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◆島原・天草の乱を率いて原城で玉砕 奇跡の少年・天草四郎には尊い血が流れていた?

2019-02-04 04:13:38 | Weblog

寛永14(1637)年秋、九州島原藩有馬村で発生した代官所襲撃の余波は、瞬く間に肥前島原半島と、唐津藩領の肥後天草諸島へと拡大。領民3万700が終結する大乱へと発展する。日本史上最大の一揆とされる島原・天草の乱の勃発である。
この乱を主導したのは、僅か15~16歳の美少年。天草四郎である。彼は、重税に苦しむ農民たちの為、そしてキリスト教信仰の為に、人々を従えて立ち上がったのである。人々はこのカリスマの下に団結し、原城に籠城すると、幕府側の降伏勧告を拒否して寛永15(1638)年に全滅するまで、激しく抵抗を続けた。一揆勢をこれほどまで堅く結束させた天草四郎とは、いったい何者だったのか。僅か16歳の少年に、何故それほどのカリスマ性が備わっていたのか。その謎に迫る糸口となるのが、四郎と一揆勢が神社仏閣に対して行った狼藉である。
一揆勢は、僧侶や神主を異教徒だという理由で殺害したり、建物に放火を行なったりしていたのである。これらの過激な行動は、弾圧の中でもひたむきに信仰を守ったという隠れキリシタンのイメージとは大きく異なる。そうした中で起こった島原・天草の乱には、別の意図があったと謂う。
島原・天草の乱は、農民一揆や信仰一揆ではなく、豊臣家再興の目論見があったという説を唱えたのが、作家の前川和彦氏である。
前川氏は著書「秀頼脱出ー豊臣秀頼は九州で生存した」の中で、書名も著者も分からない或る文献を入手し調べたところ、そこには「豊臣秀頼は大坂夏の陣で自決したのではなく、薩摩まで逃げ延び、ここで側室を娶って二人の男の子を儲けた。その次男(羽柴天四郎秀綱という)は、後に島原の乱の総大将となった」と記してあったという。
この文献から前川氏は、天草四郎とは秀頼の次男・秀綱のことで、実は、父の秀頼もこの乱に参加し、戦死したのではないかという考えに至ったという。そう考えれば、年若い四郎に多くの者が命を懸けて従ったことも納得できるし、農民やキリシタンは仮りの、所謂戦を知らない者たちの蜂起にも係わらず、あれだけ藩兵を手こずらせたのも納得が行く.....。
何故、たった一人の少年があれ程までに慕われたのか。
謎は深まるばかりである。

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