読書の記録

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人生を狂わす名著50

2024年09月11日 | 言語・文学論・作家論・読書論
人生を狂わす名著50
 
三宅香帆
ライツ社
 
 
 本に耽溺してしまっているひとときというのはとても幸せな時間である。
 身も心も没入してしまう本に出逢うことは必ずしも多くないものだ。たいていの本は脳味噌の表面をさっとかすめて終わってしまい、二度と読み直されることはない。
 しかし、ごくまれに智と感と情すべてをゆさぶられ、読前読後で目の前に現れるこの世の地平の景色が変わるような本に出合うことがある。これこそ読書の値千金の効能であって、こういうのを名著という。
 
 
 というわけで本書だ。著者は「なぜ忙しすぎると本が読めないのか」が大ブレイクして今や時の人である。きっとますます忙しくなって本が読めなくなっているかもしれない。
 本書は、50の本に対しての著者の偏愛プレゼンテーションが繰り広げられている。その熱量に圧倒される。紹介される本それぞれに著者が人生を狂わすポイントになったところについて解説されている。
 著者はここで「〇〇 VS ●●」という対立構図を描く。たとえば、J・Dサリンジャーの「フラニーとズーイ」では、「立派で完璧な人生 VS 笑えて許せる人生」がテーマである、と。読前は前者の規範で生きていたつもりが、読後は、後者もありだと思えるようになったという。中村うさぎの「愛という病」は「愛したい VS 愛されたい」。山田詠美の「僕は勉強ができない」は「学校の勉強 VS 人生の勉強」。司馬遼太郎の「燃えよ剣」は「結果のカッコよさ VS 姿勢のカッコよさ」。杉浦日向子の「百日紅は「ドヤ顔 VS さりげなさ」といった具合だ。
 「人生を狂わす」名著とは、このようなコペルニクス的転回を体験する本ということなのだ。
 
 
 ところで、著者がこれらの本で人生を狂わすコペルニクス的転回を味わうに至ったのは、そのときに著者が置かれていた事情・環境・心境その他が当然作用している。著者の個人的なエピソードもしばしばこの本には書かれている。
 ということは、名著に出会うためには、必然的に、極私的な事情と結びつかなければならないということになる。
 その人にとって名著であればあるほど、それは万人にとって名著かどうかはわからない。なぜならば、自分自身を根底から覆すような本というのは、当然ながら自分自身のコンディションーそのときの気分・状況・抱えている悩みなどがあって、それに対して本の内容が化学反応を迫るからだ。「名著とはまるで自分のために書かれたように思えるもの」と言えよう。
 もちろん、多くの人が感興を揺さぶられるーつまり「名著率」の高い本というのは存在するが、我が人生を狂わすくらいの「名著」となると、これは極私的な事情とは切っても切り離せないものになる。
 
 実際にこの本で紹介された50冊の中で、僕が読んだことがあるのはほんの数冊程度であった。しかもその数冊が、じゃあ僕の人生を狂わすほどの名著だったかというと、そこまでじゃないなーというのが率直なところだ。人生を狂わす名著なるものが極私的にならざるをえないひとつの証左である。(著者と全く意見が同一した唯一の例外は岸田秀「ものぐさ精神分析」だった。この本の破壊力はホントに凄いぞ)。
 
 じゃあ、お前にとっての名著はどれなのだ、というといくつか脳内に浮かび上がるのだけれど、この感じを他人にわかってもらうのはやっぱり至難な気がする。それに当時の僕の心境がそれを名著にしてくれたわけで、仮にいまいま現在の自分が初読だったら、またぜんぜん違う読後感だったことだろう。名著とは一瞬の邂逅なのだと思う。というわけで、自分自身が名著に思った本についてはまたいつか・・・
 

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