三月十五日(金)晴れ。
「大吼」が終わったと思ったら、今度は「燃えよ祖国」の編集作業。今回の号は、先月の野村先生の生誕祭にて民族革新会議の犬塚博英議長に講演をして頂いた「わが生の須臾なる命」を、群青の会の大熊雄次氏にテープ起こしをして貰い掲載する。群馬県にある雷電神社には、群青の会の正田暢鍵氏が建立した、野村先生の句碑「わが生の須臾なる命いかにせむ」がある。
「須臾(しゅゆ)」があります。これは、「たちまち」という意味なのですが、本書の中でもたびたび出てまいりますし、出所後、一水会の勉強会で講演された際も、「須臾にして・・・」という言葉を用いて、瞬きの万分の一の時間を表現されていた事をよく覚えています。実は「生長の家」の教えの中にお経がありまして、「須臾にして消ゆ」という言葉が随所に出て参ります。数や時間の概念は、一、十、百と続き、京、垓と大きくなっていき、逆に下ると、分、厘と続きますが、そのマイナスの十六乗が「須臾」です。同じ「たちまち」という意味でも、「瞬間」「一瞬」「瞬時」など表現はさまざまですが、その中でも「須臾」は極めて短い時間を意味し、人生は須臾であるといえます。」(犬塚議長の講演より)。
夜はおとなしく我が酔狂亭で独酌。今日は久しぶりに「さつま島美人」を楽しんだ。