読書の記録

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森林の思考・砂漠の思考

2012年12月14日 | 哲学・宗教・思想
森林の思考・砂漠の思考
鈴木秀夫
 
與那覇潤・池田信夫の対談本「日本史の終わり」を読んだ。
底本は與那覇潤の「中国化する日本」で、この本はなかなかセンセーショナルで面白かった。挑戦的なタイトルと挑発的な文章ではあったが、日本の足かせになっているものを「江戸時代への憧憬」と看破し、多くがなんとなく思っている日本人の美徳や伝統的美意識、精神土壌こそがガラパゴス化の原因と突き放した。
こういった日本人の限界みたいなものに我が意を得たと思ったに違いない経済ブロガーの池田信夫との対談によるものがこの「日本史の終わり」。とはいえ、読後感としてはとくに「中国化する日本」を更新するものではなかったのだが、池田信夫氏が丸山眞男やら網野善彦やら梅棹忠夫やら山本七平やら中根千枝やらの重鎮を引用してきたりして、より様々な角度から、日本人論を概説していく。
いずれにせよ、「日本史の終わり」では「だから日本人はダメなんだ」という結論にどうしてもなっていくのだが、日本人は日本人論が好きなんだな、と思う。自虐史観ならぬ自虐民観もあるような気もする。
 
僕が、わりと腑におちてしかも気に行っている日本人論に鈴木秀夫の「森林の思考・砂漠の思考」がある。
松岡正剛の「17歳のための世界と日本の見方」で紹介されていて興味を持ったのだが、どうしてなかなか愉快な本であった。
著者自身整理しきれなくて記述に混乱があったり、それを言い訳したり、一冊のボリュームに満たなくて違う話を無理やりつなげていたりなかなか破格なのだが、「森林の思考・砂漠の思考」そのものは大胆でありながら、梅棹忠夫の「文明の生態史観」に匹敵する骨太なワールドモデルの設定である。
「森林の思考・砂漠の思考」がどういうものかは、「17歳のための世界と日本の見方」のところであらかた書いてしまったが、あらためていうと、多神教のメンタリティが森林の思考、一神教のメンタリティが砂漠の思考、である。もちろん日本が前者であり、後者は欧米である。(一覧化すると以下のようになる。
 
 
森林の思考
物事    物事は繰り返す(万物流転)
目線    等身大の視点(自分から見える世界しか大事ではない)
探求    真理は何かを重視する(物事は証明できる)
情報処理 全部にあたって吟味(中選挙区・すり合わせ)
考察    ミクロ的(分析に優れる)
判断    保留ができる(わからない、と言える)
仕事    完璧主義(時間がかかっても完成にこだわる)
宗教    多神教
 
砂漠の思考
物事    一回しかおこらない(天地創造と終末)
目線    鳥の視点(自分が見えない世界もどうなっているかを想像する)
探求    自分はどう感じたかが重要(証明なんてホントはできない)
情報処理 当座の情報で即座に判断(小選挙区・ゼロサム)
考察    マクロ的(大局観に優れる)
判断    無理にでも何か判断する(わからない、と言わない)
仕事    走りながら考える(だいたい合ってればよい)
宗教    一神教
 
こういった思考本能が何で生まれたかというと、それが森林と砂漠なのである。
中近東の三日月地帯に端を発する人種は地平線まで見える自然環境の厳しい乾燥地帯で生活をしていたため、常に生死に関わる判断を求められてきた。
ここで求められるのはスピードと的確さである。水があるのは右か左か。食物があるのは南か北かを、その場の状況と情報で判断しなければならない。間違った方角へいったときはすなわち死を意味する。
こういった原体験を持つ人種はおのずと、砂漠の思考パターンを本能的に持つようになる。これが正解はひとつ、あとは全部間違いという一神教の母体となる。
一方、インドから南アジア付近に端を発した人種(もともとは西から来た人種になるが)は、森林を生活環境とした。
まず森林はうっそうとしていて見通しが非常に悪い。おのずと世界は、自分から見える範囲だけになる。
また、森林は右へ行けば実りの木があり、左へ行けば滝があり、北へ行けば動物がいて、南へ行けば草地がある、というようにオプションが多様であり、どれも少しずつ恩恵がある。多神教の母体である。
また、草木は地面から生まれて成長し、開花し、やがては枯れるが、また新たな芽吹きがある。
こういった原初体験から万物流転といった概念も身につく。
 
 
さまざまな日本人論の中で、僕がとくに気に行っているのは、だからどちらがいいとか悪いという話ではないところである。日本人がダメだとも特別だとも言わない。
森林的思考も砂漠的思考も一長一短ある。
スパッと取捨を決めてしまう小選挙区制も、少しずつみんなの言い分聞きながら答えを探す中選挙区制もそれなりに意味があるように思える。
危機意識が高いのは砂漠的思考なのは確かだが、目下の日本人論は、だから日本人は危機意識に乏しくてダメなんだ、という話だから、危機意識がないかわりに、森林の思考には精神的には安定である、砂漠的思考は慢性ストレスの社会とだって言えるのである。
逆に、森林にとっての最大の危機とは多様性を失うことだろう。リソース不足の先には死しかない。
実はグローバルスタンダードは、多様性を喪失させて画一化にむかう力学がある。最終的に均衡になっときは一人の勝者と多数の敗者でもある。
多様性を維持している限り、簡単には敗北しない。そういう意味では簡単に一方を切り捨てないところが森林的思考で、「日本史の終わり」では、それこそが失敗の本質である、とまあこう言っているわけだが、ゼロサムを続けると絶対に多様にはならない。捨てる神あれば拾う神ある多神教のメンタリティも大事にしたいなあと思うのである。実はそういうメンタリティは、本当に時代が揺さぶられた時、意外にもしぶとく生き残る気がするのである。
 
 

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