読書の記録

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松岡正剛氏逝去

2024年08月28日 | その他
松岡正剛氏逝去


 まさに巨星逝く、といった感じだ。

 一度だけ本人の講演を観に行ったことがある。2008年の7月。場所は東京丸の内のどこぞのビルだった。16年前のことであり、主催元が何だったかはもう覚えていない。ただ、殊勝にも(?)、そのときの講演はメモをしていて、しっかり今でもここにある。追悼の意味を込めてここにサルベージを行うことにした。あいにく講演のタイトルを記録しそこなっているのだが、内容から察するに「間違いだらけのグローバルスタンダードと日本」みたいなことだったのではないか。

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【前半】なんだかわからない時代になった。社会も政治もオタクも家族観も。

 この10年に起こったことにより、次が「読める」ようなものがない時代になった。
 そもそも10年というのはdecadeと英語でいうように、時代が変わる年月の単位だ。黒船から明治維新が10年間。ナポレオンからフランス革命が10年間。だから本当は次の時代へと変わるはずなのだが、「失われた10年」になっている。

 こうなってしまった原因は、日本が「グローバル・スタンダード」というものを無批判的に受容してしまったからだろう。「問題を指摘する」というモーダリティ(型)を喪失してしまっている。
 背景には3つの現象がある。

現象① 冷戦の終結(80年代から90年代の間)
 この期間に「新自由主義」が到来した。サッチャリズムやレーガノミクスのことだ。これを無批判的に日本は受容してしまった。結果としてバブルとバブル崩壊を招いている。

現象② 日本のアジア観の思考停止
 小泉純一郎(時の首相)はなぜ靖国参拝をしなければいけなかったのか? では、参拝しないほうがよかったのか? 実は、誰もわからない。シンクタンクも答えを出せない。が、「答えを出さなくてもよい」という社会になってしまった。(福沢諭吉や岡倉天心は真剣に考えた)

現象③「新しい価値観(コンセプト)」を表す言葉の喪失
 大正7年に、漱石門下生によって「童謡」というコンセプトが作り出された。それは「哀しくて切なくてわびしくつれない世界」というもので、これは西洋にない価値観であった。西洋ではこういうのはノスタルジーで包括してしまう。宝暦の時代には「粋」「野暮」「勇み」などのコンセプトが登場した。今はこういう試みがない。全部が「かわいい」で包括してしまったりする。思えば80年代、「金」の上である「プラチナ」にあたる日本語を思いつけなかったのが兆しだった。そのうち「タレント1人」で場がもたなくなり、TVCMが後藤久美子と三田佳子になったり、高倉健と倍賞千恵子の両方が出たりして、そしてSMAPとモーニング娘となった。そしてカタカナ語が氾濫するようになった。

 こういった現象を受けて、カラオケやコミックを日本文化と呼ぶようになった。佐藤可士和や佐藤卓はそれらを「和」としてクール・ジャパンと呼んだ。
 しかし、僕に言わせればあんなのは全然「和」じゃない。おまえら本気で考えてんのか、と言いたい。しかし世の中に受け入れられている。これはいったい何だろう。


【後半】では、どうすればいいのか

①「主題」から「方法」へ
 20世紀は「主題」の時代。21世紀は「方法」の時代。「日本の方法」はなんであったかをもう一度考えたい。

②「マネジメント」よりも「イメージメント」で
 「マネジメント」は誰かがなんとかしてやることができる。しかし、その過程で喪失・破壊される「イメージメント」があるのが怖い。グローバルスタンダードとは、固有のイメージメントを喪失させることでもある。かつて老中・総代・僧正・大旦那・年寄・統帥・師範と言っていた。これらはみんなイメージメントが異なる。これらがいまみんなCEOと呼ぶようになっている。

③日本は「メディア・ステート」な国になりたい。(メディア≒境界)
 「編集」という行為は、矛盾・葛藤をそれぞれを生かしたまま一つのシナリオや物語やメッセージにすることである。日本は、本来それができる文化であった。例えば、寺社に見られる屋根の趣向である“てりむくり”・枯山水 ・悪人正機説 ・西田幾太郎の「絶対矛盾の自己同一」。これらはフュージョンではなく、デュアル(片方を否定するのでもなく、両方を活かす)なやり方。
 もともと、西洋は、一神教が主流でこれは砂漠型(砂(死)かオアシス(生)か)の2分法で結論を出す。多数決システムの世界でもある。しかし日本は、多神多仏の森林型(滝も崖も山もある)。真実は「(中心に)ひとつ」ではない・・それぞれの専門家のすり合わせ。これは「森林の思考・砂漠の思考」という本で述べられている。

 なお、これらの方針において見習うべき先人が日本にはいる。
 まず岡倉天心。洋画科というものができたとき、真っ先に「日本画」を定義・確立し、「日本画科」設立に奔走した。
 それから内村鑑三。「2つのJに捧ぐ」(Jesus、Japanese)。日本はボーダーランドステート(境界国家)になるべきと発言した。
 そして九鬼周三。西洋の哲学大家に理解してもらえなかった日本のわびさび型美意識。これを「『いき』の構造」として記した。「質性」を感じるような日本モデルである。

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 僕のメモはここで終わっている。16年前のメモだけにやや意味不明なところがあり、とくに最後に3人の名前が出てくるところの下りはなんだかよくわからない。
 今は2024年、上記の講演からさらに10年以上のdecadeが経ってしまっている。そのあいだにスマホが普及し、時代はSNSからクラウド、そしてAIがキーワードになっていった。日本は小泉純一郎の息子が自民党総裁選に出馬する時代になった。カラオケやコミックは相変わらず世界を席巻し、これにアニメとボカロが加わっているのが今のクールジャパンだろうか。タレント1人で場が持たなくなったという指摘は慧眼で、上記のすぐ後になってAKB48と坂道グループがテレビに登場し、ひな壇芸人という番組フォーマットが始まった。
 新しいコンセプトを示す日本語の言葉が出なくなったという指摘や、「マネジメント」の敷衍が固有の「イメージメント」を押し殺していくという話は今でも通用しそうだ。

 こんな講演を聴きに行くくらいだから、僕は松岡正剛の本を何冊か読んでいる。彼の著作数は膨大なので、読んだことがあるのはほんの一握りではあるが、今でも書棚にあるし、このブログにも登場している。
 じゃあ、僕は彼の主張のよき理解者かというと、そうでもない。なにしろ、彼の本はとにかく情報量が多い。半端ない読書量と呆れかえるほどの博覧強記からくるそれは圧巻で、猛烈なパワーとなって紙面に現れてくる。
 その迫力に毒気は抜かれても、じゃあ彼の書いている文章をちゃんと理解できているかというと、全くそんなことはないのである。饒舌で過剰で韜晦に溢れていてすっとぼけていて、話は右に左に上に下に前に後ろにといったりきたりして、和語も漢語も英語もラテン語も象形文字も縦横無尽で、字と図と絵と画がアナーキーに入り混じったコンテンツとメディアの綾なす彼の世界は、僕の頭では逐次読み進めて理解できるというシロモノではなかった。彼の情報発信は、要するに、情報の中身(コンテンツ)が形象(メディア)の枠にはまりきっていないのだった。高次元のローデータをむりやり二次元圧縮して近似値を出すディープラーニングのようなものだったのかもしれない。
 したがって、僕にとって彼の本の鑑賞法は、とにかくシャワーのようにそれらを浴びて、何かそこからひとつかふたつ開眼できるものがあればOKというものであった。まるで聖書か仏法書である。
 そういえば、彼は、信者とも舎弟とも言えそうなファンが業界内外に多かったことでも有名だ。ものすごく圧倒的なオーラとカリスマがありながら、どこかうさん臭さを残していて、アンチもたくさんいて、それがまたミステリアスな孤高さを出すことに成功していたようにも思う。新興宗教の教祖さまみたいというとファンから怒られそうだが、宗教だってその教義や作法の仕組みも体制の在り方も情報編集の妙がものをいうのだから、松岡正剛の諸々が宗教みたいと言ってもあながち的外れではないし揶揄でもないだろう。むしろ彼からすればしてやったりかもしれない。ご冥福を祈る。
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