読書の記録

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工作舎物語 眠りたくなかった時代

2024年09月03日 | 編集・デザイン
工作舎物語 眠りたくなかった時代
 
臼田捷治
左右社
 
 
 さて、松岡正剛といえば、工作舎という出版社であり、「遊」という雑誌だった。
 
 工作舎は今でもばりばり現役の出版社で、科学と人文をアナーキーに融合させたようなハイブローな書籍を多く刊行している。「遊」はこの工作舎が1970年から80年初頭まで刊行していた雑誌だ。というより「遊」を制作・刊行するために組織されたのが工作舎の発端である。
 
 いまから50年以上前の雑誌の話だから、戦後出版史のひとつのエピソードではあるものの、この雑誌に関わった当時の若者から、その後にデザイン界や出版界で重鎮となるクリエーターやデザイナーが続出した。祖父江慎、松田行正、戸田ツトム、羽良田平吉、西岡文彦などがいる。さらに周辺まで見渡せば、アートプロデューサーの後藤繁雄、翻訳家の木幡和枝、博物学者の荒俣宏、前衛舞踏家の田中泯、そしてレジェンド級デザイナーの杉浦康平も「遊」に関わった。
 
 松岡正剛は工作舎の設立メンバーであり、「遊」の初代編集長だった。
 
 本書は、その松岡正剛率いる工作舎と雑誌「遊」について当時の関係者にインタビューしながら、駆け抜けた10年間を追想したものである。
 デジタル編集以前の時代だから、版を組むのも活字を拾うのも色を調整するのもすべてアナログの手作業、職人芸の世界だ。現在の出版業界からすれば、ここに出てくる人物や用語やエピソードはすべて神話の世界といってよいだろう。
 
 
 半世紀前の回顧録だけに思い出補正が存分に含まれているだろうとは言え、多くの人の証言から、当初の工作舎の内部は相当に異常であったようだ。
 
 まずは超激務。モーレツどころではない。風呂も入らず床下で雑魚寝の仮眠をとりながらの不夜城勤務は、混沌と熱気の1970年代だったにもかかわらず、労働基準局が抜き打ち査察にやってきたレベルだったようだ。
 しかも給料があってないがごとし。そもそも給与体系がちゃんと社則として整備されていたのかどうかも怪しい。工作舎にスタッフ入りする上で事前に給与についてちゃんと説明したのかどうかもかなりかなり怪しい。
 そして、極限まで突き詰めるアーティスト魂。ミリ単位の文字組み、色合わせ、採算度外視の印刷工程・紙素材の指定。けっきょく雑誌「遊」は不採算によって出資会社からの介入があり、初代編集長の松岡正剛は罷免させられるに至る。
 
 商業というよりは妥協を許さぬアーティスト集団であり、悪く言えばオウム真理教のサティアンを彷彿させてしまう。何事も平穏とバランスを重視する令和の世から見れば、ブラック企業を通り越して滅茶苦茶の極みだが、当時にあっても超激務と超薄給に耐えられずに逃げ出したスタッフは少なくなかったようである。本書に出てくるインタビューでも、松岡正剛のレトリックにうまく言いくるめられたとか、あのときは冷静じゃなかった、と振り返るコメントが見受けられる。
 興味深いことに、では松岡正剛は独裁者よろしく強烈な圧をかけて彼らにデザインや編集の枠をあてはめさせていたかというと、本書でのインタビューの限りは必ずしもそうではなさそうだ。むしろ彼はスタッフひとりひとりの特性ややりたいことを尊重し、ダメ出しはほぼなかったという。チクセントミハイ言うところの「フロー」状態に持っていくためのスタッフへの後押しの仕方をよく心得ていたということだろうか(各パートのリーダーが担当スタッフに罵声を浴びせさせてはいたようである)。松岡正剛といえば「編集」であり、彼によれば学問から料理からスポーツから森羅万象すべて「編集」なのであり、ということは人事やチームアサインも編集である。この人の癖とあの人の芸風をかけあわせればどうなるか、というチームアサインの妙を彼は編集技としてよく発揮していたのだろう。スタッフを熱狂させて業務に邁進させるだけのカリスマ的魅力が松岡正剛にあったのは確かなようだ。スタッフたちは、松岡正剛に心酔し、彼と同じような髭を生やして同じようなボキャブラリーで会話を試みたそうだし、労基局が踏み込んだときは、俺たちは好きでやってるんだと追い返したという。
 
 
 僕自身は、「遊」が刊行された時代は小学生の頃だったのでリアルタイムでこの雑誌のインパクトを体験していない。「遊」界隈で僕が最初に経験したのは、通っていた大学に杉浦康平が講演で来たのを聴講したことだった。畳み掛けられるスライドに圧倒された。継いで西岡文彦(版画家・現在は多摩美の教授)の本を図書館で見つけた。アートや思想といった曖昧模糊なものを図解と論理で語る説得力に痺れて彼の著作をかき集めた。松岡正剛という名前を意識するようになったのはその後に社会人になってからだった。会社も仕事も慣れずに疲労困憊していた頃に「知の編集工学」を読んだ。自分のセンスを信じて情報が自己増殖していくさまに委ねればよいということがわかり、僕は仕事に対しての力みが無くなった。本好きで書店通いが好きだったのでちょいちょいいろんな本を直感で選んで買っていたが、なんとなく気になったり気にいった本の装丁が戸田ツトムや松田行正や祖父江慎の手によるものを知ったのはさらに後だ。
 
 そんなわけだから、こうして書いているけれど工作舎や「遊」については僕は後から調べて知ったのである。特徴的な明朝体の感じとか、本文の周辺に図解や写真がレイアウトされる感じとか、中表紙や特集面に過剰な情報量の図解(現代風にいうとインフォグラフィックか)が現れる感じとかを、彼らの本や作品から共通に見て取れることには気づいていたが、その源泉は「遊」なのだということは、彼ら個別の芸風に触れたあとの答え合わせとして知ったのだ。三つ子の魂百までと言うがごとく、彼らの作品に「遊」の面影はありありと残っている。
 本書に書かれているような仕事のやりかたや業務環境やそれをささえる美意識は、もはや再現不可能だろうし、それを期待する時代でもない。テクノロジーの事情もずいぶん違う。著者によれば本書は在りし日をしのぶセンチメンタルジャーニーとのことだが、感傷的な過去の美談なんてものにするにはもったいない、出版史における、とある特異点を記した貴重なノンフィクションと言えよう。

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