goo blog サービス終了のお知らせ 

鹿児島の自然と食

鹿児島の豊かな自然(風景、植物等)、食べ物、史跡を紹介します。

大久保利通の史跡

2007-11-16 | 史跡
西郷隆盛の史跡に続いて、大久保利通の史跡を集めてみました。
ところがこれが少ないんですね。
西郷が鹿児島に帰郷し、あちこちに足跡を残しているのに対し、大久保は東京で亡くなった(47歳で暗殺された)ことにもよるでしょうが、それだけでなく、鹿児島県人は大久保のことがあまり好きでないことにもよるのではないかと思います。

大久保の性格を表す言葉に、
冷徹。非情。策士。雄弁。目標を決め、それに向かって計画通り着実に進んでいく(囲碁を習い、これを武器にして島津久光に近づいたことは有名)。おのれの信念のためなら友を敵に回すことも辞さない(最後に西郷と敵対したことを言う)。
などという言葉があります。
しかしながら大久保は、日本の将来について確固たるビジョンを持ち、いかなる困難にもめげずそれを実行し、その後の日本が大久保の思い描いた国家像のとおり歩んでいったのは事実です。
西郷が革命家と呼ばれ、大久保が天性の政治家といわれるゆえんです。
それはさておき史跡です。


大久保利通誕生の地
大久保は1830(天保元)年、高麗町のこの地で生まれました。西郷隆盛より3歳年下です。
通称は一蔵、号を甲東といいます。
場所は甲突川の右岸で、高麗橋のすぐ下流にあります。
この碑は近年建てられたようで新しく、目立たないところにあります。探すのに苦労しました。


大久保利通生い立ちの碑
誕生の碑から高麗橋を渡って、甲突川の上流に行くとこの碑があります。
加治屋町の維新ふるさと館の隣で、誕生の地から歩いて2~3分のところです。
ところで、この石碑には「大久保利通君誕生之地」と書いてありますが、実際生まれたのは川向こうの高麗町で、まもなくここに移ってきました。
従って、鹿児島市が設置した看板には、「大久保利通生い立ちの碑」となっています。
大久保自身はこの加治屋町で生まれたと称していたそうです。号の甲東とは甲突川の東、加治屋町のことです。
聡明な大久保が自分の誕生地を知らないはずがなく、知っていてそう言ったという人もいます。
城から遠いほど、つまり川向こうの高麗町ほど身分の低い武士が住むところであったため、権力志向の強い大久保は加治屋町で生まれたと称したのではないか、というわけです。


大久保利通銅像
生い立ちの碑から少し甲突川上流に行くと、高見橋上流左岸のライオンズ公園にこの銅像があります。
没後100年を記念して、今年文化勲章を受章された中村晋也氏によって、1979年、製作されました。
城山麓の西郷さんの銅像が完成したのが1937年ですから、それに遅れること42年です。

西郷と大久保・・・。
日本が生まれ変わろうとする時、時代はタイプの異なる2つの強烈な個性を必要としたということでしょう。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 西郷隆盛の史跡(3) | トップ | 維新ふるさと館 »
最新の画像もっと見る

2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
“西郷どん”派になります。 (momomama)
2007-11-16 17:12:08
高麗町というのがあるんですね。
高麗橋を観たのは石橋公園でしたから
何故 高麗橋なんだろうと思ってました。。。
とても好きでした。。

生誕地を「ごまかす」なんて
ちょっと嫌な感じですね。。

>タイプの異なる2つの強烈な個性

chiroさん。 私は西郷さんの方がずーっと好きです。

でも銅像は とってもスマートですね。。
まぁ時代も違いますね。。。
返信する
石橋公園の (chiro)
2007-11-16 20:40:07
高麗橋は、かつてこの高麗町に架かっていて、そこだけ幅が狭いため、渋滞の原因になっていました。
江戸時代の石橋を現役の幹線道路の橋として使用することに限界があったのでしょう。

西郷と大久保はどちらも鹿児島が生んだ偉人ですが、好かれるのは圧倒的に西郷さんのほうです。
最後は反乱を起こした逆賊として亡くなりますが、皆に慕われるのは人徳でしょう。
政治家としての資質は、大久保のほうが優っていたと思いますが・・・
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

史跡」カテゴリの最新記事