宗恒の茶庭

「茶道 思いつくまま」や「和の美術」など

2022年は利休生誕500年記念の年

2022-03-24 20:43:20 | 茶道
3月23日のBS5ch「京都ぶらり歴史探訪」で大徳寺を取り上げていました。
今年は利休生誕500年だそうです。1522にお生まれで1591年に亡くなられました。
ナビゲーターは女優の檀れいさんと、作家の伊東潤氏です。

大徳寺は利休にとても縁の深いお寺です。
TVでは大徳寺の三門や唐門(日暮門)、黄梅院、聚楽院、総見院などを映していました。

三門は雪駄をはいた利休の像を2階に置いたことで秀吉の怒りをかったことで有名です
唐門は豪華絢爛、日光東照宮の陽明門はここの唐門を真似して造られたとのことです。
黄梅院の直中庭(じきちゅうてい)はなんと利休の作庭で苔と石で作られて瓢箪の形をした空池もあります。瓢箪は秀吉の千成瓢箪におもねって作ったのでしょう。
聚光院は利休の菩提寺でお墓があります。そこの庭、百積庭も利休が考案した庭です。
総見院は信長の木造座像があります。その頃鉄砲が外国からはいってきて信長は堺の商人としての利休の商才をひどくかっていたそうです。
ちなみに非公開のところが多くTVなので入れたとこが多くあります。

「武士でない利休がなぜ切腹を受け入れたのでしょうか」とナビゲーターの檀さんが質問されました。

一緒にいらした作家の伊東潤氏(「茶聖」を書かれた作家)は、【利休の侘び感と秀吉の侘び感が違ってきて、つまり茶の湯の考えが違ってきてしまったため、秀吉に対する当てつけであったのではないか。利休が自分自身の価値を一番高く売れるタイミングでの切腹であったのではないか。切腹をしたことで茶の湯を高め、現在につながっているのではないか。】と言われました。

私は1989年4月15日に行われた千利休居士400年遠忌法要茶会に参加しました。
その時の私のメモには聚光院での今日庵席、弧逢庵での名誉教授席、高桐院での京都席、それに三玄院での東京席など巡ったと書かれています。
今日席では若宗匠(今の宗匠)がお道具のご説明を、納屋宗淡氏がお運びされていました。裏では宗匠夫人などがお薄を点てていらしたとか…
大変贅沢で素敵な茶会でありました。


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茶道のこれから

2022-03-24 07:27:25 | 茶道
各服点になって丸2年。
今までのようにはいかなくなっています。一碗のお濃茶を皆で味わう、回し飲みはもうなくなりました。
お濃茶点前稽古も一客一亭でしています。

コロナが収束しても多分回し飲みは復活しないと私は思います。
湿し茶巾で飲み口を清めれば大丈夫とされるでしょうが、コロナの感染の恐ろしさを経験した私たちはもう前に戻ることは疑問です。
これからも新しい感染症が出てくるやもしれません。

利休様が今生きていらしたら、どうなさるでしょう?

茶道具にもどんどん新しい物を取り入れたり、小間の草庵を建てられたり、当時としては前衛的な改革をされて、茶の湯を盛り立てられた方です。
時代が時代ですから当時の茶の湯は、武士の士気を高めるために小間で濃茶を回し飲みしながら結束を固め、密談の場としていたともいわれます。
今のように禅の精神や思いやり精神を重んじるという悠長な茶の湯ではなかったと思います。
時代によって茶の湯の意義はどんどん変化していったのでは・・・
明治になるとまた茶の湯は苦しい時代になります。武士がいなくなり、外国のものがいっきに入り、伝統文化はますます窮地に。
お家元たちは茶の湯を存続させるため非常に苦労されたようです。立礼のお茶を考案されたり、女子教育に作法として茶の湯を取り入れたりされました。そのお陰で現代も茶の湯は多くの主に女性達が茶を趣味としてや、心のよりどころとして学んでいるのです。

本題に戻って、やはり利休様でしたら臨機応変に画期的に新しい茶の湯を考案されるのではないかと思います。
"新しい酒を古い革袋に入れる” のように感染症が起きた令和の時代に何か変化が起きるような予感が・・・
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