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◆文永の役と弘安の役 元寇を何故2度も撃退できたのか?

2019-11-22 04:11:23 | Weblog


日本軍は当初、初めてぶつかるモンゴル軍に苦戦したのは確かなようだが、モンゴル軍上陸後の赤坂及び鳥飼潟の戦いといった会戦が始まると、日本軍は地の利も生かして奮戦し、モンゴル軍に損害を与え、敗走させている。

 

『モンゴル帝国(元)の大軍が2度に渡って日本に襲来した元寇は、いずれも神風によって撃退されたと言われて来たが、近年、この定説は大きく揺らいでいる。』

平成23(2011)年、長崎県の鷹島沖の海底で元寇船の残骸が発見された。鎌倉中期にモンゴル帝国(元)が日本へ来攻した元寇の研究はこれまで文献史料が中心だったが、元寇船の残骸の発見によって新たな研究成果が期待されている。その一方で、文部科学省は中学校の学習指導要領の改訂によって元寇という表記を「モンゴルの襲来(元寇)」とすることを告示したが、翌月、「元寇(モンゴル帝国の襲来)」に修正して「元寇」を元に戻した。
その理由として「歴史学のより一般的な用語に合わせた」「モンゴル帝国の拡大によるユーラシア全体の結びつきを学ぶ狙いがある」などが伝えられている。高校の教科書では「蒙古襲来」という表記も見られ、元寇には様々な呼び方があるが、モンゴルでは「蒙古」と呼ばれることを好まないといわれている。
ところで、鷹島沖で沈没した元寇船の残骸が発見されたように、モンゴル(元)軍は文永11(1274)年と弘安4(1281)年の2度に渡って襲来し、日本軍と戦った。前者は「文永の役」、後者は「弘安の役」と呼ばれている。 2度の戦いとも「神風」と呼ばれる大風(暴風)が吹き、モンゴルの多くの軍船が大破してモンゴル軍が撤退した、というのがこれまでの定説だった。
しかし、近年、この定説は大きく揺らいでいる。現在では、文永の役の時に大風は吹かなかったとする見方が有力だ。また、弘安の役の時は大風は吹いたものの、モンゴル軍が撤退したのは大風のせいではなかったとも言われている。 果して、2度に渡るモンゴル軍の襲来と撤退の原因は何であったのだろうか。
順に見て行くことにしよう。 文永の役は、モンゴルのフビライ(世祖)が日本を属国とする為に約4万の軍船を襲来させたことに始まる、というのがこれまでの定説だ。モンゴル軍は文永11年10月19日夜から20日にかけて博多湾に上陸し、御家人を中心とした日本軍と激戦を繰り広げた。モンゴル軍は戦略や兵器では日本軍を上回り、圧倒的に優位にあったが、翌日、モンゴル軍は志賀島に1艘の船を残して撤退した。モンゴル軍は戦況を有利に進めていたのに、何故撤退したのか。その謎の答えとして今日まで伝えられて来たのが、前述した神風、則ち大風、暴風がモンゴルの軍船を壊滅させたというわけである。しかし、くまもと文学・歴史館館長の服部英雄氏は、「大風によって蒙古の大軍が一晩で姿を消した。そんな話はどこにも書かれていなかった」(服部英雄著『蒙古襲来』山川出版社)とされ、その史実を示す史料の存在を否定している。
では、何故こうした話が広まったのだろうか。服部氏によれば、鎌倉時代の史料「八幡愚童訓」に記された、夜中に筥(箱)崎の神が現われて蒙古兵を散々に痛めつけたという話が元になったという、そして、「八幡愚童訓」が史実とされたことによって、「逆に歴史像が曲げられた」(前掲書)とされる。服部氏はまた、公卿・広橋兼仲の日記「勘仲記」などの史料から、モンゴル軍は1日で帰国していないとも指摘しており、「一日で帰るような外国侵略戦争はそもそも有り得ない」(前掲書)と述べている。大風については気象学の見地からも、モンゴル軍が襲来したといわれる10月20日(陰暦)頃は現代の11月26日頃にあたり、この時期は日本ではもう台風の季節ではなく暴風雨が吹くことはないという指摘もある。玄界灘ではこの時期に強い季節風が吹くのは珍しくないという反論もあるが、獨協大学経済学部教授の新井孝重氏は「急激に発達した低気圧によって、予期せぬ荒天と突風に見舞われた可能性はある」(新井孝重著『戦争の日本史7 蒙古襲来』吉川弘文館)としながらも、「モンゴル軍が撤退する直接の原因になったとは考え難い」(同書)と述べている。
ちなみに、モンゴルの正史である「元史」にも暴風によって撤退したとは記されていない。では大風がなかったとしたら、モンゴル軍は何故撤退したのだろうか。 新井氏はモンゴル軍の第1遠征(文永合戦)の目的について、「日本の支配層を交渉のテーブルに引きずり出せばよい。その為の軍事的衝突・恐怖をあたえればそれで十分だった」とし、「長期占領の用意をしていた、という形跡は認められない」という。そして、「撤退は予定通りのもので、帰還中に突風に吹かれた」(以上、前掲書)という見方を支持している。

*弘安の役では実際に大風があった  
弘安の役は、南宋を滅ぼしたモンゴル帝国(元)が弘安4年6月過ぎから約14万の大軍で九州北部に押し寄せたが、日本軍に上陸を阻止されている間に再び神風が吹き、モンゴル軍は大損害を受けて撤退した、というのがこれまでの定説だ。そして、この神風を吹かせたのが八幡大菩薩だと信じられて来た。前述の「八幡愚童訓」によると、石清水八幡宮(京都市)で夷狄降伏の祈祷が行われ、高僧の叡尊が祈祷を続けていると、突然、幡(柱にかけた布)が揺れ、パタッと音を出した。参列者の誰もが、八幡大菩薩が祈願を聞き入れてくれた印だと信じた。数日後、西国から早馬が着いて、叡尊祈願の日に大風によってモンゴル軍が滅亡したことを伝えたというのだ。この時の神風については、教科書でも暴風雨があったことを記しており、7月31日から閏7月1日にかけて大風が吹いたと見られている。 しかし、服部氏は「蒙古襲来絵詞」(合戦で戦功をあげた御家人・竹崎季長を描いた絵巻)に台風のシーンがないことをあげ、「鎌倉幕府御家人には、神風が吹いたから決着が付いたという意識は全く無かった」とされ、季長にすれば「自分たち御家人が獅子奮闘の働きで蒙古を倒した」(前掲書)という思いだったと述べている。服部氏によれば、大風によって莫大な被害を受けたのは鷹島にいた江南軍(旧南宋兵が主体)であり、「我々が思い込んでいた『嵐に次々に船が沈んで行く』光景は、鷹島沖の不運な老朽船・10数隻を除いては、無かった」(前掲書)とされる。
そして、モンゴル軍が撤退した原因を食糧不足や日本軍の猛攻にあるという。 新井氏は壱岐島沖の海上で江南軍の到着を待っていた東路軍(モンゴルと高麗の連合軍)について、「蒸し風呂のような船内は、兵たちの体力をドンドン弱めて行った。また食料の腐敗や栄養の偏り、更には兵糧切れと水事情の悪化が進み、人々の不健康な状態は酷くなる一方であった」(前掲書)とし、艦隊全体に蔓延した伝染病によって3000余人もの死者が出たと述べている。新井氏はまた、江南軍の艦隊に乗船していた人々が鍬や鍬を携えていたとし、「ほとんどの兵員の実態は軍人ではなく農民であり、遠征の目的は兵として戦うより移住・植民にあったのかも知れない」(前掲書)と推測している。この他にもモンゴル軍の撤退について、近年、高麗や大越(ベトナム)などで起きたモンゴル帝国に対する抵抗運動を原因とする説も唱えられている。
神風を原因とするこれまでの定説は最早否定されたといっていいだろう。


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