幸せの深呼吸

幸せは自分の中にある。
幸せは自分が決める。

なぜこの時期に 小麦粉値上げ!ケーキもパンも…X’masの食卓に異変 今年はお得?でもイチゴは…

2018-12-20 | 食品の安全、料理

ゴマも値上がりするらしい。

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20181220-00000061-ann-bus_all

 製粉大手4社が20日の出荷分から小麦粉を値上げした。クリスマスを目前に控えての値上げに、洋菓子店などからは「なぜこのタイミングで」という嘆き節も上がっている。

 次々と焼き上がる食パン。他にもたくさんのパンが職人たちによって手際よく作られていく。業務用の小麦粉が20日の出荷分から値上がりする。製粉会社大手4社によると、1袋25キロあたりでパンなどに使う強力粉を25円、うどんなどに使う中力・薄力粉を130円から135円、国内産小麦100%の小麦粉を190円から200円値上げする。政府が製粉会社に売り渡す輸入小麦の価格が10月から平均2.2%引き上げられたことが原因だという。一日に小麦粉を150キロほど使うこの店では、今回の値上げで毎月1万7000円ほど材料費が上がるという。今のところパンの値上げの予定はないが、推移を見守りたいと話す。一方、クリスマスを前に…。2000台のクリスマスケーキを用意する予定の店。ケーキは、スポンジ部分に値上げされる薄力粉が使われているのだ。仕入先からは値段の安い薄力粉を勧められることもあるが、別の商品にしてしまうと食感や風味などが変わってしまうので変えられないという。

https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/000143283.htmlX’masの食卓に異変 今年はお得?でもイチゴは…

 14年ぶりの値下がり。クリスマスイブの食卓に欠かせない食品に異変が起きている。

 クリスマスも目前。料理を楽しみにしている人も多いのでは。ケーキに欠かせない真っ赤なまん丸イチゴだが…。
 フォーシーズンズカフェ・村杉淳一店長:「(今年は)メインで使っている大粒のイチゴが少ない」
 ケーキからイチゴが消えてしまう?理由はこの冬の暖かさ。クリスマスに向けて育ててきたイチゴが暖冬の影響で、小ぶりかつ予定より早く収穫期を迎えてしまったという。品薄が心配されるなかで鶏肉がお手頃に。
 アキダイ・秋葉弘道社長:「平年に比べれば1割ぐらいは安い。お店としても売りやすい状態」
 さらに鶏肉以上に安くなっているのが卵だ。最需要期の12月。取引価格が最も高くなるはずが、安い。この時期に価格が下がるのは実に14年ぶりのことだ。
 アキダイ・秋葉弘道社長:「(暖冬で)卵の売れ行きが若干、低下していた。値段が上がらなかった」
 となれば、今年のクリスマスは卵料理がお得に?一日約300個の卵を使うオムライス専門店。卵の価格は2カ月前から徐々に下がっているという。
 神田たまごけん神保町店・白井康誠店長:「前年に比べて先月で約10%下がっていて、今月になると約20%落ちています」

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フレディ・マーキュリーの生涯の恋人、メアリー・オースティン

2018-12-20 | Music
 
「どうして自分はメアリーの代わりになれないんだって、僕の恋人たちはみんな僕に聞いてきた。そう言われてもね……。ただ単に、無理なものは無理なんだ」とフレディ・マーキュリーは1985年、『ニューヨーク・ポスト』紙で語っている。『ボヘミアン・ラプソディ』ではイギリス人女優ルーシー・ボイントンが、そのフレディの生涯の恋人、メアリー役を演じている。イギリスの古着屋での最初の出会いから、ロックスターの最後の日々まで、彼女は「Don’t Stop Me Now」を歌ったシンガーに誠実な愛を貫き通した。

1969年。19歳のメアリーは「ビバ」という名の小さな古着屋で働いていた。店の通路の角で、彼女は初めてその男と視線を交わす。アメリカ版『ヴァニティ・フェア』誌のインタビューで、彼女はその時の男の印象を「野性的な雰囲気のアーティスト風情のミュージシャン」と語っている。24歳のフレディ・マーキュリーはいつものように、店の「おしゃれな女性店員たち」を口説きにやってきたのだ。彼はまだ「We Will Rock You」の伝説的な歌手ではない。イギリスに移住して5年が経ったところだった。

「彼は私がそれまで出会った誰とも違いました」とメアリーは2013年に『デイリー・メイル』紙で語っている。「とにかく自信に満ちあふれていました。一方の私は、いつも自分に自信が持てなかったんだけど……」。しかし、彼女を最初にデートに誘ったのは、その後にクイーンのギタリストとなるブライアン・メイだった。フレディがようやく彼女に声をかけるのはその5カ月後。さらに5カ月後、ふたりはロンドンのケンジントン・マーケットに近いアパートに引っ越して同棲を始める。

フレディがこのアパートに住んでいた期間は長くない。ミュージシャンとしてキャリアを築くことに懸命だった彼は、ロックバンド「アイベックス」に合流するため、ひとりでリバプールに移住。その後、彼をスーパースターの地位に押し上げたバンド、クイーンを結成する。

恋人の成功によって、メアリーは突然、世間の注目の的となる。しかし、労働者階級出身の控えめなこの女性は、スポットライトの光に居心地の悪さを覚えるばかり。両親はともに耳が不自由で、父親はクロス職人、母親は家政婦という家庭で彼女は生まれ育った。

出会いから4年後の1973年、フレディは彼女にプロポーズをする。「フレディはクリスマスに、大きな箱のプレゼントをくれました」とメアリーは『デイリー・メイル』紙に語っている。「中には別の箱が入っていました。その中にも別の箱が入っていて、そうやって次々に箱を開けていきました。彼らしい、いつもの遊びだと思っていました。すると最後の箱に、美しい翡翠の指輪が入っていたんです。私はびっくりしてしまいました。こんなこと、まったく期待していませんでしたから。私はただ小声で『はい、喜んで』と返事をするだけで精一杯でした」

結局、このプロポーズはフレディの気まぐれのせいで立ち消えになってしまう。翌年、メアリーはロンドンの小さな店で素敵なウェディングドレスを見つけた。「その後、フレディが結婚の話をすることはなかったので、彼の気持ちを探るために、そろそろドレスを買ってもいい頃じゃない?と聞いてみるしか手はありませんでした。ところが彼の返事はノー。彼にはもう、その気はありませんでしたし、以降もその気になることはありませんでした」
 
婚約解消後も信頼し合ったデュオ。

フレディが自らのセクシュアリティについてメアリーにカミングアウトした後は、二度とふたりの間で結婚が話題になることはなかった。

その2年前からすでに、パートナーの交友関係に疑問を抱き始めていたメアリーだったが、彼がコカイン・パーティや乱行パーティに頻繁に足を運んでいることを知ってしまう。「僕はバイセクシャルだと思う」と本人が認めたのは、1976年のこと。「違うわ、フレディ。あなたはゲイよ」――イギリスの日刊紙に彼女が語ったところによると、メアリーはフレディにそう答えたと言う。その後、ふたりはきっぱりと婚約を解消した。しかし、ふたりの間に絆が絶たれることはなかった。

6年続いた交際以降も、メアリーは相談役兼個人秘書としてフレディをそばで支え続けることになる。「Love of My Life」、つまり“生涯の愛”という曲が誕生するきっかけになったのも、彼を支え続けたのも彼女だった。フレディ自身、ことあるごとに元婚約者への賛辞を口にし、彼女に30万ポンド(現在のレートで約4300万円)のアパートをプレゼントしてもいる。

「メアリーは僕の唯一の女友達だ。他に女友達はいらない」と彼は『ニューヨーク・ポスト』紙に告白している。「僕にとって彼女は内縁の妻なんだ。結婚しているのと変わらない。僕たちはお互いを信じているし、それで十分だ。メアリーに惚れたように、男に惚れることはできないと思う」

『ミラー』紙によれば、ある時メアリーが彼の子どもが欲しいと言うと、フレディはこう答えたらしい。「僕は君のことをずっと愛している。でも君とセックスはできない。もう一匹猫を飼うほうがいいな」。フレディとアイルランド出身の美容師ジム・ハットンとの交際はまだ非公式のものだったが、その頃すでに始まっていた。だがそんなことは問題ではなく、「メアリーと自分は一緒に年老いていく」ものとフレディは信じていた。過酷な運命が自分を待っているとは思いもせずに。

そして、永遠の別れ。
1987年、フレディがエイズに感染していることを最初に知らされたのは、メアリーだった。「胸が潰れるような思いでした」と、彼女は『デイリー・メイル』紙で回想している。

1990年、彼女は、塗装工のピアス・キャメロンと出会う。ふたりの間にはリチャードとジェイミーというふたりの子どもが誕生する。フレディは長男の名付け親となった。1年後の1991年11月24日、メアリーに見守られてフレディは息を引き取った。享年45歳。メアリーは当時、動揺した様子でこう発言していた。「私は自分の家族を失いました。だって、フレディが死んだのですから」

フレディの死後、彼女とクイーンとの関係は悪化する。バンドのメンバーがメアリーに対して反感を抱いたのは、フレディの遺産の半分が彼女の手に渡ったことと無関係ではないようだ。推定2000万ポンド(現在のレートで約28億5000万円)と言われる彼のロンドンの住居「ガーデン・ロッジ」も彼女が相続した。「フレディはこの家について、私が思っている以上に大変な問題になると言っていました」と、メアリーは2013年、『デイリー・メイル』紙に語っている。「クイーンの残されたメンバーがあの家を相続していたら、どう分割するかで揉めて仲違いしたに違いありません。私には理解できないことだけど。だって、ただのレンガとモルタルの塊に過ぎませんから」

フレディは火葬に付された。彼への最後の忠誠の証として、メアリーは秘密裏に遺灰を散灰している。場所は明かされておらず、フレディの両親さえどこなのか知らないという。「遺骨をまいた場所は決して誰にも言いません。それが彼の望みでしたから」とメアリーははっきりと断言している。

永遠の別れから7年後、彼女はニコラス・ハルフォードという名の男性と結婚し、2002年に離婚している。現在67歳。フレディから相続した屋敷で、好奇の目にさらされることもなく、平穏な生活を送っている。

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「ジャズの父」ブルーノート閉店へ

2018-12-20 | Music

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181219-00000047-mai-soci

「マスターに出会わなければジャズ界にいなかった」。大阪音楽大学(大阪府豊中市)のすぐそばにある老舗のジャズ喫茶店「ブルーノート」が開業50年を目前に、12月いっぱいで閉店する。多くの学生が来店を機にジャズに関心を抱き、プロのジャズ奏者として育った。そのうちの一人のジャズピアニスト、石井彰さん(55)=大阪音大特任教授=が12日、感謝を込めたライブを開き、集まった常連客や音大生が「ブルーノート」の記憶を胸に刻んだ。

【写真特集】「ジャズの父」ブルーノート閉店へ

 元サクソフォン奏者の菅原乙充(おとみつ)さん(81)がブルーノートを開店したのは1969年6月。はじめはレコード、近年はCDのジャズが流れ、その中でサイホンコーヒーを味わう。壁には菅原さんが手描きしたマイルス・デイビス、デューク・エリントンら著名なジャズ奏者の肖像画が掛けられている。アルコール、食事類はなく、ジャズが中心の店だった。

 大阪音大の短期大学部に国内の音大で初となる「ジャズ・ポピュラー」の部門が創設されたのは92年度。「ブルーノート」はその20年以上前から音大生にジャズの魅力を伝えてきたことになる。クラシックを専攻する学生が来店をきっかけにジャズ歌手になるなど影響を与えては、学生たちが楽器を持ち込んで「コーヒー1杯で練習できる店は他にない」と「練習場」にもなっていた。

 今回のライブを企画した石井さんもその一人だ。大阪音大の受験生だった冬、ホットコーヒーを飲もうと立ち寄った。敷居が高く感じ、勇気を出して扉を開けた。そこには「眼光するどいマスター」の菅原さんがいた。作曲科に入学後、毎日店に通ううちにジャズの道を目指すように。後に国内外で活躍するベースの井上陽介さん、ドラムの岡田ケイタさん、小島勉さんたちと店で練習した。口数の少ない菅原さんは直接的なアドバイスはしない。演奏がつまらなければ居眠りし、良くなるとカセット録音、ビデオ録画をしてくれた。

 その後、仲間が大きな舞台を目指して、次々と上京。大阪にとどまっていた石井さんには母校の大阪音大から「ジャズ・ポピュラー部門」の教員となる声がかかった。仲間の活躍が気になる一方、結婚をして「安定した職」にも心が揺れていた。そこで「守りに入っとるんちゃうか」と東京行きを勧めたのが菅原さんだった。「マスターの一言で決心できた」。91年から東京に拠点を移し、新たな仲間に恵まれ作曲などの活動の場も広げた。そして、大阪に通いながら母校の教員も務めた。今では世界的トランペッター・日野皓正さんのクインテットなどで活躍する石井さん。「私にとってマスターはジャズの父」と慕い、37年間通い続けてきた。

 そんな菅原さんは昨年から体調を崩し始めた。認知症もあり今秋に閉店を決め、喫茶店としての営業は既に終了。年内にプロ奏者が練習に使うなどして、年末に正式に廃業する。

 12日のライブには、現役音大生やプロ奏者ら約30人が集まり、居合わせたメンバーでセッションを繰り広げた。十数人でいっぱいになる店舗に入りきれず、店外には人だかりができた。ライブの締めくくりは、菅原さんが好きなジョン・コルトレーンの「インプレッションズ」。菅原さんは涙を浮かべながら、指でリズムを取って耳を傾けた。「マスターがいなければ、今の自分はない」と石井さんをはじめ、“教え子”でもある常連客が目をうるませると、菅原さんは「みんな可愛らしい顔してんな」と笑わせた

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Xmasデートする未婚者は2割以下という現実

2018-12-20 | 徒然なるままに

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181219-00254919-toyo-soci

 2018年実施のソロもんラボ調査によれば、2017年クリスマスに「プレゼントを買った」というソロ男は、20代でもたった22%しかいません。既婚男女ですら25%程度です(子に対するプレゼントは除く)。

 「デートやイベントなどをした」率はさらに下がり、20~30代のソロ男女ともに2割を切ります。「自分や友達の誕生日のお祝いをした」率(約27%)よりも低く、たとえソロだとしても、みんな以前ほど「クリスマスまでにパートナーが欲しい」などと焦ってもいないし、「イブだから誰かとデートをしなきゃ」という強迫観念もありません。粛々と普段どおり過ごしているわけです。

 そういうと、若者の草食化とまたご指摘を受けそうですが、この連載でも何度も書いているとおり、「彼氏・彼女のいる率」は、1980年代から大体3割しかいません。そうした「恋愛強者3割の法則」によれば、7割のソロ男女に相手はいないし、いないほうが当たり前なのです。

■クリスマスデートは80年代から

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やせ細り、背中が曲がり…精神科に「薬漬け」にされた青年の最期

2018-12-20 | 医療、健康

あぁ、これはかわいそう。

入所、入院しなければ、死ななかったのに。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181219-00058809-gendaibiz-bus_all

 串山一郎さんは、国立病院機構が運営する広島県の精神科病院で、4ヵ月半にわたって隔離と多剤大量投薬を受け、38歳で亡くなった。なぜ一郎さんは、命を落とさなければならなかったのか? 遺族や関係者への取材を続ける、元読売新聞医療部記者・佐藤光展氏が、新著『なぜ、日本の精神医療は暴走するのか』で報じた内容の一部を特別公開する。

大切な「リュック」を取り上げた

 一郎さんの主訴は「不眠、興奮、多弁」とカルテに記されている。自傷や他害の恐れはなかった。入院初日はどのような状態だったのか。看護記録から関係する部分を抜き出してみよう。

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13時30分 入院
独歩にて入院。大きな声を出し、歩きまわる。入室しようとせず。スタッフ付き添い様子観察する。
14時45分 個室施錠開始
再三の促し、介助にて入室。興奮強い。
15時30分
放便、弄便あり。開けてほしいとドア叩き訴えている。上半身裸になっている。
22時00分
大声を出してドアを叩いている。ドアを指さし「開けて」と訴える。言動は支離滅裂なこと多い。
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 いきなり隔離や拘束をされたら誰でも興奮し、言動が支離滅裂になる。それをおかしな言動の根拠として提示する医療者の頭の中こそ支離滅裂で病んでいる。

 一郎さんは自宅での排便、排尿に問題はなかった。一人でトイレに行けた。ところが観察室という名の隔離部屋に備え付けのトイレはなく、ポータブルトイレが置かれただけだった。そして一郎さんは便や尿を頻繁に漏らすようになった。投与された薬の影響もあったのかもしれない。

 翌17日の看護記録に重要な記載がある。

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8時00分
夜間ナップサックをずっとかけて過ごす。前室に預かる(A指導員より)
8時20分
訴えなく室内徘徊している。
9時00分
大声や何かを話している。人のいない方向へ向けて会話のように声を出している。
16時00分
大声で独語していること多いが、「リュックを持って来い」というニュアンスのことを言っていることが多い。
20時30分
巡回毎異常なし。スタッフルームの方に向かって「リュックサックがほしい」と言っている。
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 これは中学生の時、母親の美奈子さんが買ってあげた黒色のリュックサックだった。どこに行くにも肌身離さず持ち歩いていた。生地のあちこちが傷んでいたが、一郎さんにとっては人生を共に歩んできた分身であり、心を落ち着かせるのに欠かせない宝物だった。

 これとは別に、入院時には黒地に花柄の入った巾着袋と、えんじ色のリュックサックも持参していた。どちらも小学生の時に購入した思い出の品で、眠る時はいつもこれを抱いていた。しかしこの二つは見るからにボロボロで、観察室に入る前に「これは預かっておきますね」とA指導員に取り上げられてしまった。

 言わば「無害の精神安定剤」を奪われた一郎さんは、残った黒色のリュックを背負い、眠れぬ夜をじっと耐えたのだ。しかし翌朝、病院はそのリュックさえも取り上げ、落ち着かなくなった一郎さんに何種類もの薬を投与し続けた。退院時、黒色のリュックは返却されたが、巾着袋とえんじ色のリュックは戻ってこなかった。ゴミのように扱い、処分したのだろう。

薬の大量投与で、体重が激減

 一郎さんは精神疾患を発症して入院したのではない。落ち着かなくなったのはいきなり躁病を発症したためではなく、両親の病気を原因とした生活環境の変化のためだった。一時入所する広島市内の福祉施設の関係者らが、受け入れ条件として薬物調整を求めたため、疲弊した両親は入院による調整を受け入れざるを得なかった。

 ところが病院は、隔離、リュック取り上げ、ポータブルトイレでの排便強制などを行い、一郎さんをますます混乱させた。そして大声を上げたり、独語を続けたりする反応を躁状態とみなし、これを抑える目的でリーマス、エビリファイ、テグレトール(抗てんかん薬だが躁状態を抑える作用もある)を投与し続けた。さらに催眠を目的に、フルニトラゼパム、ルネスタ、ニトラゼパム、コントミンの4剤を使い続けた(頓用のレンドルミンも27回使用)。

 環境変化に弱い自閉症の人に、病院で対応する医療者の苦労は容易に想像できる。状況によっては薬で抑えたり、隔離をしたりしなければならない場面もあるだろう。だが、環境変化による混乱を同じ人間として理解し、想像力と共感を持って接する努力を怠り、終始、隔離と薬でしのごうとする対応は人権無視も甚だしく、到底容認できない。

 入院時に60キロあった一郎さんの体重は、退院時には47キロと13キロも激減した。筋力が著しく衰えたかのように足元がふらつき、「転倒しそうで怖かった」と美奈子さんは振り返る。病院はこの異様な減量について「糖尿病の治療のため」と美奈子さんに説明した。

 だが、2010年頃に基準値を超えた一郎さんの血糖値は、子供の時から診ている内科医の勧めで70キロ台から60キロ台に体重を絞ったことと、薬の効果もあって落ち着いていた。入院直後の血液検査では、ヘモグロビンA1cは6.0%で基準値内。空腹時血糖も96㎎/dlで基準値内に収まっていた。

 従来の治療で血糖はコントロールできていたのに、なぜ健康を害しかねないほどのさらなる減量を短期間に強いたのか。向精神薬の中には血糖値が跳ね上がるものもあるため、用心したのだろうか。一番の糖尿病対策は食事と運動だが、一郎さんを隔離部屋に閉じ込め続けた病院が、継続的な運動療法を行った形跡はない。

 食事も隔離部屋で摂らなければならなかった。一郎さん(身長158㎝。標準体重は55㎏)の栄養状態を評価した病院の管理栄養士は、隔離部屋生活での一郎さんの必要エネルギーは1日1900kcalと推定した。食事は介助もあってほとんど食べていたようなので、推定摂取エネルギーは2000~2100kcalだった。それなのになぜ、体重は標準を著しく下回るまで減り続けたのか。

院長は「気づかなかった」と証言

 抗精神病薬を多く摂取し続けると、筋肉の強張り、背中や首などが曲がるジストニア、手足の震え、落ち着いて座っていられないアカシジアなどの副作用が高頻度で生じる。これらは錐体外路症状と呼ばれる。

 一郎さんに突然表れた背部の湾曲は、錐体外路症状と見るのが自然だ。さらに、筋肉の激しい硬直が続くと筋肉組織が壊れる横紋筋融解症が引き起こされることもある。筋肉が衰えるので長期に及ぶと体重は減少し、悪化すると腎障害などで死亡する危険がある。

 横紋筋融解症が起こると、血液検査でCK(クレアチンキナーゼ)値が急上昇する。実際、入院期間の前半に一郎さんのCK値は高値を続け、2013年12月の検査では2632U/I(男性の正常値は62~287U/I)に達した。CK値は激しい運動後にも上昇するが、狭い隔離部屋で鎮静の薬を多く投与された一郎さんが激しい運動を続けるとは考えにくい。看護記録にもそのような記載はない。

 多量の薬の影響で薬剤性心筋炎や深刻な不整脈が起きていた可能性もある。一郎さんが飲んでいたリーマス(炭酸リチウム)とテグレトール(カルバマゼピン)は、「急性および慢性心筋炎の診断・治療に関するガイドライン」(日本循環器学会、日本心臓病学会など6学会合同研究班が作成)で「心筋炎を惹起する薬物」としてあげられている。だが主治医の院長は心電図を一度もとらなかった。

 退院時に院長が作成した「退院時総括」に関連する「退院時看護要約」には、「2013年11月下旬頃より、背部の湾曲があり、前屈姿勢で過ごす事が多くなった。薬剤調整し、湾曲は軽減したが、前屈姿勢が続いている状態である」との記載がある。ところが院長は、2018年7月に広島地裁で開かれた民事裁判の法廷で、背部の著しい湾曲に「気づかなかった」と証言した。

「帰りたいです」

 一郎さんは2014年3月3日、衰弱し切った状態で退院した。夜も寝ないでしゃべり続けるほどの体力は明らかに失われていた。

 30歳代には見えないほど老け込んだ一郎さんを心配した美奈子さんは「家に一旦連れ帰って療養させたい」と訴えた。しかし、広島の施設は「ここに慣れるまでは自宅に帰さないようにする」との方針で、一郎さんは退院したその足で入所した。

 入院中に生じた背部湾曲と体力低下、さらに睡眠薬の影響もあって、一郎さんは施設内で何度もふらついた。14日朝、ベッドから起き上がろうとして転倒し、左の眉の上を8針縫うけがを負った。頭部を激しく打った恐れがあるため、病院でCT検査を受けた。

 18日には38.6度の熱を出し、施設職員が内科に連れて行った。一郎さんがこれまで受診したことのない医療機関だったため、医師がのどを見ようとしても口を開けなかった。インフルエンザ検査は陰性だったので、医師は通常の感冒と診断した。風邪薬と解熱用のボルタレンが処方された。美奈子さんは20日、かかりつけ医を受診させたいと施設職員に訴えたが実現しなかった。

 21日の朝食後、一郎さんは「帰りたいです」「助けてください」と訴えた。23日午後9時30分、就寝前の薬を服用。ウトウトしながらも布団から何度も起き上がろうとしたが、午後11時30分に就寝した。

 24日午前6時、居室を訪れた職員が声をかけても反応せず、救急車を呼んだ。すでに死後硬直があったため救急搬送はされず、警察が到着して検視を行った。着衣に乱れはなく、死因は急性心筋梗塞とされた。死亡日時は24日午前2時頃と推定された。

 一郎さんの死因は本当に急性心筋梗塞だったのだろうか。抗精神病薬などの過剰な投与は致死的な不整脈を招き、患者を突然死に至らしめることがある。

 一郎さんが飲んでいたコントミンの添付文書には、重大な副作用の項目に「突然死 心室頻拍」とある。先に指摘したように、心筋炎が起きていた可能性も捨て切れない。だが、美奈子さんが望んだにもかかわらず行政解剖は行われなかったため、正確な死因はわからず終いとなった。

施設と病院を訴えたが…

 陽三さんと美奈子さんは、広島の入所施設(被告は施設を運営する社会福祉法人)と、入院していた病院(被告は国立病院機構)を相手に2件の民事訴訟を起こした。「重複障害者が直面している非人道的な扱いを多くの人に知って欲しい」との思いがすべてだった。国立病院機構相手の裁判は広島地裁で2018年現在も続いている(院長の証人尋問はこの裁判で行われた)。入所施設が十分な見守り義務を果たさなかったと訴えた裁判は、すでに敗訴した。

 敗訴した裁判で美奈子さんが見守り義務以上に問題視したのは、施設関係者が入所条件として睡眠薬の使用を強く求めたことだった。この点について、2017年3月に控訴を棄却した広島高裁は次のような見解を示した。

 「被控訴人が睡眠薬の投与等を求めたのは、被控訴人の組織運営の都合も否定できないものの、主に、控訴人らの健康状態から一郎を介護していくことが困難になったことから、これから施設での生活を継続していくことを迫られる一郎への配慮であることが認められる」

 薬物を使ってでも施設の都合に合わせて生活スタイルを「矯正」することが、一郎さんへの配慮だというのだ。本人や家族の意思は置き去りにして。

 このような本人不在のありがた迷惑な発想を突き詰めていくと、その先に相模原障害者施設殺傷事件の植松聖被告の姿や、多くの障害者が被害にあった強制不妊手術問題がちらついてくる。重複障害者の行動を薬でコントロールする発想と、植松被告が抱いた安楽死させる発想は決して断絶したものではなく、一続きのスペクトラムだと思えてならない。

一郎さんが蒔いた「幸せの種」

 一郎さんは不幸な死を迎えた。だが、多くの障害者を幸せにするきっかけを作った。

 広島大学で福祉を学んでいた時に一郎さんと出会い、その人柄に惹かれて重複障害者と共に歩む道を選んだ池田顕吾さんは、現在、福岡市内の障害者基幹相談支援センターのセンター長として、同市が2015年から続ける強度行動障害者の集中支援事業などに密接に関わっている。

 この事業は、重度の知的障害があり、激しい自傷や他害行為、こだわり、物の破壊などを繰り返す強度行動障害の子供や大人を対象としている。「障がい者地域生活・行動支援センター か~む」(福岡市城南区)で3ヵ月程度暮らしてもらい、集中支援を行う。

 支援者はこの間に問題行動の背景を探り、個々の特性に応じた関わり方などの支援策をまとめる。期間終了後、家族や受け入れ施設などはこの支援策を生かして関わり方を変えていく。すると問題行動が急激に減る例が報告され始めている。

 強度行動障害を招きやすい自閉症の人は、感覚の障害に苦しんでいることが多い。聴覚や嗅覚が過敏だったり、逆に鈍感だったりする。気圧の影響を受けやすく、変動すると不快で眠れないこともある。体温コントロールがうまくいかず、気温が上がると服を脱いで裸になったりする。

 彼らは意味もなく行動しているのではなく、環境の変化に過敏に反応しているのだ。それをむやみに押さえつけると、イライラを募らせて問題行動につながっていく。鎮静や睡眠のための薬は一時しのぎでしかない。同じ人間として向き合い、行動の意味を探る感性が支援者には欠かせない。全国から注目を集める福岡市の事業は、良き支援者を育む取り組みでもある。

 おしゃべりで正直でやさしくて、多くの人に好かれた一郎さん。彼はこの社会に散在する非人道的なクレバスに落ち込み、不慮の死を遂げてしまったが、彼が社会に蒔いた幸せの種は着実に成長し続けている。

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豚コレラ、最初の感染は岐阜市椿洞のイノシシか

2018-12-20 | 徒然なるままに

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181219-00099609-gifuweb-l21

 岐阜県内で家畜伝染病「豚(とん)コレラ」の感染が広がっている問題で、国と県でつくる拡大豚コレラ疫学調査チームは18日、農林水産省で検討会を開き、岐阜市椿洞地区で野生イノシシが最初に感染し、飼育施設などに拡大していった可能性があるとの見解を示した。これまでは、1例目となった養豚場が発端だった可能性が高いと説明していたが、見解を変更した。

 1例目の感染は9月に岐阜市の養豚場で確認されたが、関係者の聞き取りや飼料の購入記録などから8月上旬にはウイルスが侵入していたと分析。▽養豚場で発生する前の7、8月に椿洞地区で相次いで死亡イノシシが発見されている▽飼養管理者が限られ、汚染資材などの持ち込みも確認されない-ことなどから、椿洞地区の野生イノシシが最初に感染した可能性があるという。

 国内へのウイルス侵入は、輸入検疫を受けずに持ち込まれた旅行者の手荷物や国際小包からと考えられるとの見解を示した。海外から違法に持ち込まれた食品が家庭ごみとして捨てられたり、行楽地で廃棄されたりし、それを食べた野生イノシシが最初に感染した可能性を指摘した。

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伊丹着のJAL機がオイル漏れ B滑走路が一時閉鎖に

2018-12-20 | Art

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181219-00000108-asahi-soci

 19日午後7時45分ごろ、大阪(伊丹)空港に到着した羽田発の日本航空133便(ボーイング777型、乗客325人)がオイル漏れを起こした。日本航空によると、油圧系にトラブルが発生し、誘導路上に一時駐機した後、自走して午後9時に旅客ターミナルに着いたという。

 関西エアポートによると、けが人はいないという。このトラブルの影響で、空港のB滑走路(全長約3千メートル)は清掃作業のため、午後8時25分まで閉鎖された。到着予定だった3便が目的地を関西空港に変更したという。

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