■無名の武士から天下人まで駆け上がった波乱の人生
明智光秀は、1528年美濃国で生まれたとされているが、青年期までは不明な点が多い。
二十九歳の時に斎藤義龍に明智城を攻められて一家離散。浪人時代を経て、朝倉義景に仕えることとなった頃、ようやく光秀は歴史に名を現す様になる。
朝倉家の家臣となった光秀は、浪人時代に知り合った足利家の側近・細川藤孝との縁で、後の室町幕府将軍となる足利義昭の上洛に協力することとなる。これがきっかけで信長とも関係を深めるのだが.....。朝倉家を見限った光秀は義昭の家臣になり、上洛に助力した信長にも忠義を誓う。
それから十年の後、光秀は本能寺にいた。信長の首を手に入れようと本能寺へと攻め入ったのである。
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■山崎の戦い後も別人として生きながらえていた!?
謀反を起こした理由は確定されていないが、昨今ベストセラーとなった『本能寺の変 四ニ七年目の真実』では、家康・長宗我部元親との共謀と云う説を唱えている。
確かに当時の長宗我部は織田家の侵攻に脅威を感じており、家康も織田家に取り込まれることを恐れていた可能性もある。
だから全く動機が無いわけではないだろうが、どちらも勢力はたかだ知れていた。
これらの陰謀論を検証するよりは、信長から酷い仕打ちを受けていた光秀が悩んでいた時に、信長と信忠がたまたま手薄であった為、出来心を起こしてしまったと考えるのが自然だろう。ともあれ、信長を屠った明智の軍勢は、信長の首を見つけられなかった。
これが元で諸侯からの支持を得ることができず、中国から大返しして来た秀吉との山崎の戦いで敗れてしまうのであった。
山崎の戦いからの敗走中、百姓に竹槍で刺され深手を負い、光秀は自害したとされている。
しかし、秀吉もまたその首を手に入れることができなかった。
その為、実は光秀は生き延びたのではなかと云う説が幾つか生まれる。中でも有名なのが、後に天海僧正になったと云う説である。
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■山崎の戦い後も別人として生きながらえていた?
天海僧正とは天台宗の僧であり、徳川家康の側近として、江戸幕府初期の政策に深く関与していたとされる人物だ。
家康が江戸の土地を選んだのも、天海に地相を調べさせ、その助言に従った為とされる。
また、大変な長命で、江戸の都市設計を50年近く担い、百歳以上生きたと謂う。
何故この天海が光秀であったとされるかと云うと、天海の墓所がある日光に明智平と云う場所があることなど、幾つかの理由が実しやかに論じられている。また、天海が自分の出自に関して、弟子たちに多くを語らなかったと記録されている点も、益々この説に拍車をかけている。と云うのも光秀も出自に関しては不明確な点が多い。
冒頭にも触れたが、美濃の生まれであることや生年も確定はしておらず、推測の域を出ていない。
美濃の土岐氏が数十の氏族に分かれているので、家系図も残らない様な傍流の明智氏だったと考えられているだけである。
父親の名前も、明智光綱、明智光國、明智光隆の三人が候補として挙がっていて定まっていない。
ただ、光秀の叔母が斎藤道三の夫人であった可能性があり、となると道三の娘を娶った信長とは縁戚の関係にあるので、義昭は上洛に際して信長の助力を乞う時に、この縁を頼って光秀に仲介を依頼したのではないか、と推測されている。
この様に突然歴史に名を現し、天下人に仕えて出世したのが光秀なのだ。
この登場の仕方は天海僧上とも似ており、それが天海=光秀説の議論を活発にしているのである。
また、光秀は本能寺の変の直前まで家康の接待役を勤めていたので、その縁を頼り家康に助けを求め天海と名を改めて側近になったのではないかとも言われている。
更に、千利休は実は光秀だったと云う説もある。
光秀も茶の湯を深く愛好していたことや、光秀の没年と利休が歴史に登場する年が近いことが光秀即ち利休である根拠とされている。利休と云えば秀吉に仕えた茶人として有名なのだが.....。
ただ、この説では山崎の戦いが始まる前にはすでに光秀は秀吉に勝ちを譲り、茶人として仕えることになっていたと謂う。
後年、利休は秀吉の怒りを買って切腹を命じられるが、切腹は武士が行うものであり、茶人に命じるのはかなり不自然だ。
更に、別説がある。
岐阜県の山県市にある白山神社には、光秀のものとされる墓がある。山崎の戦いで死んだのは、光秀の影武者で、光秀は荒深又五郎(または小五郎)と変名して生き延びたと云うのだ。又五郎は関ヶ原の戦いにも参加し、その帰路、川を渡ろうとして溺死したと謂う。
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■生きていたのは光秀ひとりだけではなかった..........
光秀と同じく、遺体が見つからなかったことから生存説が囁かれる人物がもう一人いる。そう、織田信長だ。
炎上する本能寺の混乱の中、何とか逃げ果せた信長は薩摩に落ち延びたと謂う。
しかし、明智の軍勢から槍傷を負わされていた為、信長は薩摩に着いて間もなく没してしまったとか。
またこの他にも、本能寺から逃れた信長は秀吉に助け出されていたと云う説もある。
だが、その存在を邪魔に思った秀吉は信長を大坂城に幽閉してしまったとも.....。
もし、本能寺の変をやり過ごした信長が、幽閉された大坂城で利休となった光秀と茶を楽しんでいたとしたら、
それこそ、とんでもない茶番劇だったに違いない。
また、坂本龍馬が明智光秀の子孫だと云う説もある。
龍馬の生家である坂本家は、明智光秀の女婿である明智秀満の子である太郎五郎の末裔だと言うのだ。
しかし、龍馬の家系は本能寺の変以前から土佐に居る為、この説は眉唾ものである。
光秀の子孫説として、他に元総理大臣の細川護熙が挙げられることがある。
これは、光秀の娘・珠(ガラシャ)が細川忠興の正室となり、嫡子を産んでいる為である。
しかし、細川の先祖である熊本藩主の血族は、途中でガラシャに繋がる血統が途絶えた為、こちらも光秀とは直接の繋がりはない。
(画像・楊斎延一による『本能寺焼討之図、明智光秀、天海僧正、千利休)
*まとめ
光秀と信長は大坂城で一緒に茶を楽しんでいた可能性も?
「その後」の日本史
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