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カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。趣味さまざまなどを際限なく・・。

熊本城の復興工事が本格化してきた

2017-05-09 11:03:57 | 熊本地震
 5月の句会に参加するため熊本城の近くの会場に出かけた。

 少し早めに家を出て、熊本城の二の丸広場まで歩いてみた。

 
 
 (左から宇土櫓・小天守・天守閣)

 天守閣付近には鋼製のやぐらを組む作業がなされていた。

 手前の長い石垣の上にあった塀はみな倒れ、工事のための施設が見えていた。

 
 (桜馬場から見る飯田丸)
 角の石垣だけで支えられていた、一本足の飯田丸櫓も鋼製の部材で土台から持ち上げられ石垣や建物底部の修復を待っている。

 
 (御幸坂手前から見る旧大手門前)
 石垣の前部は崩落したが西側部分が無事で、辛うじてもっている櫓と、熊本城と掘られた石の標柱は台座と45度ズレたまま辛うじて建っているという、辛うじてコンビである。

 
 二の丸手前の空堀には、崩落した石垣の部材に記録の表記がなされて次の再建のために整頓して置いてある。

 これはまだほんの一部なので、すべてを掌握するのは多分容易ではなく、修復に20年以上が見込まれるのも頷ける。

 文化財の保護と耐震性を考慮した修復のあり方等、城の歴史上何度か重ねられてきた熊本城修復の平成バージョンが後世の人々にどう評価されるかちょっと気になる。

 今回の地震で崩れた部分は清正やその後の細川時代の石垣よりも、明治時代の地震後に陸軍などが修復した箇所に多くみられたという。

 戦国時代から戦や地震など幾多の経験に裏打ちされて、築城技術は磨かれてきているのだ。

 ここは先人の知恵と、地震に対する最新の知見も参考に災害に強い復興工事を追求して貰いたい。


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体育館の鯉のぼりと一年前のブログ

2017-05-08 08:51:45 | 熊本地震
 一年前には被災した大勢の人々が避難していた町の総合体育館も、仮設住宅などへの入居が進み今は静かに佇んでいる。

 体育館は基礎の部分に問題が見つかって、解体されて建て替えられる予定になっている。

 かつて大会旗などが掲揚されていた入口付近のポールには大きな鯉のぼりが5月の風に揺れていた。
 
 一年前やっとネットに繋がって間もない頃、地震の直後に撮った写真や思ったことをブログに書いたが、地震の揺れ方が時日と共に変化している等と書いたものがあって、再び思いを新たにしている。

 震源地との距離・震源地付近の断層の流れの方向などが揺れの方向に影響を与えていることがよく分かった。

震源地にて
 我が家の状況判断で正しかったのは、強烈な余震を想定して最初の地震の後片付けをしなかったこと。 転倒したものは確実に転倒させ、残ったものもタンスから電化製品に至まで全部床の上に......


 高い場所のものは全て床の上に並べ、倒れそうなものの前には毛布や布団を置いた記憶はあるが、どちらの方向に揺れるか分からないので、家具を縦横に配置して相互に揺れをカバー仕合うようにセットしてたことを思いだした。

 前震の震度7で咄嗟にとった被害局限の考えが意外と有効で、本震では揺れは本震よりかなり強烈だったが被害は少なかった。

 ささやかな固定や滑り止めもちゃんと有効だし、意外にも自由に揺れに合わせて動き回ってるキャスター上の物が落ちなかった。

 驚異的な回数の余震も少なくなり身体の記憶と反応が薄れていくこの頃だが、一年前のブログは人間の弱さと強さを同時に思い出させてくれる。

 
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観音絵馬巡礼の旅展

2017-05-06 09:38:26 | 熊本地震
 益城町の交流情報センターでは、5月2日~7月30日の間<観音絵馬・巡礼の旅>展が催されている。

 「観音絵馬」は押絵作・深浦春をはじめとする3人の女性の手によって明治42年から5年の歳月をかけて制作された。

 その後20年間にわたって全国巡回のあと作品群は観音絵馬堂に収められ、深浦家によって代々守り継がれてきたもの。

 数年前から「益城33箇所巡り」など文化財の保護を進めてきた益城町がその絵馬の修復を含めて受け入れ、「観音絵馬」33枚を、町の新たな文化財として平成26年から修復・復元事業を行ってきた。

 修復作業完成目前で熊本地震に遭遇した。

 しかし絵は最も被害の大きかった地区にあったものの、奇跡的にほとんど無傷で難を逃れた。

 その後修復は継続されて、作品群は蘇った。

 これまで幾度となく風水害・戦災など困難な状況のなか人々の祈りの対象として果たしてきた役目と、今回の地震による被災からの町の復興への願いを重ね合わせて、再び<心の復興のシンボル>としての役割を担わせようというものである。

 大型の絵馬・押し絵は「西国三十三所観世音霊験記」と称し、第一番札所「紀州、那智山 青岸渡寺」(和泉式部)から第三十三番札所「美濃、谷汲山 華厳寺」(大倉太郎信満)までの登場人物が描かれている。

 
 (益城町復興祈念・観音絵馬巡礼の旅展)

 
 (会場の交流情報センター・ミナテラス)

 隣の総合体育館と共に、地震の際は避難所として使用され、玄関アプローチへは手前の通路と段差が出来たままである。

 図書館を含めほぼその機能は回復しているが、役場被災のため生涯学習課はこの建物の一角に開設されている。

 
 
 (展示会場・スペース)

 一番札所から番号順に三十三番まで展示されていて、観世音菩薩によって救われた物語を読みながら進む。

 謡曲に出てくる寺や登場人物も沢山あって、私は物語の方が興味があったが、押し絵の作品そのものを楽しむのもいい。

 謡曲では「竹生島」に渡った都人が「女人禁制の島に女性がお参りしているのは妙だ」と船頭に問うと「それは知らぬ人の言いごとですよ。ご神体は弁財天ですから、むしろ女の人ほど御利益がありますよ」と答える場面があったことを思い出した。

 何度か訪れて三十三枚の押絵を分けて眺めるのも良いかもしれない。

 
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DIY修復記念日

2017-05-04 08:43:25 | 熊本地震
 震災後一年、解体工事は70%弱の進捗だそうだが一部損壊程度の家々ではようやく家の周りの修復が始まっているようだ。

 ブロックや屋根の補修など、頼んでも施工業者が忙しくて一部損壊は後まわしにされていたからである。

 昨日は憲法記念日だったが、私的には自分で家の周りを補修するという目標をほぼ達成した記念すべき日だった。

 
 (被災直後の東側境界ブロック)
 
 (境界ブロックの再建)
 東側境界のブロックについては、隣家と調整し業者が施行したが、北側隣家との境界の一部破損が残ってしまった。

 北側のお宅には「ただ穴を塞ぐだけですから、簡単に済ましましょう。私が自分でやりますから・・」などと安請け合いをしていたのだ。

 
 (穴塞ぎ補修後)
 本人の予定ではブロックを破損箇所だけ取り除き、新しいブロックを積んでハイ出来上がりのつもりだった。

 ところが縦・横に鉄筋が入っていて2個だけは除くことが出来たがあとは無理だと分かって、本当に穴埋め作業になってしまった。

 でもまあ、梅雨時に隣の土や水が流れ込まない程度にはなったので、小さな声で「一丁上がり」と呟いた。

 
 (両側から押されて道路に飛び出した南西角のブロック)
 道路側のブロックは、町の道路補修工事に便乗してついでに元の位置に直して貰った。

 南側の境界は隣家の建て替え基礎工事の施行に合わせて、業者に施行して貰った。

 
 (原型復旧後)
 ただし、折れ曲がって破損した部分は自分で修復した。

 、車庫や門柱付近のコンクリートの割れ目を地震の後で自分で補修した箇所に不具合が目立つところもあったので、その部分も今回合わせて補修した。

 ホームセンターからコンクリート40Kg、山砂20Kg、ブロック4個、型枠用の板3枚を買ってきての工事代金は締めて2000円弱、・・・・う~ん安い!

 出来映えに文句をつけようとした相方も、この値段を聞いて口をつぐんだ。

 ようは技術や出来映えではない、費用対効果なのだ。

 その証拠に眺めながら通る近所の人々は皆一様に「頑張ってますね」と中途半端な褒め言葉を掛けてくれた。

 さて・・・修復は一段落した。

 あとは修復部分が壊れるのを待って、補修するだけだ。

 「豊かさは気持ちと自分慰める」

 
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一年前のブログを読む

2017-05-03 09:31:13 | 熊本地震
 今日は憲法記念日で、久々に門柱に国旗を立ててみた。

 震災後1年間は国旗は立てまいと個人的に決めていたからだ。

 通りに面した家が解体されてやたらと電柱の目立つ街になったが、信号は作動し夕日も当たり前に沈む。

 
 久々に一年前にUPした記事がメールで送られてきた。

 電気・水道・電話などのライフラインが途絶えた後、4日目に電気そして半月後の5月2日に電話が通じたのだろう、ネットに繋がって初めて震災後のことをブログに書いている。

 確か水道の水が出るようになったのは更に半月以上後のことだったが・・・。


ぼちぼちやります・・・。
 4月14日午後九時過ぎに一人で食事をしたあと、居間のソファーで酒を一口ほど飲んだところでドーンという音と共に家がユッサユッサと揺れはじめ家具などの倒れる音が次々と響き渡った。......

 震災から1年が経過し町も様変わりした。

 人の頭数だけ不幸や幸福の種類があるわけで、一つとして同じものはない。

 場所が違い、経済状態が違い、立場が違い、被害の程度が違う、そうした様々な人々が混在して生活している。

 ただ前を向かないことには立ち上がれない。

 立ち上がらないことには、後に続く世代の将来が危うい。

 俯いた姿勢でばかり歩いていた一年前と少し町の空気が変わったような感じがする。

 「物の危機心の危機と馴れの危機」

 
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傾いたお堂

2017-04-29 09:58:33 | 熊本地震
 ウオーキングなどと格好つけているが最近はのんびり散歩になりつつある。

 被災の町を元気にウオーキングは馬鹿みたいに見えるし、張り切りすぎは健康に良くない。

 といいつつ、実際はもうそんな元気はないというのが実態なのだが・・・。

 解体が進んで日頃見たこともない風景が広がって、今まで通ったこともない道があることを知る。

 
 (傾いたお堂)
 教育委員会が益城町33箇所巡りパンフレットを配布し、生涯学習課が健康のため巡りましょうと奨めている箇所には含まれていないが、こうしたお堂は沢山ある。

 もちろん無事なものは少なくて殆どのお堂などが傾いているが・・・。

 2~3年前から巡り始めて、あと5~6箇所を巡れば33箇所達成というところで地震で中断した。

 わざわざカメラを向けたのは、建てられた看板の文句に興味があったからだ。

 「町の貴重な文化財なので、勝手に移動などはしないで下さい」といった旨のことが書いてあった。

 なるほど、一帯が更地なのにポツリと傾いたお堂だけがあれば、復興の邪魔だと一時移動された挙げ句、忘れ去られることにもなりかねない。

 
 早春の頃一度刈り込まれた河川公園の芝生の広場も訪れる人も少なく、ハルジオンの花が咲き誇る草原を思わせる。

 これはこれで悪くはない風景ではあるのだが、手入れが行き届かない結果としての風景の広がりに思いは複雑となる。

 生きる場所、生活する場所の確保整備が先ず優先で、こうした文化的な施設や史跡の復興はずっと後になるのだろう。

 衣食足りての心のゆとりということなのだろうから仕方のない話か。

 
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庭の花・木に思う

2017-04-26 10:22:04 | 熊本地震
 今春植木市で買ってきた小さなサクランボの木に枝葉が出てきた。

 あまり背ばかりが高くなるのも困ると植木市の担当者に言ったら、程よいところでカットして腐食防止剤を塗っておけば切った付近から枝が出てくるから大丈夫だと教えて貰ったとおりにしておいたのだ。

 
 サクラ切る馬鹿・梅切らぬ馬鹿などと諺みたいな文句もあるし、サクランボも桜の親戚みたいなものだから大丈夫かと念を押したら大丈夫だという話だった。

 桃栗三年などというが、サクランボは何年なのだろうか。

 我が家の庭に金柑・柚子に次いで、三つ目の食べられる実の成る木ということで、成功すれば良いのだが。

 復興元年ということで、メモリアルツリーとして大切にしたいと思っている。

 新緑といい花といい、一番清々しい季節の到来だが目立たない小さな花もちゃんと咲き始めた。

 
 (チリアヤメ)
 咲いたら直ぐ散るが、しばらくは次々と咲く。
 
 (赤花夕化粧)
 夕化粧とはいささか色っぽい名前だが、極めて小さな花でよく見ると可憐な花である。

 ただし繁殖力は旺盛で、鉢の外にすぐに飛び出して増え続ける。

 手入れなど手間は掛からないが、油断するととんでもない事に成りかねない。

 謡曲の先輩から頂いた花はいろいろあるが、名前は日本的なものが多いことに気づいた。

 チリ菖蒲、赤花夕化粧、ヒメ緋扇、筑紫まつもと、小判笹、庭石菖、京鹿の子、などなど・・・。

 そして肝心の先輩のお宅は地震で全壊し、沢山あった花々も大部分は処分されてしまった。

 自宅を再建されて数ヶ月になるが、生活の再スタートに過去のものが相応しいかどうかは考えるところだ。

 一本の木、一輪の花、一鉢の草木にも持ち主のライフスタイルが反映されている。

 花のお気楽な里帰りもときとして迷惑となる。

 
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「熊本地震に感じた異変」の読者投稿記事あれこれ

2017-04-25 10:23:25 | 熊本地震
 熊本日々新聞が読者に投稿を募集した「熊本地震発生前に感じた自然や動物の異変」についての応募の幾つかが22日の読者欄から時々掲載されるようになった。

 飼い犬が尻尾を巻いて震えた、啓蟄を過ぎても虫が出て来なかった、咲いたボタンの花が一晩で落ちた、大量の毛虫が2階バルコニーの底面にぶら下がっていた、などと次々と・・・。

 傑作だったのは、調子の悪かった電子レンジの調子が良くなったり映らないことが多かったテレビが映り始めたというのもあった。

 この家電の話など、地震前の異変じゃなくて、地震後の話なのだが・・・。

 地震後の話なら私も一つ発見している。

 
 二つばかり隣の町内にあるお堂の回りの木が殆ど枯れたようになっている。

 回りは殆ど全壊で解体が80%くらい進んでいる地域である。

 左側の木は銀杏なので多分落葉しているだけで、時期が来たら葉っぱを出すはずだが、他のぐるりと後ろまで取り巻く木々は殆ど常緑の針葉樹だから変だ。

 特に「槇」の木が枯れているのが目立つ。

 
 近くの解体家屋で残された生け垣付近でも「槇」の木が枯れていた。

 近くの広大な地積を持つ無人のお宅の庭でも、枯れた針葉樹のようなものが数本見える。

 松などの場合、松食い虫の被害とも考えられるが「槇」の木というのはあまり聞いたことがない。

 横の生け垣の役目を果たしている色々な木々や蔦の花木には綺麗な花が咲き誇っていた。

 
 赤いツツジと白い藤の花が緑の葉っぱに映えてとても綺麗だ。

 お堂のまわりの木々が枯れるという事象がいつ頃からのことなのか私にはハッキリ分からないので何とも言えない。

 ただ一番新緑の眩しい季節を迎えているのに、そこだけが茶色の世界が広がっていてちょっと異様な光景である。

 
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熊本地震復興支援マッチでロアッソを応援に行った

2017-04-16 22:59:50 | 熊本地震
 震災から丁度一年が経過して、今日は「えがお健康スタジアム」で「熊本地震復興支援マッチ」が行われた。

 対戦相手は強豪の松本山雅FCである。

 イベントとしてOBの紅白戦もあるので、いつもより30分早く入場できるようになっていた。
 スタジアムグルメも沢山の人出で賑わっていた。

 特設のステージではいろいろな出し物がある中で「山鹿灯籠踊り」が人目を引いていた。

 

 頭に紙製の灯籠を乗せて踊るもので、灯籠祭では千人踊りが有名である。

 もともと夜に踊るので灯籠のなかには灯りが点って踊りの輪がゆらゆらと揺れる様はとても幻想的なのだ。

 そして今日のホームゲームから1年ぶりにバックスタンドも使用が可能になった。

 
 大勢の観客が訪れて久しぶりのバックスタンドに活気が蘇った。

 前節まで使用禁止の状態が続いていて、スタンドの半分が無人という妙な雰囲気のスタジアムだったのだが、流石に今日は盛り上がり方が違った。

 13990人の入場者というのも、やはりバックスタンドあってのことだろう。

 試合は前半と後半のそれぞれ理想的な時間帯でゴールし2:0で久々に勝利した。

 
 先制点をとって勢いに乗り、後半も中盤を過ぎて点が欲しい頃に加点して理想的な試合運びだった。

 ピンチもあったが、同じくらいのチャンスもあった。

 最後まで全員プレーに徹し、0で押さえて貴重な勝ち点3をものにした。

 
 最後は恒例の勝利のダンス「カモン!ロッソ」で盛り上がった。

 やっぱり勝負事っていうのは、勝てば喜びもひとしおで勝ってこそ明日への希望が湧こうってもんで・・・。

 しばし、応援に行って逆にロアッソに力を貰ったような気分になった。

 おまけに、益城町からの応援だということで「ロアッソのタオルマフラー」をプレゼントされた。

 とても楽しい半日だった。

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熊本地震から一年に思うこと

2017-04-15 13:23:38 | 熊本地震
 4月16日は一年前に熊本で二度目の震度7が発生した日である。

 本震より強い揺れの余震もあるまいと思っていたら、今度のが本震で前回の震度7は前震だったという前代未聞の発表があって、妙に感心したり首を捻ったりしたものだった。

 16日といっても、深夜の1時25分だから14日の地震に引き続く二日連夜の地震というイメージが強烈である。

 「よく逃げずに家で寝ていられましたね」と後で人に言われるが、二階の部屋で仰向けに寝たまま寝具ごとドンドンと縦に突き上げられ、しかも延々と続くので起き上がる事も出来なかったのだ。

 幸い家具などは余震対策で、全部床に平面展開していたので物が倒れる音などはしなかった。

 いろいろあって、取り敢えず自宅で生活できるようになったのは水道が完成した33日後だった。

 先日、「川柳句集 熊本地震の記憶」という熊本県川柳協会編纂の句集を頂いた。

 
 「噴煙吟社」という川柳の同人になっており、吟社が熊本県川柳協会の構成員になっているという繋がりである。

 あの地震からそれ以降の日々を、新聞あるいは同人誌などに発表されたものを集約編集したもののようだ。

 地震当日から数日後の句などを見ると、遭遇した場所あるいは経過した日数によって句の内容が随分違うなと感じる。

 例えば数日後に「熊本城」をみて詠んだ句がかなりあったが、多分益城町では上を見上げる、ましてや熊本城を見上げたり思いを致す等ということは思いつきもしなかった筈だ。

 みんな下を、足元を見ながらトボトボと歩いていた。

 避難所や車中泊から水やパンなどを求めて一日数往復していたのだから・・・。

 この句集には私の作品も6句が掲載されている。

 すべて地震からかなり経過して投句したもので、直後のものは内容が激しすぎてまったく採用されなかった。

 落ち着きを取り戻し、心の内を一般化して表現できるようになって初めて掲載されるようになった。

 どんなに言いたい事があっても、人に伝わる表現法を用いないと駄目だということなのだ。

 でも、もの凄い駄作なのだが、あの頃の心境を忘れないようにノートにはキッチリ記録して肝に銘じている。

 一年が経過して、まったく使われなかった町民グラウンドに野球の練習をする子供達の声が響いていた。

 
 ナイター施設が全部倒壊し、荒れ放題だったグラウンドが、一角だけ整備されて使用可能になっていた。

 なんの励ましの言葉より、この子供達の元気な声が一番の励みになることを今回は特に痛感した。

 何処を復興のスタートラインとするのか知らないが、倒壊家屋を更地にしてそこからの再建をもってスタートとするならまだまだスタートラインに立っていない人ばかりだ。

 都市マラソンなどで、何万人と走るランナーの殆どはスタートの合図があっても、足踏みするだけで当分前には進めない事態を体験する。

 その足踏みさえ出来ない人が大部分なのが現況である。

 
 更地の真ん中に傾いた地蔵堂が建っている。

 益城町教育委員会が定めた「益城三十三箇所めぐり」の一つにもなっている。

 見るだけで誰も手を付けられない、不思議な空間である。

 守ってきた地域の人達の大多数が仮設やみなし仮設に移転して生活している。

 流れる時間、被害状況・程度、そして置かれた立場で句集の「句の内容・表現」も変わるし、再建の槌音の響き具合も異なっていくのだろう。

 もう1年も経ってしまったのか、まだ1年しか経っていないのか私には分からない。

 「もうとまだ人それぞれの震災後」

 
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