いつからあるのか、どういう経緯でここにあるのか、さっぱり記憶にない。
でもいつもそばに置いているので、お気に入りのものということなのだろう。
全長せいぜい3センチの小さなガラス。羽根・脚などのバランスで鳩だと思っている。
ふと、思った。ホントに鳩 ? いじわるな声は「ガラスだよ」と言う。
ガラスでできた鳥類の形に似せたもの、といえばいいのか。
この種のことでいつも不思議に思うことがある。ディズニーランドのミッキーマウス。
あれ、ミッキーマウスの着ぐるみを着た人でしょ、と思ってしまう。
だから、近寄ってくると、逃げたくなる。そのときの自分はいじわるさんだ。
ロシアの鶏の表現を見ているうちに、いろいろなことを考えてしまった。
形の認識にはもろもろの要素が関係していると気付かされてしまったのだろう。
「これは白鳩に決まってるでしょ」と言えない。
たとえ、作者が「白鳩です」と言っても、作者の言葉との共通認識すらあやしい。
なんてことをもやもや考えていると、あっという間に時間がすぎる。
そのことがすごいのかも。ガラスの小さな塊が、これほどの影響を与えている。
ちょうど今、TVから「存在の濃度が濃ければ濃いほどすばらしい作品だ」と聞こえてきた。
「存在はすべて美しい」「すべての存在がすべてのものと関わりをもっているから」とも。
青山先生のディドロ論だね。タイムリー !