Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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◆隣人の奇妙な行動も記録に残る 奇人変人列伝

2023-06-18 14:23:34 | Weblog
蛇喰の八兵衛
 常陸の国龍ヶ崎(現・茨城県龍ヶ崎市)、山田某という者の下僕に、
悪食を専らとする八兵衛という男がいた。
朝から晩までキセルをくわえてタバコを吸うので、藁にでも火が着いたら大変と、
主人が心配して、仕事中はタバコを吸うべからずと命じたところ、
「じゃあ火を使わなければよかんべ」と言って、タバコをムシャムシャ食べ、
その後、醤油を一升飲み干し、唐辛子を一斤(600㌘)と
ヒキガエルの丸焼きを食べたので、周囲の人は驚いた。

村の名主さんはこのことを聞いて、山田家の主人に、
「少しの間、八兵衛を貸してもらいたい。実は私の家の庭に、二つ頭の蛇が出て困っている。
両頭の蛇を見ると、見た人は必ず死ぬといって気味悪がるし、
蛇の執念は深いから、殺しても祟るともいう。
蛇を食べてしまえば形も残らず祟ることもあるまいと思うが、どうだろう。
喰ってくれたら二十両あげますが......」との申し出であった。
 
八兵衛は「二つ頭の蛇というのは毒蛇かも知れん。毒蛇を喰ったら死ぬかも知れねえ。
わしはもう年も六十に近いし、妻子もいないから命は惜しくない。
もし、わしが生き延びたら、お礼金なども要らねえだ。
死んだときは葬式料を持ってくんろ」との返事をし、
四、五日後、名主宅から迎えの者が来たので出かけて行き、
庭の松の木の下にトグロを巻いていた二つ頭の蛇を見るや、
鍬を降り下ろして一撃、二撃で打ち殺し、皮を剥いで身を切り裂き、
醤油をつけて残らず平らげ、二つの頭と皮・骨は火で焼いて、
これも食べ尽くしてしまった。
 
名主は喜んで二十両を与えようとしたが断って、そのまま山田家に帰って行った。
これを見聞きした人々はビックリ仰天、
「八兵衛は蛇の毒で遠からず死ぬだろう」と噂をしていたが、
八兵衛の体に変化はなく、それから二十数年、何の病気もせずに長生きして、
天明八年(1788)、八十余歳で死去。
葬式はたいそう立派に、両家が出してくれた。蛇の祟りは遂になかった。
                 
 
                       (『百家琦行伝』)
 
『百家琦行伝』 蛇喰の八兵衛
 
 
 
 
蛇隠居
 天明・寛政の頃(1780~1800)、江戸の青山に武士の隠居で、
武谷又三郎という人がいた。この人には、奇癖があって、常に虫を喰うことを好んだ。
毛虫・芋虫・ハサミムシ・蝶・蜥蜴・ヒキガエル、何でもOK。
小さな虫は羽とヒゲを抜き取ってそのまま食べる。
毛虫は毛を焼いて食べ、ヒキガエルは腸を捨て、皮を剥いで醤油をつけて焼いて食べる。
したがって、この人の家には虫がいない。蠅も飛ばない。
人々は冗談に「できることなら蚤や蚊もとってほしい」などと言っていた。
 
数ある虫の中で、一番好んで食べたのは蛇で(蛇も虫のうち)、
皮を剥ぎ骨を取り、竹串に刺して蒲焼にして食べた。
私(八島五岳)もこの老人から蛇の蒲焼を貰って食べたが、たいそう美味であった。
 
この武谷さん、筆を持つと御家流の立派な字を書いたが、
この奇癖がある為、弟子が付かなかった。
寛政の末年、六十余歳で死去、墓は青山の熊野横町の高徳寺にある。
                  
 
                        (『百家琦行伝』)
 
『百家琦行伝』 蛇隠居
 
 
辰巳屋の爺さん
 江戸小石川伝通院前に辰巳屋総兵衛という人がいた。
幼い頃に畳屋へ丁稚奉公に出されたが、生来、踊りが好きで、
真夜中に二階でしきりに足音がするので、主人が上がって行くと、
この丁稚が夢中になって踊っていたので、叱りつけ、ようやく踊りを止めさせた。
 
夏の日中、他の奉公人は昼寝をするのだが、
彼は庫の中や納屋の中で、ひたすら汗を流して踊りまわっていた。
 
そうこうしているうち、親が死んだ為我が家に帰ったが、その後もまた踊り続け、
大人になってからは舞の手も上手になり、あちこちの祭礼に頼まれて出演。
赤坂山王・神田明神はもちろん、赤坂明神・氷川神社・深川八幡宮・牛の御前、
何処であれ祭りとあれば行って踊らないことがない。
その踊る姿は、娘形のかつらを被り、黒木綿の振袖に裾模様を染めさせ、
小さな日傘を持ち、さつま芋などを食べながら踊る。
六十歳を過ぎても、やはり娘の扮装で、シワの顔に白粉を塗って踊るので、
人々は「ほら、あれが辰巳屋の爺さんだ」と面白がって人が集まる、
といった具合で、人気タレント並み。
 
ある年の神田祭では、辰巳屋の爺さんが花魁に扮し、
息子とその嫁を新造(しんぞ)姿にし、
孫二人を禿(かむろ)に仕立てて踊ったという(『藤岡屋日記』 文化十年)。
 
文政四年(1821)十月二十八日、八十九歳で死んだ。
このとき近所の若者が集まって葬式の轎(こし)を神輿のようにこしらえ、
唐人笛や太鼓を鳴らし、大勢で踊りながら練り踊り、
寺は近くの慈照院という寺だったが、わざと遠回りして送り込んだ。
 
今(天保六年)尚、慈照院の境内に、
八十余歳の老人が娘姿で黒い振袖を着て踊っている画を彫った墓石が残っているが、
おかしくもめでたい話である。
                  
 
                      (『百家琦行伝』)
 
『百家琦行伝』 辰巳屋の爺さん
 
 
 
 
                           江戸時代 怪奇事件ファイル
 
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