Catnap Room of にゃんこ

心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつけてます♪

青天を衝こう! vol 2

2021-12-18 19:07:06 | おでかけ
前回訪れた 「戸定邸」 が、非常に興味深い場所だったため、これを機に、東京都北区の飛鳥山にある、 「渋沢栄一史料館」 にも行ってみたいと思いたったのは、 「戸定邸」 を訪れたその日のことである。

「戸定邸」 から帰ってすぐ、ホームページで 「渋沢史料館」 の利用について調べたのだが、なんと 12 月は予約制で、予約ページをクリックしたら、行こうと考えていた日は、午後 1 時半から 「 1 名」しか空きがなく、慌てて確保した次第だ。 
この予約がとれれば、 「渋沢史料館」 の他に、 「青淵文庫」、「晩香廬」 にも入れるのでまずは一安心。
折角なので、 12 月 26 日で終了となる 「大河ドラマ館」 へも行こうかな。

コロナ感染者の数が少ない今のうちに、と久しぶりに電車に乗って京浜東北線の王子へ向かう。
王子駅前にある標高 25.4 メートルの飛鳥山山頂へは、 「アスカルゴ」 というケーブルカーが、無料で走っている。



これ、楽しいんだけど、所要時間 2 分で、あっという間に山頂到着 (笑)



尾根 (?) を歩いて約 5 分、北区飛鳥山博物館内にて開催されている、 「大河ドラマ館」 に到着。



「渋沢史料館」 は時間厳守なので、その時間まで 「大河ドラマ館」 で時間を潰そうと目論んでいた私は、当日券にて入場。
本当はこちらも事前予約制ではあったのだが、確信犯的当日券狙い。
時間つぶしのつもりで入った 「大河ドラマ館」 は、エンターテイメント的に楽しい趣向が凝らされていて、それはそれで楽しかった。
時間つぶし・・・・なんて失礼な話だったわ (笑)

13 時 20 分頃、お隣にある 「渋沢栄一史料館」 へ向かう。
検温、消毒、マスク着用で、 3 つの施設に人数を振り分けながら入場する。



「渋沢史料館」 の常設展は圧巻である。
栄一が生まれた年から、写真や資料をふんだんに使い、彼の生涯と実績の説明が時系列に並ぶ。
2024年度から、新一万円札の肖像となる渋沢栄一は、 「日本における資本主義の父」 と言われているだけあって、壁面には、栄一が携わった 500 の企業や、 600 の社会公共事業の名前がずらっと書かれている。
ざっと見ただけで、見知った企業や公共事業ばかりで、やっぱりすごい人物であると実感せざるを得ない。
企画展は、 「渋沢栄一から妻千代への手紙」 と題して、たくさんの手紙が展示されているのだが、やさしさが溢れた手紙の内容に引き込まれ、つい、ひとつひとつ読んじゃいました (笑)

「渋沢史料館」 の次に向かったのは、栄一の喜寿を祝って、大正 6 年に建てられた 「晩香廬」



内外の賓客を迎えて歓談を交えた交流を行っていた、洋風の茶室だそうです。

お隣にある 「青淵文庫」



青淵は、渋沢栄一の雅号ですが、この建物は大正 14 年に傘寿と子爵への昇格を祝って建てられ、多くの漢籍や書籍を保管する書庫になる予定だったのですが、完成目前の大正 12 年に起こった関東大震災に遭い、保管するはずだった多くの書籍が焼失してしまったそうです。
彼を導いた論語の蒐集や、徳川慶喜公の伝記作成資料などの保存が目的だったそうですが、さぞかし残念で複雑な気持ちだったことでしょうね。

さてさて、大河ドラマ 「青天を衝け」 の最終回まで残り 2 回となりました。
この期に及んでいろいろ学んじゃったので、なんかまた最初っから見たくなっちゃったなー。

青天を衝こう! vol 1

2021-12-18 18:43:04 | おでかけ
先日、南柏にある 「#ワークマン女子」 へ行ってまいりましてね。
10 月末に友人とみなとみらいに行った折、桜木町駅前のビルの中にある 「#ワークマン女子」 に寄ったのですが、これが思いのほか興味を引くお店でして、私の居住区近くにもないかなーと、探しておりました。



ウチの近くにも昔ながらの、がっつり 「ワークマン」 はあるんですが (笑) 、見つけた 「#ワークマン女子」 は、南柏。
ええ、ちっとも居住区近くではないんですが、バビューンといってまいりましたよ。

で、せっかく柏まで来たんだから、そのまま帰るのも勿体ないなー、どこか寄れるところはないかなーと、カーナビ眺めながら考えていたところ、ふと思い出したのが、松戸にある 「戸定邸」

実は私、今年の大河ドラマ 「青天を衝け」 をずーっと見ておりましてね。
毎年大河ドラマは、最初の数回を見てその年一年見続けるかどうかが決まるのですが、幕末から始まった時代背景もあり、明治維新後の展開も面白く、とうとう 1 年見続けてしまいました。

その主人公・渋沢栄一と共に、慶応 3 年 ( 1867 年) のパリ万博へ、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の名代として参加したのが、慶喜の異母弟にあたる徳川昭武 (当時 13 歳)。
その徳川昭武が、明治 17 年以後居住した建物が、この 「戸定邸」 である。



実は私、もう何十年も前から、松戸にある 「戸定邸」 の名前だけは知っていたのですが、ここが徳川の史跡であるとは露ほども知りませんでした。
てっきり土地の豪農屋敷かなにかだとばっかり思っており、調べることもせずに数十年。
ここが徳川の史跡だと知ったのは、 「青天を衝け」 の紀行コーナーで紹介されていたからに他ならない。
ふぅ、知らないということは、本当に恐ろしいことだわ。
その昔、静岡の 「浮月楼」 に行ったときも、そこが徳川慶喜の屋敷であったことを知らず、ぼーっと帰ってきてしまった残念な記憶を思い出す。

ここには、 「戸定歴史館」 も併設されており、その展示品も非常に興味深いものが多かった。



徳川昭武が明治 9 年 ( 1876 年)にフィラデルフィア万博の御用掛として渡米した際の写真をはじめ、徳川慶喜や渋沢栄一と交流した手紙や写真、職員の日誌などから垣間見ることができる明治以降の徳川慶喜の姿など、いままで知らないことばかりで、非常に面白いものでした。

もちろん、 「戸定邸」 にも入ることができます。



座敷から見える広大な庭園を目の前に、もう気分が晴々。



建築物としても興味深い戸定邸の間取り図を片手に、屋敷のあちこちを徘徊する私は、間取りフェチであることなどを差し引いても、十分楽しかった!