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◆幕府に公然と戦いを挑んだ承久の乱は何故失敗したのか?

2019-11-21 04:03:24 | Weblog


承久の乱の遠因となった実朝暗殺の現場といわれる石段と大銀杏(神奈川県鎌倉市)。
大銀杏は平成22(2010)年3月に倒れ、幹は元の場所の横に移され、元の場所の根から若木が出て来るよう処置されている。


『後鳥羽上皇は朝権の回復を期して挙兵するが、幕府軍によって鎮圧された。その敗因について諸説唱えられて来たが、果して真因は何であったのだろうか』

承久元(1219)年、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内で鎌倉幕府3代将軍・源実朝が暗殺された事件は、それだけでも大事件であったが、更に、幕府崩壊の危機をもたらす内乱の始まりでもあった。その内乱とは、後鳥羽上皇が幕府討滅を決意して兵を挙げ、2代執権・北条義時が率いる幕府軍と戦った承久の乱だ。この内乱は皇室にとっての一大政変という意味で、明治時代後半から承久の変という呼び方もされるようになった。承久の乱は学校の授業や教科書などでも見聞きしていると思うが、内乱が何故起きたのか、そして後鳥羽上皇の挙兵が何故失敗したのか、不明な部分が多いといわれる。そこで、先ず内乱の経緯を振り返ってみよう。... 実朝の死後、母・北条政子と義時(政子の弟)は、次の将軍に後鳥羽上皇の息子を迎えようとして京都に使者を送った。 しかし、上皇は幕府の申し入れを拒んだ上に、寵姫・伊賀局の所領の地頭を免職・廃止するよう要求した。 義時はこれを拒否し、摂関家の九条道家の子・三寅(後の4代将軍・頼経)を次期将軍に迎えることにした。すると、承久3(1221)年、後鳥羽上皇は諸国の兵1700余騎を招集し、親幕派貴族の西園寺公経・実氏父子を逮捕・拘禁し、上皇の命に従わなかった京都守護・伊賀光季を襲って殺害した。また、義時追討の為に諸国の守護・地頭に馳せ参じるよう全国に宣旨(天皇の命令を伝える文書の一種)を発布したが、鎌倉から幕府軍が進軍すると圧倒的な兵力を前に京方軍(官軍)は敗北し、乱はあえなく鎮圧された。乱後、後鳥羽は所領を没収された上、隠岐島に流され、遂に京へ帰ることなく生涯を終えた。 後鳥羽はかねてから朝権の回復を期していた。そこで、文武に秀でて多趣味な後鳥羽は、蹴鞠や和歌を通じて実朝と親しくなり、幕府を朝廷の中に取り込もうとした。しかし、その朝権回復のキーマンだった実朝が暗殺されたのだ。日本大学文理学部教授の関幸彦氏によれば、「実朝の死は、後鳥羽院にとっても文化による王朝の優位に伴う武威の包摂化という目論見に狂いを生じさせた」(関幸彦著『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』吉川弘文館)とし、「武力への傾きを強めたのは、実朝の死がギア・チェンジとなった」(同書)と述べている。

*両軍の武士に見られた意識の差  
関氏によれば、実朝の死によって朝幕関係の第1幕は終わり、承久の乱に向けての第2幕が始まったという。しかし、後鳥羽の挙兵は幕府軍に返り討ちに遭う形で鎮圧されてしまったが、その敗因については古くから後鳥羽個人の資質にあると指摘されて来た。承久の乱の顛末を記した「承久記」は、後鳥羽が「よこしまに武芸を好み」戦乱を起こしたことを原因とする。また、江戸中期の朱子学者・安積澹泊は自著「大日本史賛藪」の中で後鳥羽の不徳や時勢に暗かったこと、兵力の差が敗因だったとし、江戸後期の歴史家・頼山陽も自書「日本政記」の中で後鳥羽の戦略・謀略の欠如を敗因にあげている。後鳥羽の資質に関して、その見通しの甘さを伝える次の様な話もある。 義時追討の宣旨を発布する前、後鳥羽が京方に味方した幕府御家人・三浦胤義に、宣旨によってどのくらいの御家人が集まるかと問うと、胤義は「天の君の仰せに日本国の武士がどうして背くことがあるでしょうか」と答え、兄で鎌倉幕府の重鎮・義村も味方になるといった。後鳥羽は大いに喜んだが、義村は幕府に駆けつけ忠誠を誓っている。 このように、京かたに馳せ参じる兵が思いのほか少なかったのが後鳥羽の誤算であり、挙兵に失敗した原因だと見る向きが多い。諸国から集まった兵の質も低く、烏合の衆だったとも言われている。 前出の関氏も京方の軍勢が急ごしらえであったとし、「在京御家人、西面、公卿近臣といったそれぞれが戦闘状態に入ったとしても、危機を克服できない」(前掲書)とされる。そして、関氏が指摘するのが戦う目的であり、戦闘に参加した武士と自己の利益代表との関係性である。関氏によれば、「東国武士の場合、明瞭に幕府(鎌倉殿)だった。敗北した場合の負の遺産の大きさを考えた時、負けられない戦い」だったが、「官軍側は守るべきものが何であったのか、高邁な院側の理想だったのか。或いは反北条という怨念による結合だったのか。いずれにしても結集させる意識に少なからず差があった」(前掲書)と述べている。


                    日本史最後の謎
                       武士が覇権を握った鎌倉・室町時代の謎 3-3

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