読書の記録

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ある行旅死亡人の物語 (ネタバレ全開)

2023年11月08日 | ノンフィクション
ある行旅死亡人の物語 (ネタバレ全開)
 
武田惇志 伊藤亜衣
毎日新聞出版
 
 
 2020年4月、コロナウィルスの日本上陸で世間が騒然とする頃に、大阪に隣接する兵庫県尼崎市の風呂なし木造ボロアパートで、孤独死した老女が発見された。遺留品が極端に少なく身元不明となった。警察の調べの結果、特に事件性は疑われず、身元引受情報を求めるデータベース型の官報におさめられただけだった。
 そのおよそ1年後に、若き新聞記者が、たまたまネタ探しとしてこの官報を覗いたのである。残された所持金が多かったことに興味を抱いたこの記者は、同僚を誘って二人三脚でこの女性の正体を追跡することにしたのである。本書はノンフィクション・ドキュメンタリーである。
 
 
 ワイドショー受けしそうなところの真実はほぼ解明されない。
 
 なぜ3400万円もの大金を隠し持っていたのにあんなボロアパートに住んでいたのか
 なぜ近所付き合いを徹底的に避けていたのか
 なぜ住民票を抹消させていたのか
 なぜ右指全切断という重度の労災を負ったのに労災年金支給を断っていたのか
 なぜあんなに部屋のセキュリティを強化していたのか
 なぜ違う方角から帰ってくるのか
 なぜ記録と実年齢が12才もかけ離れていたのか
 なぜ警察が発表している身長と違うのか
 なぜ闇医者で治療をうけていたのか
 なぜこの身元不明の死体を田中千津子だと証言した人の情報が食い違うのか
 なぜ数日おきに数万単位のお金が引き下ろされていたのか
 なぜ田中竜二は消息不明なのか
 なぜ田中竜二は勤務先を偽っていたのか
 なぜ遺留品の一部が無くなっているのか
 なぜ番号が記入された星型のアクセサリーが遺留品に残されたのか
 なぜ韓国ウォン紙幣が保管されていたのか
 
 なにもわからないまま本ドキュメンタリーは終わる。え? ここで終わっちゃうの? と肩透かしを食らう。
 
 もちろんそんなことは著者も出版社も承知の上だろう。著者も出版社もばりばりのマスコミご本人であってその温度感は人一倍知っているはずだ。つまり、この本はそんな野次馬的な主旨で上梓されたのではないということになる。
 
 では、社会課題を掘り下げようとする主旨か。独居老人の孤独死、しかも身元不明。たしかにこういう例は今後増加していく一方だろう。
  しかし、本書は必ずしもそれが主眼でもないように思う。それならば、もっと孤独死に関しての日本のデータや事例を多く引用してくるだろう。
 本書はそういった社会背景や一般事例を示す情報がほとんど出てこない。本書は、この身元不明で名前が田中千津子(らしい)、住民票からも記録が抹消された謎の女性の正体を求めて、警察も探偵もたどりつけなかった彼女の正体を、ただひたすら新聞記者の執念で足を使って追い求めていく話なのである。
 
 アパートの大家さん、近所の商店街、かつて務めていたとされる工場の元従業員などをつぶさに取材するが芳しい情報は得られない。みんな彼女のことをほとんど知らない。
 そんな八方ふさがりにおいて、調査の突破口になったのは部屋に残されていた「沖宗」という珍しい苗字の印鑑だった。田中千津子の旧姓か本名かはわからないが、このレアな苗字が広島県出身者に多いことを知る。そして、レアゆえに沖宗姓の家系図をつくっているという人物と出会うことに成功する。
 これを契機に沖宗の苗字を持つ人間を渡り歩く。そしてついにこの田中千津子の親戚にあたる人を広島市内でつきとめる。
 
 しかし、田中千津子が実在した人物であることが証明されても、本人の人となりはあいかわらず茫洋としたままだった。取材に当たった人はみんな生前の田中千津子とは30年以上音信不通だったのだ。彼女の人生を追うために調査は続く。広島市内だけでなく、彼女が幼少時に住んでいた近隣の町や若いころに勤務していたという会社の情報にもあたる。女学校時代の同級生とも出会う。こうしておぼろげながらも次第に田中千津子の輪郭が形作られてくる。
 
 それでも田中千津子がなぜ広島を去って大阪に行ったのか。大阪で何があったのか、は遂にわからない。昭和30年代、高度経済成長を邁進する日本は清濁併せ呑む巨大なエネルギーの中にあった。彼女もそんな戦後の渦に飲みこまれていったようだった。
 
 
 彼女の遺留品の中で異彩を放っていたのは巨大な犬のぬいぐるみだった。「たんくん」という名前が与えられ、子どもの服が着せられていた。長年かわいがっていたことがその状態からわかった。本書表紙のイラストは、アパートを背景に、後ろ手にぬいぐるみを持つ女性の後ろ姿を描いている。強く胸をうつイラストだ。不可解な晩年であったことを示す状況証拠と、ひとつのぬいぐるみを大事に愛してやまなかったひとりの女性像というコントラストが、人生の陰影の妙を深く感じさせる。無常と諦観もふくめた人生の機敏を感じさせる。本書の主眼はそこにあるのは確かだ。
 
 とは言いながら、本書が持つ「凄み」を最も感じるのは同業者、すなわち記者やライターと呼ばれる人たちではないか。ここで炸裂するのは若い2人の記者の底知れぬパワーだ。この2人のガッツはシンプルに眩しい。
 ネットの情報も下調べには使うが、この調査はひたすら足である。彼らは警察の捜査班などではない。天下の警察手帳も捜査権限などない。しかもわずか2人である。
 経費も出ないから、自費でなんども広島や尼崎に通う。専門班ではないから普段は日常の業務をこなした上で、この女性のことを調べるのは深夜や休日である。空振りや無駄足が多くても幾多もの人に会いに行く。警察にも行く(相手にされない)。実家の跡地にも行く。工場の跡地にも行く。コロナだろうが猛暑だろうが行く。働き方改革なんてクソクラエという執念を感じる。
 何が彼らをそこまでさせるのか。この2人の記者が持つ田中千鶴子へのまなざしは、暴露趣味のイエロージャーナリズムではない。孤独な中で犬のぬいぐるみだけを友にしていた一人の女性への愛といたわりが、本書の随所で現れる。田中千鶴子は幸せだったのかを著者は何度も自問する。
 
 本書は、本来ならば路傍の石のように黙殺されるはずだった身元不明の孤独死した女性が、田中千津子、本名沖宗千津子として根も足もある人生をあるいた一人の人間であったことを浮かび上がらせた。ここにジャーナリズムの矜持を見た気がする。裏をとり1次情報に接しながら、骨太な真実を愚直に追求する。当て推量も辻褄合わせも無しである。
 その結果、実像を結んだのは、沖宗千津子という女性が実在したという真実と、彼女と邂逅し、彼女のことを覚えていて、思い出話を語ることができる何人かの人物が存在していたという真実だ。彼女は決して身元不明でも生涯天下の孤独でもなかったというその真実である。確かに人は誰でも死ぬ。しかし、人は死して名をのこす。沖宗千津子の名はのこっていた。二人の記者が足で稼いで上げた成果である。沖宗千津子もって瞑すべしであろう。
 
 アテンションエコノミーが席巻する今日に、こたつ記事でセンセーショナルな見出しつくってよしとする安易な記者やライターへの痛烈なメッセージがここにはあるといってよいだろう。

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