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カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。趣味さまざまなどを際限なく・・。

「コリーニ事件」と「夜と灯りと」を読む

2015-02-03 10:19:45 | 本と雑誌
 町の図書館が少し長期の整理作業を行うのか、今回の返却日はわりと長くて2月15日になっている。

 配偶者は10冊借りてきて、あと一冊で読み終えるなどとうそぶいているが私は借りた3冊のうちやっと2冊を読み終えたばかりである。

 
 「コリーニ事件」フェルディナント・フォン・シーラッハ著 酒寄進一訳 2013.4東京創元社刊

 作者は1964年ドイツ生まれ、ナチ党全国最高指導者の孫、という経歴をもつ弁護士であり作家である。

 物語はイタリア生まれのコリーニという男が起こした残忍な殺人事件の国選弁護人として被告人の弁護に当たる。

 殺された被害者はかつて家族同様の付き合いのあった友人の祖父。

 現在の犯罪を裁いていくうちに、過去の大戦における残虐な行為と戦後における戦争犯罪に対応する法律の変遷が明らかになっていく。

 物語の展開は人物背景を前半に、法廷闘争を後半にエンターテイメント的に描いて飽きさせない。

 しかしながら、ナチ党員の孫が書いという背景があるが故に、ドイツ人の強い決然とした思いが伝わってくる。

 戦争犯罪の責任をどこまで問うのか?いつまで問うのか?

 命題は重い。特に日本人には・・・・・。

 さて、お次はこれまたドイツの作家のもの。

 
 「夜と灯りと」クレメンス・マイヤー著 杵渕博樹訳 2010.3新潮社刊

 作者は1977年東ドイツ生まれ。建設作業・家具運搬・警備などの仕事を経た後作家活動。

 ドイツ再統一後の東西格差が問題になりやすいが、この作品はどこにでも転がっている社会の底辺の人々の日常を描いている。

 表題作の他12編の短編によって構成されているが、後ろに読み進むほど面白くなってくる。

 どの作品も主人公「おれ」の行動が短切な文章で畳みかけるように述べられる。

 正直、始めの2~3編は読むのを止めようかと思うほどの気分にさせられた。

 しかし、やがて文体に慣れ、作風らしきものが感じられてくると尻上がりに面白く感じるようになった。

 「老人が動物たちを葬る」という作品では、限界集落ともいうべき村の老人達の究極の断捨離が展開する。

 いや~あ、ほ~んと参りました。

 
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オゥ~「能」!

2015-01-27 09:40:16 | 本と雑誌
 日本の古い伝統芸能といったものをテレビ以外で直接観る機会は少ない。
 「文楽」は一度だけ観たが「歌舞伎」などは観たこともない。
 そうした中で「能」は「薪能」などが地方でも行われるので、機会を求めて出かけることにしている。
 「謡曲」の同好会に参加しているのでその影響が大きい。
 先日同好の士から、「能」のガイドブックを貸していただいた。
 
 「能ガイド(90番)」読んで、観て味わう「幽玄の世界」丸岡圭一監修 吉越研写真 2010年成美堂出版刊
 二百数十曲あるといわれる曲の中から現在も比較的上演機会の多い作品90曲を編集部が選んで五十音順に作品紹介したものである。
 「謡曲」の同好会で稽古した覚えのある曲も30ほどあって、物語の内容が思い出された。
 特に興味を引いたのは、「番組表の見方」「能舞台」「能の演目・種類」「能面の種類」「装束・鬘・冠り物・作り物」「舞・型・囃子の種類」それに他の芸能などに及ぼした影響など、ところどころに入れてある解説である。

 伝統の芸というものは「舞台芸能」はいうに及ばず「短歌・俳句」などの文芸、「華道や茶道」などにも形式の枠を設定し、その制限された中で如何に表現するかを求めるものが多い。

 「制約下の表現」といえども、そこに無限ともいえる精神の自由があると感じる人もいる。
 いやいや、自ら制約を科すなど真の自由な表現法ではないと考える人もいる。
 ただ、日本人は様式美といったものが好きな部類に属しているような気がする。

 「ガラパゴス化」・・・必ずしも悪いことの代名詞ではない。

 「ガラパゴス美学の文字に置き換える」

 ちょっと能天気な一句で〆てしまおう。

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新春読書(3)「居心地の悪い部屋」

2015-01-23 10:40:41 | 本と雑誌
 短編集などでは、表題作品がどこかにある場合が普通である。
 ところが今回読んだ短編集にはそれがない。
 題名からして既に何とな~く居心地はあまり良くないよ~って雰囲気が漂っている。
 
 「居心地の悪い部屋」岩本佐知子 編・訳 2012.3角川書店刊
 11人の作者が著した作品12編を編集してあって(一人だけ2作品)、それぞれが個性溢れる作品ばかり。
 訳者で編者の岩本氏が編集後記で述べる如く、誠に据わりが悪く不安定な気持ちにさせる作品を集めてある。
 「ヘベはジャリを殺す」(米)二人の安定感のある会話なのに、その会話の内容は極めて不安定なという短編。
 「チャメトラ」(メキシコ)夢を見、夢を見ることでしか生きることの出来なかった男達の最後の夢。
 「あざ」(英)不思議な体験話が不思議なままに終わる。
 「来訪者」(米)全編がほぼ電話による親子のやりとりで進行する物語。
 「どう、眠った?」(加)全編が会話なので、「 」で囲む必要がないという文体が特異な一篇。
 「やあ!やってるかい!」(米)冒頭から延々と文章が続いてピリオドがあるのは文末の一箇所のみ。
 その他、架空の大リーグ記録を仕立てて、野球トリビアとして紹介する手法に翻弄されて、有りそうで無さそうなおちょくられっぱなしのままで終わる一篇もある。

 短編は短編であって、結論が出ようが出まいが不意に終わろうが、「それで良いのだあ」という元祖天才バカボンの父の言葉を地でいくような作品群で、編集者に敬意を表したいほどだった。

 してやられた感が残る、「読書って本当にいいもんですね!」と言ってしまいそうな、居心地の良さも感じてしまう私なのだが、・・・まっ、それでいっか。

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新春読書(2)

2015-01-15 10:03:09 | 本と雑誌
 よっぽど手元に欲しい本以外は、ほとんど図書館から借りて読む。
 最近は短編か、せいぜい200頁程度までの中編を読むことが多い。
 この本も133頁の中編である。
 
 「空気の名前」アルベルト・ルイ・サンチェス著 斎藤文子訳 2013年白水社刊

 ストーリーより雰囲気重視の作品。日本語訳がすんなりとは頭に入ってこない。
 たとえば冒頭の書き出しは、・・・そんな風に見ていては、水平線は存在しない。視線が水平線を作るんだ。まばたきするたびに崩れる一本の糸。・・・とまあ、こんな具合だ。
 こんなフレーズもややこしい、・・・無関心ということが何なのか、彼には理解できなかった。真のサラセン人は、抜きはなった白刃による拒絶しか知らないのだ。・・・などなど。

 かと言って、読むのを止めるのは憚られるような妙な気分にさせられながら、小説は唐突に終わる。
 読者には事の成り行きは推測出来るが、主人公は知らない(或いは知ろうとしないのかも・・)という風で、余韻を残したまま終わるのである。

 一人の少女(ファトマ)が海の見える窓辺で、深い溜息をもらしながら遠くを見つめる眼差しこそがこの物語を進行させる。
 そしてもう一人の女、港から港へと移り夜の巷に生きるカディヤという女の伝説的物語も男達の間で同時進行する。
 この二つの物語は、ある日一点で交わるが、それ以降登場人物達の運命は交わることはない。

 将来に亘ってそうなのか?・・・それは分からない。

 読み終わって、主人公ファトマに代わってこっちが溜息をついてしまった一冊だった。

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後半の対談に星3つです!

2015-01-09 08:50:40 | 本と雑誌
 新年早々本ばかり読んでいる。
 分厚い割には字が大きく読みやいとか、紙質が厚くて実際の頁は見た目より少ないのがいい。
 俳句の本をよく借りてくるのは、川柳の作句の参考にならないかという不純な動機からだ。
 モーロク俳句というくらいだから、おもしろい句もあるのかなという程度のノリで借りてきた。
 
 「モウロク俳句ますます盛ん(俳句百年の遊び)」坪内稔典著 2009.12岩波新書刊
 先日ある飲み会に参加したとき、俳句を習っていたことがあるという人と出会った。
 その先生が、川柳は俳句に比べれば二流だとおっしゃったと言う。
 なるほどねと妙に感心して相づちをうった後、俳句の優位性を述べる時の対象に他の分野をもってくるのは如何なものでしょうね、と若干の抵抗感を表明しておいた。
 
 その時の会話を思い出しながら本を読み進むと、俳諧の発句から脱皮し「俳句」として定型化させた正岡子規の偉大さが際立ってくる。
 今で言うなら差別化を図ったというところだろうか。
 そこから脱皮したいと自由律の道を歩もうとした山頭火の句が、今読まれてはいるものの主流にはなり得ないのは何故か。
 その辺りが、本の3分の1を占める後半の対談で述べられている。
 モーロク俳句と言える著者だからこそ出来た対談だったのではないかと思う。
 どこが凄いかと言えば、対談相手は社会学者の上野千鶴子氏で、十年前に表現法としての俳句を見限って止めてしまったという話で、しかも定型句ではなく自由律の句ばかり詠んでいたというのである。

 見限った理由について、どうしても述べてみたい人物と、与えられた五七五という制限にあえて縛られながら表現したいという人物の全く相反する考えの人物同士の対談だから内容はかなりエキサイティングだ。

 対談ものというと、普通は「そうですね」とか「おっしゃるとおり・・・」などと肯定的な対談の進め方が多くてお互いが得意の分野を認め合いながら和気藹々に進んでいく。

 そうしたなれ合い的な部分が全然無くて、上野氏が著者の表現者としての根本まで問いただすに至っている。
 考えるに、こうした真摯で真剣な表現者同士の論争をよくぞ本にしてくれたなと感心した。

 後半の対談部分に「星3つデス!」

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ホントか?と疑いたくなるタイトル

2015-01-08 09:48:47 | 本と雑誌
 年明け早々おいおいと突っ込みを入れたくなるようなタイトルの本を借りてきた。
 
 「認知症は水で治る」田原総一郎・竹内孝仁著 2012.4ポプラ社刊
 専門家の竹内氏に田原氏が質問する形式で編集されている。
 2年も前に出た本だから今頃へえ~なんて、お前遅いぞと言われそうだが、「〇〇で治る」といった風な本は通常読まないし図書館で引っ張り出して見ない限りは、わざわざ買うことはない部類の本なのだ。
 たまたま配偶者の友達や親戚関係に患者がいたり、検査を受けに病院に連れて行く苦労話などが耳に入ってくるようになって関心がより強くなったのである。

 地方の自治体でも「認知症サポーター」の養成に力を入れているが、私もその講習を受け修了証を貰っている。
 そこで一応認知症の実態やサポートの要領を教わったわけだが、自分のものになった気はしていない。
 
 人間は誰しも老いるし、脳の老化も避けては通れない。
 生理的なボケは仕方の無いことなのだろうが、要は本人の自覚や周りの対応でその進行の度合いや病的な段階への移行に違いが出てくるということなのだ。
 
 本を読めば「水で治る」と決めつけてはいないが、最近は「これで○○・・」とか「有効成分は○○の何十倍」などと根拠もハッキリしない決めつけが延々と流されるサプリメントのCMなどが多すぎて何とかしてほしい気分になっていた。
 そこへこの本のタイトルだから、真面目にやってよと言いたくなったのだ。
 
 老化による生理的な単なる物忘れが、水分補給や食事・排便・運動・病気や怪我などの身体的活動或いは、友人・仲間・役割・家族関係・地域の受け入れなど社会的関係といったものの影響を受けて、認知力の低下を招きひいては病的な認知症に進行していくというのである。

 この影響を受ける様々な要因を取り入れ、あるいは排除し重症化しないようにしようというのがこの本の趣旨である。
 認知症患者が700万人とか高齢者の5人に1人とかいう記事が今朝の新聞に掲載されていたが、その主たる内容は検査法の簡便化・有効な薬の開発促進・早期治療による重症化防止だった。

 検査法が簡便化されれば、受検者も増え患者予備軍は更に飛躍的に多くなってくるだろうと思う。
 今でも私の周りに何人もの患者がいるのだし、私自身だってそうなる確率の枠外に居られる筈も無い。
 そうなると、この本に書かれているように個人が出来る簡単な、その割には疎かになりがちな自己管理をしっかりやるしかないのではないかと思うのである。

 せいぜいセッセとブログを更新し、その為のネタ探しに奔走し、本を読み仲間と謡曲を唸り少しは責任有る役割をブツブツ言いながらでも続けるしかあるまい。

 それでもなっちゃった時は、「はい、ごめんなさいよ!」

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短編は一枚の写真

2014-11-18 08:57:54 | 本と雑誌
 長編は時間と根気の問題でちょっと遠慮したいときがある。
 せいぜい200ページ以内がいい、・・・などというときが。
 
 で、87ページしかない、「鑑定士と顔のない依頼人」ジュゼッペ・トルナトーレ著 柱本元彦訳 2013年11月人文書院刊
 イタリアの映画監督トルナトーレの作品。原作として書かれた物でも、映画の後で書籍化されたものでもないらしい。
 ただし、映画を作ることを目的として書かれているので実に30章にわたるカット割りのイメージが強い。
 一つの章が平均2ページちょっとで、人物や部屋の特徴や調度品の説明が具体的で映像として浮かんでくるようだ。
 場面展開がスピーディーなので退屈する暇はない。ただし映画のテキスト的な要素が強く、一般的な小説の読後感とはちょっと趣を異にする。
 
 これも141ページに13編の短編が収められている。1編は5~10ページである。
 「対岸」フリオ・コルタサル著 寺尾隆吉訳 2014年2月水声社刊
 1937~1945年にかけて書き連ねられた、短編13を収録したもの。収録作品もさることながら、巻末の付録として収められた「短編小説の諸相」がいい。
 1963年にキューバで講演されたものの内容だが、東西冷戦の時代革命の旗手カストロの地元という場所で行われた講演の内容には、革命の中にあって文学というものの有るべき姿が気迫を込めて語られている。

 長編は映画、短編は一枚の写真という説明の仕方が分かり易い。

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終わりの感覚

2014-11-09 09:16:27 | 本と雑誌
 もちろん私的偏見が言わせる事ではあるのだが、時々おやっと思わされる本に出合うことがある。
 たまたま図書館で手にして、ページ数が180ちょっとで負担感が少ないお手軽感が選ばせた。
 パラパラっと、書き出しの部分を覗く。

 ・・・・いくつかの事を思い出す。順不同に、
 ーーーぬめぬめと光手首の内側。
 ーーー濡れた流しに笑い声と共に放り込まれる熱いフライパンと、立ち上がる湯気。
 ーーーくるくると回りながら排水口に近づき、ついに吸い込まれて、家の高さを一気に流れ下る精液の塊。
 ーーー不合理にも勢いよく逆流する川と、その波とうねりを追いかける懐中電灯の光五、六本。・・・・

 と、いった調子の書き出して始まっているわけだから、謎解きの風情もあって興味が沸いた。
 
 「終わりの感覚」ジュリアン・バーンズ著(土屋政雄訳)2012年12月新潮社刊
 リタイアした60代半ばの主人公が青春時代を思い出してゆく。
 初めての恋人や自殺した友人のことなどなど・・・。
 そして現在にいたる思い出の物語が終わろうとするが、本はページ的に半分ほどしか進んでいない。
 そして第2章に至って、見知らぬ弁護士から手紙が届く、日記と500ポンドをあなたに遺した女性がいると。
 記憶の底からかつての恋人の母親だったことが思い出された。
 日記は高校時代の友人でケンブリッジ在学中に自殺したエイドリアンのもの。
 優美で知的な文章と衝撃的なエンディング。
 
 若い頃を意識的に思い出すとき、人は様々な出来事に一応の決着をつけていると思っている。
 後悔するような出来事であったとしても、その時の自分はそうした対応しか出来なかったのだと・・・。
 そして結果責任は時間に取って貰うしかないのだと・・・。
 日本人の観念的思想に照らせば尚のことだ。
 人生は流れる水の如くで、諸行無常なのだと・・・。
 どちらがどうとうは言えないが、哲学や宗教観の相異も思い知らされる。

 と、まあ偉そうにのたまったところで一句。
 「季は花に憂いは本に訊いてみる」
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日常の中の季節

2014-10-19 08:43:37 | 本と雑誌
 図書館から本を3冊借りてきた。
 今月はじっくり読む時間的余裕がないので風景などを楽しむ写真集にしてみた。
 
 「里山の一日 秋の日」・「里山の一日 冬の日」今森光彦著 2007年(アリス館)刊
 と、「味写入門」天久聖一著 2010年 株式会社アスペクト刊
 写真を主とした本の類は概ね高価だ。紙の質がカラー印刷に影響をあたえるので仕方が無いのだろう。
 田舎の風景を追った里山の一日は春夏秋冬の4部に別れていて、季節を味わえる。
 味写入門は、人々の動きや表情を追った面白い写真が多く、ついその現場に引き込まれそうな感じになる。
 私としては、この風景や人物の動きを題材として自分なりに「課題」設定して句を詠んでみたいと思ったのだ。
 さて、返却日は11月1日、それまで何句詠めるか楽しみだ。
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原風景

2014-10-10 13:03:11 | 本と雑誌
 投句の締め切りは近づいているのになかなか作句が思うようにはいかない。
 とりあえず配偶者に誘われて図書館に行って、本の背表紙などを眺めてみる。
 結局2冊借りることにした。
 
 「美しい日本の原風景」工藤隆宏 編集 2013年10月洋泉社刊
 今も残る、古き良き日本のふるさと百景 ということで、里山、棚田、農村、漁村、古民家、ローカル線などなど。
 眺めていれば一句くらい浮かびそうなものだと期待したが・・・・さて。
 
 「川柳入門 はじめのはじめ」田口麦彦著 東京美術刊 
 入門書というのは、興味はあるのだが様子が分からないのでちょっと覗いてみるか的な読者のものだと思っていた。
 確かに本書は川柳とはどんなものかが述べられているが、単なる入門書というより「作句に行き詰まった者よ、始めのはじめに立ち返れ」といっている再入門の書の趣が強い。
 難しい語句を並べたり、ひねったり、こねたりとしているうちに、「・・・根岸の里の秋の夕暮れ」的な定型句に陥ってしまう。
 間口は広いが内部は枝分かれもあって、間違った方向に進むといよいよ迷路にまよいこむ。
 はじめのはじめは、川柳の「原風景」を指し示す迷い道に立てられた道標だったようなきがしてきた。
 図書館の本は返す必要があるので、一冊買ってしまった。

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