランキング」すなわち北欧諸国が上位で日本は幸福度が低いというのは、このアンケートのランキングなのである。もちろんアンケートの中身は、はしごの一問だけではなくて、経済状況とか家族構成とかいろいろたずねて、その相関関係が調べられるようになっている。これらの相関関係の結果は、万国共通のものもあれば、国によって異なるものもあるらしい。
 
 本書によれば、日本では、男性よりも女性のほうが「幸せ」と回答する比率が高いとか、60才を超えると「幸せ」と回答する確率が高い、とか出ている。未婚者よりは既婚者のほうが「幸せ」で、子どもの年齢は、小さいころは「幸せ」だが中学生くらいのにくたらしい年齢になると幸せ度が下がるなんて身も蓋もない結果も出ている。
 また、世帯年収があがればあがるほど「幸せ」と回答する人が増えてくる。これは当然のようにもみえるが、これは日本やいくつかの国にのみみられる現象で、グローバルな観点ではそう単純なものでもないらしい。むしろ海外の先進国では、所得はある程度満たしていればそこから先はいくら所得が増えようとも人生の評価はそれ以上は上りも下がりもしないのであり、幸福感を得るには所得以外の何かを積み重ねていくことになる。
 ところが、日本はちょっと違う。日本はひたすら所得があがればあがるほど幸福度があがる、という傾向がある(アメリカやイギリスも同様とのこと)。これは要するに日本の場合、幸福感を得るのに「所得以外の要素の重要性に他の多くの国と比較して気づいていない」とも言える。しかも諸外国の中で日本だけが給料が上がらず、ジニ係数も拡大傾向にあるとすると、日本は「お金を儲けないと幸せになれないのにお金を儲けにくい国」という見方もできよう。
 
 かといって、清貧をよしとせよ、というわけではないし、お金以外に楽しみを見つけよ、という発想の転換を迫る話でもない。これは、日本の社会設計や社会習慣が「幸せを感じるものを得るにやたらお金がかかる」というところに根本的な問題がある気がする。結婚も子育ても人付き合いもスキルアップも健康維持も、日本社会でそれをやるにはなんだかお金がかかるのだ。原則的にはお金をかけなくたって結婚も子育てもできるはずだが、どういうわけか社会が要求する水準がお金をかけさせるのである。
 この手のアンケートのたびに上位常連の北欧諸国のからくりをみると、どうもここらへんの社会設計とも関係がありそうだ。北欧諸国はなにしろ税金が高いので、日々の生活にそんなお金をかけられない、ということが国民みんなの前提になっていて、マーケティングもそれに基づいている。
 
 
 ところで、最初のはしごのアンケートに戻る。改めて見てみると、
 
 はしごの最も高いところは、あなたが考え得る最も良い生活を意味し、はしごの最も低いところは、あなたが考え得る最も悪い生活を意味している。
 
 これはその人の想像力、生活の最上から最低をどこまで想像できるか、ということでもある。北欧諸国は、過去にあった最低の歴史を知っている国というむきもある。この国はソ連という乱暴な大国に長い間脅かし続けられたトラウマを持つ国であり、それゆえにその時代に比べれば、という共通認識はあろうかと察する。
 また、この先になんの希望もないよ、ということであれば、はしごの段の位置は高くなるだろう。それはそれで、かつて古市憲寿が「絶望な国の幸福な若者たち」で問題提起したような議論を挟む余地が出てくる。はしごの段の位置は高いに越したことはないように思えるが、高すぎるとそこには別の意味合いが出てくる。
 
 ちなみに日本は、7段目、8段目のあたりを回答した人が多いとのことだ。先に示したように年齢や性別によって多少の違いはあるものの。全般的には日本の「幸福度」は案外いい塩梅なんじゃないかなという気もする。少なくとも、日本人がいまのメンタリティのまま北欧に移住しても幸せになれるかというとそういうことではなさそうである。

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