あぁ、これはかわいそう。
入所、入院しなければ、死ななかったのに。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181219-00058809-gendaibiz-bus_all
串山一郎さんは、国立病院機構が運営する広島県の精神科病院で、4ヵ月半にわたって隔離と多剤大量投薬を受け、38歳で亡くなった。なぜ一郎さんは、命を落とさなければならなかったのか? 遺族や関係者への取材を続ける、元読売新聞医療部記者・佐藤光展氏が、新著『なぜ、日本の精神医療は暴走するのか』で報じた内容の一部を特別公開する。
一郎さんの主訴は「不眠、興奮、多弁」とカルテに記されている。自傷や他害の恐れはなかった。入院初日はどのような状態だったのか。看護記録から関係する部分を抜き出してみよう。
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13時30分 入院
独歩にて入院。大きな声を出し、歩きまわる。入室しようとせず。スタッフ付き添い様子観察する。
14時45分 個室施錠開始
再三の促し、介助にて入室。興奮強い。
15時30分
放便、弄便あり。開けてほしいとドア叩き訴えている。上半身裸になっている。
22時00分
大声を出してドアを叩いている。ドアを指さし「開けて」と訴える。言動は支離滅裂なこと多い。
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いきなり隔離や拘束をされたら誰でも興奮し、言動が支離滅裂になる。それをおかしな言動の根拠として提示する医療者の頭の中こそ支離滅裂で病んでいる。
一郎さんは自宅での排便、排尿に問題はなかった。一人でトイレに行けた。ところが観察室という名の隔離部屋に備え付けのトイレはなく、ポータブルトイレが置かれただけだった。そして一郎さんは便や尿を頻繁に漏らすようになった。投与された薬の影響もあったのかもしれない。
翌17日の看護記録に重要な記載がある。
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8時00分
夜間ナップサックをずっとかけて過ごす。前室に預かる(A指導員より)
8時20分
訴えなく室内徘徊している。
9時00分
大声や何かを話している。人のいない方向へ向けて会話のように声を出している。
16時00分
大声で独語していること多いが、「リュックを持って来い」というニュアンスのことを言っていることが多い。
20時30分
巡回毎異常なし。スタッフルームの方に向かって「リュックサックがほしい」と言っている。
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これは中学生の時、母親の美奈子さんが買ってあげた黒色のリュックサックだった。どこに行くにも肌身離さず持ち歩いていた。生地のあちこちが傷んでいたが、一郎さんにとっては人生を共に歩んできた分身であり、心を落ち着かせるのに欠かせない宝物だった。
これとは別に、入院時には黒地に花柄の入った巾着袋と、えんじ色のリュックサックも持参していた。どちらも小学生の時に購入した思い出の品で、眠る時はいつもこれを抱いていた。しかしこの二つは見るからにボロボロで、観察室に入る前に「これは預かっておきますね」とA指導員に取り上げられてしまった。
言わば「無害の精神安定剤」を奪われた一郎さんは、残った黒色のリュックを背負い、眠れぬ夜をじっと耐えたのだ。しかし翌朝、病院はそのリュックさえも取り上げ、落ち着かなくなった一郎さんに何種類もの薬を投与し続けた。退院時、黒色のリュックは返却されたが、巾着袋とえんじ色のリュックは戻ってこなかった。ゴミのように扱い、処分したのだろう。
一郎さんは精神疾患を発症して入院したのではない。落ち着かなくなったのはいきなり躁病を発症したためではなく、両親の病気を原因とした生活環境の変化のためだった。一時入所する広島市内の福祉施設の関係者らが、受け入れ条件として薬物調整を求めたため、疲弊した両親は入院による調整を受け入れざるを得なかった。
ところが病院は、隔離、リュック取り上げ、ポータブルトイレでの排便強制などを行い、一郎さんをますます混乱させた。そして大声を上げたり、独語を続けたりする反応を躁状態とみなし、これを抑える目的でリーマス、エビリファイ、テグレトール(抗てんかん薬だが躁状態を抑える作用もある)を投与し続けた。さらに催眠を目的に、フルニトラゼパム、ルネスタ、ニトラゼパム、コントミンの4剤を使い続けた(頓用のレンドルミンも27回使用)。
環境変化に弱い自閉症の人に、病院で対応する医療者の苦労は容易に想像できる。状況によっては薬で抑えたり、隔離をしたりしなければならない場面もあるだろう。だが、環境変化による混乱を同じ人間として理解し、想像力と共感を持って接する努力を怠り、終始、隔離と薬でしのごうとする対応は人権無視も甚だしく、到底容認できない。
入院時に60キロあった一郎さんの体重は、退院時には47キロと13キロも激減した。筋力が著しく衰えたかのように足元がふらつき、「転倒しそうで怖かった」と美奈子さんは振り返る。病院はこの異様な減量について「糖尿病の治療のため」と美奈子さんに説明した。
だが、2010年頃に基準値を超えた一郎さんの血糖値は、子供の時から診ている内科医の勧めで70キロ台から60キロ台に体重を絞ったことと、薬の効果もあって落ち着いていた。入院直後の血液検査では、ヘモグロビンA1cは6.0%で基準値内。空腹時血糖も96㎎/dlで基準値内に収まっていた。
従来の治療で血糖はコントロールできていたのに、なぜ健康を害しかねないほどのさらなる減量を短期間に強いたのか。向精神薬の中には血糖値が跳ね上がるものもあるため、用心したのだろうか。一番の糖尿病対策は食事と運動だが、一郎さんを隔離部屋に閉じ込め続けた病院が、継続的な運動療法を行った形跡はない。
食事も隔離部屋で摂らなければならなかった。一郎さん(身長158㎝。標準体重は55㎏)の栄養状態を評価した病院の管理栄養士は、隔離部屋生活での一郎さんの必要エネルギーは1日1900kcalと推定した。食事は介助もあってほとんど食べていたようなので、推定摂取エネルギーは2000~2100kcalだった。それなのになぜ、体重は標準を著しく下回るまで減り続けたのか。
抗精神病薬を多く摂取し続けると、筋肉の強張り、背中や首などが曲がるジストニア、手足の震え、落ち着いて座っていられないアカシジアなどの副作用が高頻度で生じる。これらは錐体外路症状と呼ばれる。
一郎さんに突然表れた背部の湾曲は、錐体外路症状と見るのが自然だ。さらに、筋肉の激しい硬直が続くと筋肉組織が壊れる横紋筋融解症が引き起こされることもある。筋肉が衰えるので長期に及ぶと体重は減少し、悪化すると腎障害などで死亡する危険がある。
横紋筋融解症が起こると、血液検査でCK(クレアチンキナーゼ)値が急上昇する。実際、入院期間の前半に一郎さんのCK値は高値を続け、2013年12月の検査では2632U/I(男性の正常値は62~287U/I)に達した。CK値は激しい運動後にも上昇するが、狭い隔離部屋で鎮静の薬を多く投与された一郎さんが激しい運動を続けるとは考えにくい。看護記録にもそのような記載はない。
多量の薬の影響で薬剤性心筋炎や深刻な不整脈が起きていた可能性もある。一郎さんが飲んでいたリーマス(炭酸リチウム)とテグレトール(カルバマゼピン)は、「急性および慢性心筋炎の診断・治療に関するガイドライン」(日本循環器学会、日本心臓病学会など6学会合同研究班が作成)で「心筋炎を惹起する薬物」としてあげられている。だが主治医の院長は心電図を一度もとらなかった。
退院時に院長が作成した「退院時総括」に関連する「退院時看護要約」には、「2013年11月下旬頃より、背部の湾曲があり、前屈姿勢で過ごす事が多くなった。薬剤調整し、湾曲は軽減したが、前屈姿勢が続いている状態である」との記載がある。ところが院長は、2018年7月に広島地裁で開かれた民事裁判の法廷で、背部の著しい湾曲に「気づかなかった」と証言した。
一郎さんは2014年3月3日、衰弱し切った状態で退院した。夜も寝ないでしゃべり続けるほどの体力は明らかに失われていた。
30歳代には見えないほど老け込んだ一郎さんを心配した美奈子さんは「家に一旦連れ帰って療養させたい」と訴えた。しかし、広島の施設は「ここに慣れるまでは自宅に帰さないようにする」との方針で、一郎さんは退院したその足で入所した。
入院中に生じた背部湾曲と体力低下、さらに睡眠薬の影響もあって、一郎さんは施設内で何度もふらついた。14日朝、ベッドから起き上がろうとして転倒し、左の眉の上を8針縫うけがを負った。頭部を激しく打った恐れがあるため、病院でCT検査を受けた。
18日には38.6度の熱を出し、施設職員が内科に連れて行った。一郎さんがこれまで受診したことのない医療機関だったため、医師がのどを見ようとしても口を開けなかった。インフルエンザ検査は陰性だったので、医師は通常の感冒と診断した。風邪薬と解熱用のボルタレンが処方された。美奈子さんは20日、かかりつけ医を受診させたいと施設職員に訴えたが実現しなかった。
21日の朝食後、一郎さんは「帰りたいです」「助けてください」と訴えた。23日午後9時30分、就寝前の薬を服用。ウトウトしながらも布団から何度も起き上がろうとしたが、午後11時30分に就寝した。
24日午前6時、居室を訪れた職員が声をかけても反応せず、救急車を呼んだ。すでに死後硬直があったため救急搬送はされず、警察が到着して検視を行った。着衣に乱れはなく、死因は急性心筋梗塞とされた。死亡日時は24日午前2時頃と推定された。
一郎さんの死因は本当に急性心筋梗塞だったのだろうか。抗精神病薬などの過剰な投与は致死的な不整脈を招き、患者を突然死に至らしめることがある。
一郎さんが飲んでいたコントミンの添付文書には、重大な副作用の項目に「突然死 心室頻拍」とある。先に指摘したように、心筋炎が起きていた可能性も捨て切れない。だが、美奈子さんが望んだにもかかわらず行政解剖は行われなかったため、正確な死因はわからず終いとなった。
陽三さんと美奈子さんは、広島の入所施設(被告は施設を運営する社会福祉法人)と、入院していた病院(被告は国立病院機構)を相手に2件の民事訴訟を起こした。「重複障害者が直面している非人道的な扱いを多くの人に知って欲しい」との思いがすべてだった。国立病院機構相手の裁判は広島地裁で2018年現在も続いている(院長の証人尋問はこの裁判で行われた)。入所施設が十分な見守り義務を果たさなかったと訴えた裁判は、すでに敗訴した。
敗訴した裁判で美奈子さんが見守り義務以上に問題視したのは、施設関係者が入所条件として睡眠薬の使用を強く求めたことだった。この点について、2017年3月に控訴を棄却した広島高裁は次のような見解を示した。
「被控訴人が睡眠薬の投与等を求めたのは、被控訴人の組織運営の都合も否定できないものの、主に、控訴人らの健康状態から一郎を介護していくことが困難になったことから、これから施設での生活を継続していくことを迫られる一郎への配慮であることが認められる」
薬物を使ってでも施設の都合に合わせて生活スタイルを「矯正」することが、一郎さんへの配慮だというのだ。本人や家族の意思は置き去りにして。
このような本人不在のありがた迷惑な発想を突き詰めていくと、その先に相模原障害者施設殺傷事件の植松聖被告の姿や、多くの障害者が被害にあった強制不妊手術問題がちらついてくる。重複障害者の行動を薬でコントロールする発想と、植松被告が抱いた安楽死させる発想は決して断絶したものではなく、一続きのスペクトラムだと思えてならない。
一郎さんは不幸な死を迎えた。だが、多くの障害者を幸せにするきっかけを作った。
広島大学で福祉を学んでいた時に一郎さんと出会い、その人柄に惹かれて重複障害者と共に歩む道を選んだ池田顕吾さんは、現在、福岡市内の障害者基幹相談支援センターのセンター長として、同市が2015年から続ける強度行動障害者の集中支援事業などに密接に関わっている。
この事業は、重度の知的障害があり、激しい自傷や他害行為、こだわり、物の破壊などを繰り返す強度行動障害の子供や大人を対象としている。「障がい者地域生活・行動支援センター か~む」(福岡市城南区)で3ヵ月程度暮らしてもらい、集中支援を行う。
支援者はこの間に問題行動の背景を探り、個々の特性に応じた関わり方などの支援策をまとめる。期間終了後、家族や受け入れ施設などはこの支援策を生かして関わり方を変えていく。すると問題行動が急激に減る例が報告され始めている。
強度行動障害を招きやすい自閉症の人は、感覚の障害に苦しんでいることが多い。聴覚や嗅覚が過敏だったり、逆に鈍感だったりする。気圧の影響を受けやすく、変動すると不快で眠れないこともある。体温コントロールがうまくいかず、気温が上がると服を脱いで裸になったりする。
彼らは意味もなく行動しているのではなく、環境の変化に過敏に反応しているのだ。それをむやみに押さえつけると、イライラを募らせて問題行動につながっていく。鎮静や睡眠のための薬は一時しのぎでしかない。同じ人間として向き合い、行動の意味を探る感性が支援者には欠かせない。全国から注目を集める福岡市の事業は、良き支援者を育む取り組みでもある。
おしゃべりで正直でやさしくて、多くの人に好かれた一郎さん。彼はこの社会に散在する非人道的なクレバスに落ち込み、不慮の死を遂げてしまったが、彼が社会に蒔いた幸せの種は着実に成長し続けている。