モンゴル帝国の創始者チンギス・ハンは謎の多い人物で人物である。
彼はモンゴルの遊牧民族の出身で、その名をテムジンという。成長すると周辺部族を次々と従え、モンゴル高原を統一。1206年にはクリルタイでチンギス・ハンの称号を与えられた。ハンとは「君主」の意味である。更にチンギス・ハンは周辺国の征服に乗り出し、西夏やウイグルを征服。13世紀に、アジアのほぼ全域からヨーロッパの東部にかけて広がる大帝国の基礎を築いた。
*本人による「厳しい遺言」ゆえに.....
そのチンギス・ハンは、1227年に六盤山で死亡したことは分かっている。
しかし、彼が何処で生まれ、何処に埋葬され、その墓地は何処にあるのかなど、今も分かっていないことが非常に多いのだ。特に墓の所在は、大きな謎となっている。
チンギス・ハンの墓の場所が判明しないのは、チンギス・ハン自らの埋葬場所を決して知られないようにと遺言したことが大きな理由のようだ。ただ、ヒントはある。モンゴル民族の歴史を中心に世界の諸民族の歴史を集めた、ラシード・ウッディーンによる「集史」いよると、生前、チンギス・ハンは、生まれ故郷に近い丘の上にある一本の大樹の陰にたたずみ、「ここを私の墓所とするように」と命じたとあち、その場所を「ブルカン・カルドゥン(聖なる山)」としている。
ただ、遺体が埋葬された地表には何も目印を残さなかったとあり、その場所にはやがて木々が茂り、誰も墓に辿り着くことが出来なくなったと謂う。
更に「元史」には、その場所を「起輦谷(ケルレンこく)」としている。元の二代オゴタイ・ハンも三代グユク・ハンも、その後の元の皇帝は、すべて死去した後、起輦谷に葬られたと記述されているのだ。例え皇帝がどれほど遠く離れた場所で死亡しても、必ず起輦谷に帰葬されたと謂う。うまり、起輦谷が何処かが分かれば、チンギス・ハンの墓も分かるというわけだ。
*墓の所在地を伝える、随員の記録
しかし、事は簡単ではない。チンギス・ハンの死後9年ほど経った頃に、南宋使節鄒伸之(すうしんし)の随員であった徐霆(じょてい)という人物がモンゴル帝国を訪れており、彼の記録に次のようにあるのだ。
「墓はへルレン河の近くにあるのを見た。テムジンはここで生まれたので、死後、ここに埋葬したと伝えられている。しかし、この伝承が本当かどうかは明らかではない」
これが、チンギス・ハンの墓の所在を示す、最も古く確かな文献なのだが、ここにも具体的な場所は記されていない。
こうした状況の中、多くの研究者がチンギス・ハンの墓の場所について諸説を発表してきた。1990年から始まったモンゴルでの調査の結果では、墓の所在地の有力地として、ウランバートルの北東300㌔程にある、へルレン川、オノン川、トラ川の源流が集まるへンティ山脈、中でもイフへンティ山塊を中心とする地域という説が発表された。この地は、モンゴル人たちが神聖化してきた地である。
更に、1957年には、ロシアの考古学者キセリョフ博士が、実地調査の結果、東バイカル地方のチタ州オノン地区ニージ二ィ・ツァスチェイ村のデリウン・ボルダグであると主張。また、中国政府は、1950年代に、現在の中国内蒙古自治区オルドス地方にチンギス・ハン陵を建設し、この地が有力だとしている。
*第三十四代子孫による、これまでの説を覆す「決定的証言」
そうした中、2009年9月に、新たな説が浮上した。チンギス・ハンの第三十四代子孫とされる大連在住のモンゴル族女性ウユンチチガさん(80歳)が「チンギス・ハンの墓は四川省カンゼ・チベット自治州にある」と証言したのだ。彼女によれば、墓の場所は代々口頭で伝えられ、4年に一度は身内だけで墓参りを続けていたという。墓は山の中の洞窟にあり、洞窟内の多くの穴の一つに、ミイラ化したチンギス・ハンの遺体が保存されていると謂う。この証言が事実ならば、チンギス・ハンは800年近くの時を経て、ミイラで発見される可能性がある。今後の調査に期待したい。
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