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鹿児島の自然と食

鹿児島の豊かな自然(風景、植物等)、食べ物、史跡を紹介します。

幼児は言葉の天才

2012-03-26 | エッセイ

自分の子供が2~3歳のとき、私は英会話の勉強を始めた。

NHKラジオの英会話講座をテープにとって聴く、というものだった。

子供が言葉を話し始めた頃であり、内心、この子と私とどちらが上達が早いか、競争するという気持ちもあった。

私は、中学、高校と6年間英語を習っており、一応の基礎はあるのだ。

 

自分が語学を勉強していることもあって、幼児がどのようにして言葉を習得していくか、図らずも観察することが出来た。

最初簡単な単語を覚え、その後「食べる」とか「飲む」とかの動詞を覚えて、その活用をするようになった。

中学で習う終止形とか未然形とかの5段活用である。

「飲む」、「飲まない」、「飲みたい」と、その5段活用は正確であり、「飲むない」とか「飲むたい」とかは言わなかった。

動詞の数が増えても、それは同じだった。

まるで、文法を理解しているかのようだった。

どの民族のどの言語でも、幼児が言葉を習得するのは、天才的といっていい。

 

それについてはこんな説がある。

一般に、幼児が言葉を覚えるのは、周りの大人、特に母親の言葉を学習すると考えられているが、母親の言葉はそれほど語彙が多いわけでもなく、きちんと文法どおり話すわけでもない。

また、言葉の環境や学習能力には個人差があるが、ほとんどの幼児はあまりにも短期間に正確な言葉を習得する。

このため、最初から遺伝子に言語能力が備わっているという説である。

日本人の子供だったら日本語の言語能力が、と考えてはいけない。

日本人でも英語圏で育てば正確な英語を話すようになるからだ。

最初に触れた言葉に触発されて、その言語能力が開発されていくのだという。

 

私の子供はたちまち会話が出来るようになり、それに比べて、私の英会話は一向に上達しなかった。

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果物の女王

2012-02-22 | エッセイ

果物の女王は誰か。

 

かつて、バナナが女王といわれた時代があった。

私が子供の頃、バナナは外国から来たスターで、めったにお目にかかることはなく、たまに食べると、果物なのにケーキのような甘い上品な味にうっとりしたものだった。

今、その地位は低下した。

一年中出回り、値段が安いせいである。

だが、バナナには実力はあるのだ。

人間が食べやすいように、皮は剥きやすく、種はなく、おいしくて栄養もある。

人間のために究極まで進化した果物といえる。

最近、バナナが見直され、スポーツ選手などにもバナナを愛好する人がいるという。

 

「果物の女王はメロンである」

このことに異議を唱える人は少ないだろう。

端正な丸い姿。

スイカのようにバカでかくもなく、それでいてずっしりと重量感のある存在感。

着ている衣装がまたすばらしい。

表面に浮き出た立体的な白い網目模様。

豪華な絹の衣装をまとっているようだ。

こんな豪華な衣装を着ている果物は他にない。

体はみずみずしく、味は上品な甘い味である。

存在感、豪華さ、高級感、上品さ、どれをとっても他の果物を寄せ付けない。

 

と、そこへ強力なライバルが現れた。

マンゴーである。

宮崎当たりの出らしいが、前の知事が「宮崎をどげんかせんといかん」と考えて、デビューに力を入れたようだ。

姿は端正な丸ではなく楕円形で、やや斜に構えたところがある。

衣装は、メロンのように豪華ではないが、薄くて赤い派手な衣装を着ている。

体はメロンに劣らずみずみずしく、トロピカルで濃厚な甘い味である。

強烈な個性の持ち主といえよう。

1個何万円もするものもあり、高級感という点ではメロンに負けない。

 

だが私は、存在感や上品さにおいて、メロンに一票を投じたい。

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バイトの思い出(2)

2012-01-20 | エッセイ

警察の取調室は、三畳くらいの広さの、コンクリート壁に囲まれた殺風景な部屋だった。

机が真ん中にあるだけで他には何もなかった。

私の人生で、警察の取調室に入ったのは、この時が最初で最後(かどうかはわからないが)だった。

机を挟んで刑事と向かい合わせに座り、調書を取られた。

刑事は四十年配の人だった。

刑事がいろいろ質問し、私がそれに答え、刑事が調書に書き込んでいく。

 

「店で火の気のものといったら何がある?」

「まず、キャンドルがあります」

「キャンドル?それはどういうものだ」

と聞かれてキャンドルの説明をする。

それを聞いて、刑事が調書に書き込んでいく。

 

「キャンドルとは、直径3cm、長さ20cm程度の真鍮製の円形の筒の中にローソクを入れ、これに点灯し、短くなったものを下からバネで押し上げる構造となっており、外側にガラス製のホヤを取り付けてランプとし、これをテーブルに置いて灯りにすると同時に、客からの注文があった場合、女性接客従業員がこれを持ち上げて合図となし、男性従業員(ボーイ)を呼んで、注文の品物を持ってこさせるためのものであります」(もちろん、その時の正確な文章ではない)

 

こんな感じで、警察独特の文体で綴っていく。

「キャバレーなんて行ったことがないから、中がどうなっているかわからんよ」

などとぼやきながら。

この他に、おでんコーナーの様子、タバコの吸殻の後始末、楽屋の火の元の点検などについて詳しく聞かれた。

 

間に世間話も入れる。

「兄さんは、出身はどこだ?」

「種子島です」

「種子島?そいじゃ、おいと一緒じゃなっか。種子島はどこや?」

「○○です」

「そこに△△さんという家があるやろう?おいの親戚じゃ」

種子島出身というと、たいてい共通の知人がいるものだ。

「じゃあ、高校は××高校か?」

「はい」

「おいの後輩じゃなっか」

なんと、刑事は高校の先輩だった。

「キャバレーなんどでアルバイトしとっと、ろくでもないことになんど」

こういうところから打ち解け

「ここは殺風景で、寒うしていけんな。ぬくか(暖かい)部屋へ移ろう」

と言って、さんさんと太陽の光が差し込む一般の部屋に移って取調べを再開した。

 

取調べは9時から夕方の5時まで続いた。

昼食は出前のカツ丼だった。

最後に刑事が調書を読み上げ

「これでよかか」

と聞く。

間違っているわけではないが、私が話したことと微妙にニュアンスが違っているところもある。

しかし、あえて違っているとも言い切れず、サインをして拇印を押された。

こんな取調べが間を空けて3日あった。

アパートの家主は、しょっちゅうかかってくる警察からの電話に、不審の目を私に向けた。

火事の原因はなかなか特定できないまま時が過ぎ、そのうち私は就職で鹿児島を離れたのだった。

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バイトの思い出(1)

2012-01-18 | エッセイ

学生時代、鹿児島市の繁華街天文館で、キャバレーのボーイのアルバイトをしたことがある。

当時、天文館には二つの大きなキャバレーがあり、そのうちのひとつだった。

ネオン輝く天文館のキャバレーは、華やかな夜の社交場だった。

正面に舞台があり、生バンドが演奏していた。

その下のフロアでは、客とホステスがダンスをしていた。

テーブルには、ローソクを灯したランプ(キャンドルといっていた)があり、客の注文があると、ホステスがキャンドルを持ち上げてボーイを呼び、伝票の切れ端を渡した。

 

ホステスには指名制度があった。指名されると何百円かの指名料が入り、人気ホステスほど収入が高いわけである。

週ごとに指名回数のランクが張り出された。

人気ホステスは必ずしも美人というわけではなかった。

いわゆる座持ちのいいホステスが上位だった。客を笑わせ、楽しませることの上手なホステスである。

「しのぶさん。5番テーブルへお願いします」

などという放送が流れ、人気ホステスはテーブルからテーブルへ蝶のように舞っていた。

 

時々、ドサ回りの芸能人が来てショーがあった。

ある日、ブルーボーイショーというのがあった。おかまショーである。

歌や踊りの間におしゃべりを入れる。酔客相手に毒舌やエロ話をして笑わせるのである。

ショーが終わり、楽屋にジュースを持っていくように言われた。

楽屋に入ると、4人のおかまが着替えの最中で、上半身裸だった。

そのうちの何人かは、胸が大きかった。

思わずおっぱいに見とれていると、何かにつまずいてジュースをこぼしてしまった。

「ホホホ、ボーイさん純情なのね」

おかまに笑われてしまった。

 

閉店後、交代で火の元の点検があった。

テーブルの下にタバコの吸殻が落ちていないか、楽屋に火の気は残っていないか、点検して回るのである。

ある日、私の当番だった。

隅から隅まで点検して回ったが異常はなかった。

12時過ぎに帰宅したが、その時、あのような大事件になろうとは予想もしなかった。

 

次の日の夕方、店に行くと唖然とした。

店の入っていたビルが完全に焼け落ちていたのである。

火元は私の勤めていたキャバレーだった。

私たちが帰った後、キャバレーから出火し、ビル全体が燃えたのである。

同じフロアの隣に、まだ営業しているバーがあり、ここの従業員4人が行方不明になった。

 

翌日、招集がかかり遺体収容の作業を行った。

しばらく作業していると、誰かの

「あったぞー」

という声がして、駆けつけると真っ黒に焦げた人間の形があった。

それは、人間というより物体という感じだった。

4人とも焼死体で見つかった。

葬式にも出席したが、棺に取りすがって泣いている家族がいて哀れだった。

それから何日かして、警察から呼び出しがあった。事情聴取である。

(次回へ続く)

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カブ

2011-12-26 | エッセイ

「種子島の高校生は、皆カブに乗っている」

というのが、たまに話題になる。

特に、女子高校生が、おしゃれなスクーターでなく、ちょっとごついカブに乗っている光景は珍しいとみえ、その映像が流れたりする。

どうしてカブなのか、聞いたことはないが、カブと言えば思い出がある。

 

私は、高校2年まで寮生活だったが、3年になって自宅通学に変えたいと思い、親にバイクを買ってくれるように頼んだ。

経済的な余裕はなかったと思うが、親はバイクを買ってくれた。

それがカブだった。

当時は、カブでなければならないという規則はなかったが、カブにしたのは次の理由からではないだろうか。

私が高校を卒業すると、バイクは、親が畑に乗って行くなど仕事で使うことになる。

それには、スクーターよりカブのほうが使い勝手がいい、ということだったのだろう。

 

種子島の高校生は、卒業後ほとんどが島を離れるから、この事情は今も同じだろう。

また、島の道路は田舎道なので、街中を走るのに適したスクーターより安定性のいいカブのほうがいい、ということもあるかもしれない。

 

カブで通学している高校生を見ると、昔の自分とダブって見える。

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桃とさくらんぼとバナナ

2011-11-04 | エッセイ

桃は、丸くてかわいらしく、豊満な体をしており、水気もたっぷりあって、実に色っぽい。

桃の皮は薄い。爪で簡単にはがすことが出来る。

薄着の娘が簡単に脱ぐようなものだ。

身を護ろうという気があまりないようだ。

果物屋では、クッションでくるんで保護している。

このような待遇を受けるのは、桃のほかには高級果物の代表であるメロンとマンゴーくらいのものである。

桃は、過保護娘で、身持ちは悪いが、むちむちしたみずみずしい体で色っぽく、男心をそそるところがある。

 

さくらんぼは、小さくてめちゃくちゃかわいい。

思わず、食べてしまいたいほどかわいい(食べるけどね)

桃のような色気はないが、上品で清楚なお嬢さんといった感じがある。

棒の先にペアでぶら下がっているところもかわいらしい。

神様が、ていねいにデザインを考えて作ったようだ。

世間に出てくるのが年に1回というのも、深窓の令嬢のようで気になる存在である。

皮をむかずにすむように、皮ごと食べられるよう気を使っているところも好もしい。

それに、種飛ばしという楽しい遊びも出来る。

 

一方バナナはどうか。

容姿は、桃やさくらんぼよりも劣る。

果物というのは普通丸いもので、それが果物のかわいらしさ、愛らしさとなっている。

ところが、バナナは棒状である。

棒状の果物って、他にあるだろうか。

皮は厚くて、身を護ろうという気はあるようだ。

しかし、脱ぐときは桃に負けず大胆である。バナナの皮はつるりと簡単にむける。

その肌は、桃のようなみずみずしさはないが、クリーミーでねっとりとしている。

人間が食べやすいように種は退化しており、おいしくて栄養もあり値段も安い。

いじらしいまでに、人間に気に入られようとしている。

 

桃子ちゃんとさくらちゃんとナナちゃん、それぞれの魅力があって、私としてはどちらともお付き合いをしたい。

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山小屋のビール

2011-08-31 | エッセイ

ビールというのは、飲む環境によって味が異なるものである。 

夏の暑い日に、のどを乾かして飲むビールはおいしいが、真冬の寒い中で飲むビールはおいしくない。

 

女性4人と、山小屋に1泊して屋久島を縦走したことがある。

1日目は、九州最高峰の宮之浦岳に登頂し、少し下ったところにある新高塚小屋に宿泊した。

屋久島の山は本格的な登山であり、皆疲労していた。

夕方、食事の支度をしていると、妻が

「実は・・・」

といって、リュックから取り出したものがある。

缶ビール5缶であった。

「みんなには黙っていたけど、これを担いできたの」

 

1泊の登山は、食料や寝袋などで重量が重くなり、少しでも荷物を減らしたいのが人情である。

登る前、一人に1缶づつ持たせてもよかったのに、皆を驚かそうと思ったのだ。

皆、こんな屋久島の山小屋でビールが飲めるなんて思っていなかったので、その根性に驚き、感激した。

早速、近くの湧水で冷やし、ビールで乾杯して食事をした。

宮之浦岳山頂までの苦しさを思い出し、山頂に登ったそのビールは、今まで飲んだどのビールよりおいしく感じられた。

食事も、レトルト食品であったが最高においしいものだった。

その夜の山小屋は超満員で、男も女も入り混じって雑魚寝であった。

 

 

山小屋でビールを飲みながらお食事。

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果物の種

2011-07-18 | エッセイ

果物の皮のあとは、種について考えてみたい。

 

果物の種というのは、普通果肉の中心部にある。

ところがスイカはどうだ。

果肉の中に種がバラバラに散らばっている。

まとまりのない奴らといわざるを得ない。

スイカと同じ仲間のメロンは、種が中心部に集まっており、種と果肉を分離して食べることができる。

スイカを食べるときは、常に種の存在を気にして、口の中で種を感じたら吐き出す、という作業をしなければならない。

 

そのスイカでさえ、種は表面には出ていない。

果実の表面に種が出ている果物がある。

イチゴである。

イチゴの表面に小さな硬い粒粒があるのが種である。

イチゴの種は、なぜ小さくなり表面に出ようと思ったのか。

種が中心にあると、動物は種をその場に捨てるから、遠くへ移動することができない。

イチゴは、種ごと食べざるを得ず、動物の移動に伴って繁殖地を広げることができる。

イチゴは高等戦術を考えたものである。

 

スイカにしろ、リンゴにしろ、ミカンにしろ、果実に対する種の大きさの割合は小さい。

ところがビワはどうだ。

ビワの種は、果実の大きさに対してあまりにも大きい。

果実の半分近くは種が占めている。

果物だって、人間に気に入られるように進化しているが、ビワは進化しようという気がまったく見られない。

頑固な奴といわざるを得ない。

 

バナナには種がない。

中心部にその痕跡らしいものがあるが、種は退化している。

バナナは、皮は剥きやすく、種はなく、一房にたくさんなり、おいしくて栄養があり、しかも安い。

人間に気に入られるように進化した賜物である。

バナナは、果物界の優等生といえる。

でも、バナナは、種がなくてどうやって増えるのだろう。

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読書クラブ

2011-06-24 | エッセイ

高校生の時、週1回、全員参加の部活動があり、私は読書クラブというのに入った。

顧問の国語教師が指定する本を読むだけで、先生がその作品の解説をするでもなく、読書感想文を書いたり述べ合ったりするでもない、実に気楽なクラブだった。

そのとき読んだ本を挙げると・・・

 

「小僧の神様」

ご存知、志賀直哉の名作である。

ちなみに、志賀直哉を小説の神様というのは、この作品から来ている。

短編集だったので、他に「城の崎にて」、「清兵衛と瓢箪」などの名作に触れることができた。

 

「風車小屋だより」

作者のドーデが、プロヴァンスの廃屋となっていた風車小屋に住み着き、南フランスの美しい風景や村人から聞いた物語を、パリに住む友人たちに書き送るという短編集である。

この中に「アルルの女」がある。ドーデはその後、これを基にした戯曲を書き、ビゼーが曲をつけて広く知られる作品となっている。

「星」という作品は、ある羊飼いの思い出話である。

男は若いとき、山の上でひとり暮らして羊の番をしていたが、主家のお嬢さんに憧れていた。

月2回、食料を運んでもらうのだが、ある日、いつも運んでくれる人が都合で来れなくなり、お嬢さんがラバに乗って運んできた。

お嬢さんは帰って行ったが、川が増水して渡れなくなり、羊番の小屋に泊まることになった。

若者は火を焚いて暖め、お嬢さんと並んで座り、星空を眺めて星座の名前や物語を語ってあげた。

やがて肩に重みを感じたが、お嬢さんが眠くなって頭を乗せてきたのだった。

若者は、空から美しい星が落ちてきて肩に止まったのだと思った・・・

 

これらの作品は、名作といわれるものであり、国語教師が高校生に読ませたいというのはわかる。

 

少し意外だったのは、遠藤周作の「おバカさん」。

遠藤周作はこのあと「わたしが・棄てた・女」、「沈黙」などの作品を書き、狸狐庵のぐうたらシリーズがヒットして、日本を代表する作家となるのだが、当時は「高校生に読ませたい名作の作家」という評価はまだなかったのではないかと思う。

「おバカさん」はフランスから日本へやって来た、風采の上がらない青年ガストンが主人公である。

お人よしで、要領が悪く、人の世話ばかりしているおバカさんで、「わたしが・棄てた・女」や「沈黙」の主人公と共通する、キリスト教を背景にした小説だった。

私は、このあと多くの遠藤作品を読むこととなる。

 

何の気なしに入った読書クラブだったが、私のその後の読書人生に、多少なりとも影響を与えたのだった。

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果物の皮

2011-05-31 | エッセイ

果物の皮というのは、果肉を保護するものである。

栗の皮は
「何もそこまで・・・」
というくらい厳重である。
一番外のイガイガ、その下の硬い皮、さらに茶色の硬い皮、これを剥いても渋皮がある。
四重にガードしている。
よほど用心深い性格に違いない。

これと対照的なのが桃である。
桃の皮は薄い。
それに果肉が軟らかいから、少し力を加えるとすぐに痛んでしまう。
あまりに無防備である。
果物屋では、クッションでくるんで保護している。まるで、過保護娘である。
桃は、果肉の保護ということを考えているのだろうか。

これらに比べて、バナナはえらい。
バナナの皮は、果肉をちゃんと保護しているが、つるりと剥けやすい。
こんなに皮が剥けやすい果物は他にない。
りんごや柿は、皮を剥くのに果物ナイフが必要だから、バナナの便利さがよくわかる。

「私らは、皮を剥く必要がありません」
という果物がある。
さくらんぼである。
さくらんぼは、皮を剥かずにそのまま食べられる。
同じ小さい果物でも、ぶどうは食べたあと皮を出す必要があるから、さくらんぼの気配りはありがたい。

「いやいや、私らは皮そのものがありません」
という果物がある。
イチゴである。
イチゴは、果肉がむき出しになっている。
さくらんぼには、果実の大きさの割に大きい種があるが、イチゴには種さえない。
正確には、表面の粒粒が種らしいが、誰も種と認識しないで食べている。
皮なし、種なし。
人間に手間をかけさせない究極の果物といっていいかもしれない。
だが、イチゴには、さくらんぼのような種飛ばしという遊びは出来ない。

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