goo blog サービス終了のお知らせ 

カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。趣味さまざまなどを際限なく・・。

世事は煙の如し

2017-08-23 22:17:21 | 本と雑誌
 中国の作家と日本の作家の本を同時に借りてきた。

 中国の方は一人の作家の中・短篇集で、日本の方は18人の作家の中短篇集である。

 
 「世事は煙の如し」余華(著)飯塚容(訳)2017.6岩波書店(刊)

 表題にもなっている「世情は煙の如し」と「四月三日の事件」が50ページ以上で、後の4編は短篇である。

 借りた理由は、たまたま開いた表題作の冒頭の書き出しが変わっていたからだった。

 『窓の外に、この春最初の涙が落ちていた。7が病床について、もう数日になる。彼は息子の五歳の誕生日に倒れたのだ』
 
 と云った案配で少し読み進むと・・・。

 『倒れた日の夜、7は隣家の4の寝言をハッキリ聞いた。4は十六歳の少女である』

 こりゃまた凄い!登場人物が番号で出てくるとは・・・・こりゃ借りて読むしかない。

 その他の作品も、暴力・狂気・妄想・不条理が織りなす正に「魯迅」と「カフカ」をミックスしたような作品集だった。

 
 「近現代作家集(Ⅲ)」池澤夏樹(個人編集)2017.7.30(刊)

 「内田百閒」「野呂邦鴨」「幸田文」「富岡多恵子」「村上春樹」「鶴見俊輔」「池澤夏樹」「津島祐子」「筒井康隆」「河野多恵子」「堀江敏幸」「向井豊昭」「金井美恵子」「稲葉真弓」「多和田葉子」「川上弘美」「川上未映子」「円城塔」の18人の作家の中・短篇がずらりと600ページ近くの厚さでまとめられている。

 疲れた・・・2週間の貸出期限に間に合わず、返納してまた借りて・・・そして疲れた。

 短篇なので文章が凝縮され、堅くて判りづらくてもっと易しい表現はないのかとブツブツ言いながら読んだ。

 ただ一つ面白かったのは、内田百閒の「日没閉門」の中に出てくる文章だった。

 蜀山人の歌を作者がパロディー化したというもので「世の中と人の来ることうるさけれ とは云うもののお前ではなし(蜀山人)」を「世の中と人の来ることうれしけれ とは云うもののお前ではなし(百鬼園)」

 という文句を玄関脇の柱に書き出しておいたというくだり・・・・。

 それと不思議に思ったのはこの本を最初に借りたのは、7月22日だったが出版の日付が7月30日になっていたことだ。

 図書館ってどういうルートで本を入手するのだろう?

 今回の、日・中作家作品集を比較するなら、私の個人的趣向・偏見によって中国の方に軍配を上げる。

 
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボリバル侯爵

2017-07-20 09:57:34 | 本と雑誌
 この頃図書館から借りる本と言えば、俳句・詩歌に関するものばかりだった。

 俳句の風景の捉え方や、ドラマ性溢れる短歌などは面白いし肩が凝らないし、川柳の作句のヒントにもなる。

 しかし時々は小説もいいかと、1冊だけ借りてきた。

 
 「ボリバル侯爵」レオ・ペルッツ(著)垂野創一郎(訳)2013・11kk国書刊行会(刊)

 いわゆる一気読みを促されるスト-リーが展開される。

 ナポレオン軍占領下のスペインのある地方都市を攻略するナッサウ・ヘッセン両連隊の将兵の物語で語り手はナッサウ連隊の少尉である。

 ゲリラ側の有力者ボリバル侯爵が指示した「三つの合図」が侯爵の死後も確実に実行されていく過程が主軸で、ナッサウ連隊の将校の私的な行動が横軸になっているが、横軸の方が断然面白い。

 ささやかと見える偶然の絡み合いで、三つの合図を招いてしまい連隊は崩壊する。

 最後に語り手自身によるどんでん返しがあるが、人の心理を問えばこれは超自然的でも何でもなく、気づかない小さな偶然の積み重ねから発生した結果でしかない、と言外にいっている。

 冒頭の語り手と最後の語り手の立場の矛盾は修正されないままだが、もしこの小説を幻想歴史小説というなら、このことを指してのことだろうと解釈する。

 作者のカトリック教への語り口は、優しさと辛辣さに溢れている。

 確かに中世ヨーロッパの宗教観が理解出来ていれば、更に面白味は倍加するだろうが、な~に分からずとも無理に労力を費やせずとも、御免オイラは日本教徒と読み飛ばしても物語は矛盾なく続いてくれる。

 行間の広さ、300ページ以下の長さ、テンポの良さ、ストーリーの卑近さ、どれも読むために準備されている。

 
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

AIと人間の未来

2017-06-28 10:07:06 | 本と雑誌
 AI(人工知能)という言葉が最近盛んに聞かれるようになった。

 将棋や碁でプロ棋士を負かしたとか、車の自動運転とかで俄に現実味をおびた話になってきたようだ。

 
 「人工知能は人間を超えるか」(ディープラーニングの先にあるもの)松尾 豊(著)2015.3kadokawa(刊)

 人工知能の研究も浮き沈みがあって、#1期は「推論と探索の時代(1950~60)#2期は「知識を入れると賢くなる(1980~1995)#3期その①「機械学習の静かな広がり(1998~ )そして、#3期その②「ディープラーニングが静寂を破る(2012~~)特徴表現をコンピュータ自身が獲得するという段階の緒についた。

 将棋や碁でプロを負かしたことで騒がれたが、同じ時期にグーグルが発表した「猫」認識が本当は凄いのだという。

 目・口・鼻・耳それにヒゲなど諸々の姿形から、他のほ乳類の中から猫と特定するにあたり、ユーチューブの画像を大量に見せてディープラーニングにかけた結果だという。

 行き着く先の話として「人工知能は人間を超えるか」という話になるが、機械学習の専門家は、機械学習の一つに過ぎず一時的な流行に留まる可能性が高いといい、人工知能の専門家は、特徴表現を獲得できるということは、本質的な人工知能の限界を突破している可能性がある、と意見が分かれているらしい。

 人工知能が「ほんの僅かでも自分より賢い人工知能を生み出すことが出来た瞬間から、人工知能は新たなステージに突入する」とある。

 本能とか感情とかも語られるが、こうした概念をコンピューターが獲得することは難しいと述べているが、こうした人間だけが持っている概念の外にある、コンピュータが持つことになるかもしれない独特の概念はまだ語られない。

 知識の分野に生命の分野が重なって人間は出来ており、人工知能が暴走しこの生命の分野を脅かすような未来は来ない。と結論ずけられている。

 ただ軍事技術や、産業技術の独占などの人間の欲望に起因する脅威は有りうる話だと警告する。

 そして人工知能の未来は、バラ色ではないが決して暗黒ではないと結ばれている。

 とても興味のある話だが、人間の未来と人工知能の未来は一致するだろうという思いが強くなった。

 
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感心したり首を捻ったりして読む

2017-06-02 10:44:22 | 本と雑誌
 膝を叩いたり、首を傾げたり、あるいは感心しながらも時々突っ込みを入れてみたりと読書にもいろいろある。

 一冊目は図書館でパラパラとめくってみて、はてと首を傾げる漢字ばかりが沢山出てきて興味を覚えたもの。

 
 「大人の漢字力大全」話題の達人倶楽部(編)2013青春出版社

 いまだ読んでいる最中なのだが、ステップ1「読めないと恥をかく小学校で習う漢字」から既に首を捻るありさま。

 一段落(いちだんらく〇・ひとだんらくは×)とか、動(やや)もするととか、直向き(ひたむき)とか、三和土(たたき)とか、太太しい(ふてぶて)とか、好事家(こうずか)とか、この他にも濁点が着く読みだのと結構ややこしい線を突いてくる。

 ステップ3「出来る大人が確実におさえている漢字 ハイレベル編」だと、半分くらいは当てずっぽうで読む始末。

 齷齪(あくせく)、剽窃(ひょうせつ)、韜晦(とうかい)、穿鑿(せんさく)、使嗾(しそう)、香奠(こうでん)などなど、ちゃんと通用する他の漢字もあるのにわざわざ難しい漢字を出してくる。

 例えば「香奠」など「香典」が普通だし、わざわざ難しい漢字にしてあなたは出来ない大人だと言われているような気もする。

 それに、小学生が習う漢字を掌握していないので何とも言えないが、これが小学校で習う漢字なら恐るべしである。

 この本を全部読み終えたとき、再び最初のページに戻ってみてどの程度頭に残っているだろうか。

 楽しみではある。

 さて、次は「黛まどか」の句について。

 
 「その瞬間」創作の現場 ひらめきの時 黛まどか(著)角川学芸出版

 どんな時に俳句はひらめくか?との問いに「締め切り直前」と答えて失望させた、で始まる書き出しについ手にとった一冊。

 芭蕉だって「奥の細道」では松島の絶景を前に一句も詠めなかったとおっしゃる。

 俳句とは感動の編集、眼前のものを表現するにはどの瞬間を切り取るのが最も相応しいか自分の過去と未来とが出会った瞬間俳句は生まれるという。

 写生であったとしても、感動の編集という点では同じである、と述べている。

 そう言われれば絵でも、写真でも感動の瞬間を切り取った形そのものだ。

 俳句を紹介して、その句が生まれた瞬間を解説している本である。

 私が一番気に入ったのは、「ひらめくのは締め切り直前」というところで、ついポンと膝を叩いてしまった。

 さて、明日は6月の句会だ。

 締め切りは限りなく直前に迫っているが・・・・。

 
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書は楽し

2017-05-29 16:10:05 | 本と雑誌
 古本屋のなかをウロウロするのが好きである。

 この他にも、100円ショップとかホームセンターとか図書館とか古着専門店とか・・・。

 共通しているのは、値段が極端に安くていいなと思う物が例え有ったとしても値が張らないという安心感がある。

 それと店の特徴として、雑然といろんな物が並べられていて、掘り出し物やお得感のあるものを探す探検的な要素を持っている。

 古本屋で装釘の変わった本を見つけ出した。

 
 「夜のくもざる」村上春樹(文)安西水丸(絵)1995.6平凡社(刊)

 頑丈なハードカバーの本は、特徴のある段ボールのカバーで保護されていて、そのカバーの女性の絵が目を引いた。

 村上朝日堂超短篇小説 というので、目次を見るとあとがきを除いて232ページに37もの短篇が詰め込まれている。

 ほぼ2ページ前後のものばかりで、絵ばかりのページや空白のページも多いので読む行為に負担感は極端に・・ない。

 わざわざ構えて読むこともないと、相方を用事で車で送った後に駐車場で待つ間に読む本として車に持ち込んだ。

 初めはとりとめもない話の連続にいささか拍子抜けの感じでページを捲っていたのだが、10篇あたりまで読み進むうちに不思議な文章の世界に引き込まれていた。

 しかも、どこで中断を余儀なくされても苦にならないのもこれまた不思議。

 
 「写字室の旅」ポール・オースター(著)柴田元幸(訳)2014.1新潮社(刊)

 これは図書館の本。

 ”老人は狭いベッドの縁に座って、両の手の平を広げて膝に乗せ、うつむいて床を見つめている”の書き出しで物語は始まる。

 主人公の名前は不明で、取り敢えずミスター・ブランクと呼ばれて物語は進行する。

 後半になってブランク氏はとある文章を読み始める。

 表題は「写字室の旅」、N・Rファンシー(著)とあって、1ページ目を開き読み始める。

 ”老人は狭いベッドの縁に座って、両の手のひらを広げて膝に乗せ、うつむいて・・・・・”

 ある程度まで読んでミスター・ブランクもウンザリする。

 とまあこんな調子で終わりへと近づいていくが、読んでるこっちも途方にくれる。

 この本を読んでいて以前読んだことのある「名声」の中の1篇「ロザリーは死にに行く」が頭に浮かんできた。

 安楽死をさせてくれるという民間組織の門を叩いた老主人公を、作者が最後に物語をひっくり返して若返らせて助けてしまうという展開にあっけにとられながらも、強く印象付けられていたのだ。

 このエンドレスの物語はジャンルとしてあるのかも知れないが、もし再び繰り返される人生を本人が全く意識出来ないのであれば、本人にとっては何度再生しようと一度きりの人生を歩んでいることになる。

 読者は神の目線で全てを理解でき、作者はしてやったりとほくそ笑む。

 ただ現実の世界もAIやVRや再生医療など、小説に負けじと追随している。

 ひょっとしたら、もう小説もAIが書いているかも知れない。

 
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「キリンの子」(鳥居歌集)は鮮烈!

2017-05-10 09:38:27 | 本と雑誌
 図書館の良いところと私が思っているのは、目の前の本を見当つけて引き抜きペラペラと捲りながら選べることだ。

 自分の金を出して本屋で購入することは絶対にないであろう種類の本も山ほど並んでいる。

 余程目的というか必要性が生じた時以外は本選びの基準は手当たり次第である。

 短歌や詩や俳句のような短詩型のものは何処か意識的に選んでいる。

 小説はもう無作為抽出というやつであるが、何故か翻訳物の本棚の前に立つことが多い。

 
 「失われた時を求めて」マルセル・プルースト(著)角田光代・芳川泰久(編訳)2015新潮社(刊)

 ある一定の期間をおいて、かなり気合いを入れないと読みおおせない部類の本らしいが、この本は506ページに訳した本で取り敢えずプルーストに手を伸ばして見て下さいということらしい。

 ダイジェスト版ではないと断ってあるが、何冊にも亘る小説を506ページで済ますにはかなりの省略が必要。

 千夜一夜物語を超えるかも知れないという「僕」の失われた時を振り返る物語が延々と続いていく。

 物語はユックリと頭を持ち上げ、読むのを止めようかと思う頃ほぼ予想の展開を見せ始め、ウンザリする頃急展開をして目が離せなくなる。

 終わりに近づくと<時>を振り返って、どんな単純な人でも僕たちは空間の中で占める場所を測るように、<時>に占める場所もおおよそ測っている、等と執筆の動機のようなものや教訓的な言葉が続いて又もや頭の柔軟体操を要求する。

 ただ直ぐさま死ぬとは思わないまでも老年期をむかえ、癌を発症し頭の隅に「死」という言葉が浮かんだことのある身としては「<時>に占める場所を測る」という言葉には頷かされる。

 次は短歌の本を3冊借りた。

 
 「短歌ください」2冊 穂村弘(著)2014kadokawa(刊)
 ダ・ヴィンチ誌で連載中の「短歌ください」に投稿された作品を#1~#30・#31~#60、#61~#90を3冊に集めたもの。

 短歌のサラリーマン川柳版のような雰囲気があるが、新しい言葉の表現法が面白い。

 「キリンの子(鳥居歌集)」鳥居(著)2016.2kadokawa(刊)

 これは、上記の短歌くださいとはまったく次元の違った歌が収められた歌集である。

 「病室は豆腐のような静けさで割れない窓が一つだけある」で始まる歌集は読み進むうちに胸を掻きむしられる。

 彼女が何歳なのか、住所も名前も分からない。

 学校にも行けず、独学で漢字や言葉を学び、人の歌集にルビを振って貰って何度も読み返し短歌のリズムを掴んだという。

 短歌として表現できる能力を磨きながら、幼少期からの自分を振り返って歌っている。

 かつて眼前で展開した悲惨極まりない体験も、社会の底辺でいまも生きている自分も、冷徹な目で捉えている。

 短歌があって彼女は生きていられたし、これからも生きていくのだろう。

 「失われた時を求めて」能動的に動いた作家プルーストと、生きる糧として短歌をよみ人に見いだされて結果的に<失われたかに見えた時>に意味を与えようとしている鳥居という作家。

 最近読んだ図書館の本では、「キリンの子」には星5つをつけたい。

 図書館は突然の出会いの場所なのだ、本との。

 

にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画は観てるとき、読書は読んでるとき

2017-04-17 09:27:52 | 本と雑誌
 「1000年後に生き残る青春小説講座」という本を先日読んだが、その中で6000万部以上を売り上げ今なお年間50万部以上が売れている、J・Dサリンジャーのキャッチャー・イン・ザ・ライ」を生き残り候補に挙げていた。

 以前村上春樹の訳したものを読んだことがあった。

 ただ随分以前のことで、・・・ライ麦畑で遊んでいて誤って崖から落ちたりしないように僕はは子供達を守るのだ・・・などという言葉だけを覚えていた。

 読後感の記録には星を5つもつけているから、かなり感銘を受けている筈なのに本の題になっている言葉だけしか思い出せないという体たらくだ。

 再度図書館から借りることにして、ついでに他の本も借りてきた。

 
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」J・Dサリンジャー(著)村上春樹(訳)2003.4白水社(刊)
 「人生のちょっとした煩い」グレイス・ペイリー(著)村上春樹(訳)2005.6文藝春秋(刊)

 たまたま訳者が同じである本を選んだのは偶然だった。

 「ライ麦畑・・」の方は僕が君へ語る長い少年の頃の物語で、エデンの東にちょっと似た感じもする。

 言葉に敏感に反応しグッド・ラックには拒否反応を示す少年だ。

 題の由来のライ麦畑で・・は、スコットランド民謡として有名で、日本では「故郷の空」という歌でお馴染みと知った。

 確かにやるせない少年から青年期への心の動きは、おそらく沢山の人達が共感し、そして読み継がれて行き永遠のベストセラーになり得る一冊だろう。

 「人生のちょっとした煩い」は15の短編からなっているが、この表題は短編の作品としては無い。

 6編目の「人生の関心」のなかにちょこっと出てくる、・・・つまり「人生のちょっとした煩い」みたいなものでしかない。という文章から立ち上がってきたものだろう。

 とても会話の多い作品ばかりで、スピード感のある文章がとても面白い。

 現実に生き、思い出にも生き、空想や夢でも生きることの出来る強い女性が主人公のものが多い。

 「グッド・ラック」と最後に言い切る場面があって「ライ麦畑」との違いが如実である。

 訳者が同じなので、多分意識したのではないかと思う。


 「いのちのことば」柳澤桂子(著)2006.12集英社(刊)

 上記の2冊が僕が君へ語る物語、或いは私が語る物語として構成されているのに対して、この本は「いのちのことば」として直接読者に語りかけている。

 「病」「家族」「いのち」「心」「老い」に章分けされていて、詩のようでありエッセーのようでもある。

 文末が「です。ます」調と「である・ではない」調のものが混用されていて、見開きの左右のページで異なる用法が多く見られ、読んでいて違和感が生じた。

 多分たくさんの書籍や出版物などに掲載されたものから抽出して再構成して1冊にまとめたためだと思われる。

 上記2冊を読んだ後だったのが違和感を覚えた原因かもしれないが・・・。

 考えてみれば読書は読んでいるときが勝負であって、後でいくら覚えているかなど考える方が間違っているのだろう。

 唯でさえ記憶力の衰えを嘆いている私としては尚更のこと。

 
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「句集」この読みやすく読みにくいもの

2017-03-21 10:03:21 | 本と雑誌
 図書館からいろいろな本を借りてくるが、選択の基準が読みやすさになってきた。

 本文が二段組になっていたり、やたらギッシリ文字ばかりだったり、印刷が薄くてしかも小さな文字の本は敬遠する。

 そこへいくと今マイブームの本は詩や句集である。

 
 「坊城俊樹句集」「少年たちの四季(西山真一郎)」「漱石くまもとの句200選」
 
 「いま、兜太は」「荒凡夫 一茶(金子兜太)」
 
 「羽羽(正木ゆう子」
 句集の良いところの第一は、2ページ見開きにしても4~6句しか載っていなくて、空間が多く字が大きい。

 五七五の短文なので、スパッとある一瞬が切り取られて提示されていて小気味が良い。

 わかり辛い句もあるが自分にピタッと来る句が一冊の中には何句かある。

 ところが最近少し問題も発生しつつある。

 俳句の作り方とか、解説本はかなりあるのだが純粋な句集はそれほど多く置いてない。

 句の中に使われている漢字がスラスラと読めない。

 正木ゆう子氏の「羽羽」という句集の羽羽は「たらちねのははそはのはは母は羽羽」という自作の羽羽からとったという話で、羽羽というのは深い意味はなく、「はは」という音が母に同じという理由だけらしい。

 例えば難しい漢字の句として「雀色どき雀鷹の毟れる羽毛降る」とか「魘さるるまで緋の躑躅丹の躑躅」などなど・・・。

 ふりがなを打ってあるのは判るが、木や花や鳥など独特の呼び方や当て字のような用法などなかなか手強い。

 最近電子辞書を本気で買いたくなってきた。

 「友達は少しでもよし桃の花」

 
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほら・あれ・それ・え~っと言葉が死んでいくよォ

2017-02-20 09:49:49 | 本と雑誌
 最近うっかり忘れが激しくなったような気がする。

 例えば何かをする目的で二階に上がったのに、階段の途中で別な事が頭に浮かんで、その事を考えながら二階に上がり着いた途端に、何のために二階に上がったかを失念するという、お粗末な事象がわりと頻繁に発生する。

 三つ以上の用件を一度に片づけるぞと張り切って家を出て、帰って来た後でちゃんと一つくらいは未達成がある。

 自分に自信がないので、必要でかつ重要な事は直ぐに手帳にメモをすることにしている。

 特に他人との関わり合いの中で、忘れることは許されないと自分で自覚した事項は「いつ・どこで・なにを」を明記する。

 ところが、ここで要注意は手帳に書いたことで安心してメモしたことを忘れるので一日2回位は手帳を開く。

 人の名前も、場所も、事柄も直ぐに言葉になって口から発せられず「ほら・あれ・え~っと」等と自分で話の腰を折る。

 
 「小川洋子の言葉の標本」小川洋子・福住一義(著)2011.9文藝春秋(刊)
 本に書き表わした言葉はある意味で、本の中で言葉の標本として博物館のように展示され残されていく。

 ただし、紙の印刷物媒体そのものの存続が危ぶまれている昨今、それは何処に展示されるのか。

 個人の所蔵として?図書館・古書店で?。

 「ほら・あれ・それ」などと固有名詞などがスラスラ出ないことなど日常茶飯事で「語彙」などはドンドン失われていることに気づく今日この頃である。

 新しく長ったらしいカタカナ語が、メールや文章にするのは手間が掛かると、4文字くらいに短縮されて流通し始めると、英語にも日本語にもない意味すら不明な言葉となって私などは置いてけ堀を食らってしまう。

 
 「季節と出会う俳句七十二候」「風車・和田悟郎句集」

 一月が経てば季候の変化は実感できる。

 二十四節季は更に半月でそれを表し、七十二候に至っては5日毎の変化を読み取れというわけだ。

 5日の変化を実感できるほど今の日本人の五感が研ぎ澄まされているとは思えないが・・。

 それでも、この微妙な変化を言葉で表そうとした先人の努力には頭が下がる。

 季語として利用する人もいるだろうが、言葉の博物館として捉えることも出来る。

 昔から言葉はサドンデスゲームを繰り返してきた。

 泡沫のように漂う言葉の中で千年持ちこたえる言葉は想像できない。

 「サドンデスゲーム言葉も命がけ」

 
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女が嘘をつくとき

2017-02-11 13:27:22 | 本と雑誌
 地震被害のため図書館が休館していたが、再開と同時に図書館を訪れる人が以前より多くなったような気がする。

 例によって俳句だの詩だの川柳だのと短詩型文芸の本に直ぐ手をだしている。

 概ね一回につき5~6冊借りてくるが、普通の外国の翻訳物は必ず2~3冊は借りてきている。

 本は分類的に国別になっているようだが、俄然アメリカが多い。

 そんな分類の中で、近頃はもっぱらその他で一括りされるような国の作家の本を選んでいる。

 
 「女が嘘をつくとき」リュドミラ・ウリツカヤ(著)沼野恭子(訳)2012.5新潮社(刊)

 6編の物語からなる連作短編集。主人公はジェーニヤで全ての短編に登場する。

 不幸を乗り越えて生きる術としての嘘?

 嘘がモチーフだが主人公は一貫して嘘をつかない。

 そりゃまそうだろう、物語が収拾つかなくなる。

 私的には「星★★★」デス!

 
 「陽気なお葬式」リュドミラ・ウリツカヤ(著)奈倉有里(訳)2016.2新潮社(刊)

 私が本を選ぶときの基準は、文節が短くスピード感のあるものを選ぶ傾向にある。

 特に200ページに満たない中編の場合、始まりの1~2ページに目を通してサッと決めてしまう。

 失敗しても一向に構わない、それが図書館の本の良いところだ。

 帰ってから気がついた。

 この2冊の本が作者が同じであることに。

 訳者は違うものの文章から受ける感じは殆ど同じで、深刻な内容でもユーモアを交えて物語は進んでいく。

 1943年生まれ、現在ロシアで最も活躍する人気作家だという。

 私的には「星★★★」デス!

 
 「火によって」ターハル・ベン=ジェッルーン(著)岡 真理(訳)2012.11以文社(刊)

 作者は1944年モロッコ生まれで、現代フランス語マグレブ文学を代表する作家・・・・とある。

 120ページある本の87ページまでが本文で、40ページ近くが「訳者解説」である。

 「アラブの春」と呼ばれた、一連の革命の導火線となった焼身自殺を題材にした物語だが、作者の思いも熱いが訳者の思いも熱くて、その解説にかなりの量の紙を使用して事件と本の内容について語っている。

 熱すぎて、昔の高倉健主演の我慢に我慢を重ねてついに殴り込む任侠者のパターンが頭に浮かんでしまった。

 私的には純粋に小説としては「星・・・半分」デス!

 前の2冊がロシヤの深刻な状況をユーモラスにさらりと言ってのけて共感を呼ぶのに対して、後の1冊は強烈な表現の連続によってかえってその内容を薄いものにしてしまっているような読後感だった。

 「季は花に憂いは本に訊いてみる」

 
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする