沙宝。
雲宝。
孚聖、妙山より、命を奉じて来たる。
紛紜たる、世劫。
道は昌(さか)んに、なり難し。
黒闇の夜長く。
夢も亦、長し。
首を回(めぐ)らせば、白雲多く変幻す。
田は滄海に帰し新桑に変ず。
世上の劫は已むことなく、人心は陥溺して、これを救うにも救うことが出来ず、これを消すにも消す事ができない。
ここで劫を消したとしても、あそこで、劫が大きくなり、絶えず、劫を消していっても、劫は、益々大きくなっていくのは、どうしてであろうか。
どうして、科学が昌明(さかん)になれば、なる程、災劫が益々荒れ狂ってくるのであろうか。
たとえ、多くの災劫の発生を観て見ても、人事で想像が出来ない程、悲惨である。
戦禍や、水害火災、震災、空の難、海の難などが断(た)えず、発生しており、また、各種の癌性の腫瘍、新型コロナウィルス、エイズ、エボラウィルスの如き難病奇病などは、直接にせよ、間接にせよ、科学によってもたらされたもので、医薬といえども、これが為に効力を失い、人事では如何ともし難いし、神事でも、また、徒(いたずら)に期待に答えることは、出来ないと叫ぶだけである。
しかし、為すことの出来ない者は、これを捨ておいて、何もしないようである。
これは、吾が修人の当然あるべき、考え方では無いのである。
修人なる老祖の弟子は、皆、四大宏願(救済、上乗、真諦、功候)を抱いて来た者であり、為すべき事はもとより、心力を尽くしてこれを為すべきであり、為すことの出来ないようなものも、依然、その心智を尽くして、試みにこれを為すべきであって、全ての一切の如何せんともし難いと言うことで無ければ、決して中途で、辞めたり、することはしないのである。
道を打ち立て慈を宏めるところの精神もまた、当然こうあるべきである。
大道が世に行われるようになって、百五十年近くになる。
その間に受けた所の艱難困苦及び、種々の障害はどれだけあったか、わからない。
しかし、聖神仙仏の劫運を消弭しようとする、大決心は従来の、未だかつて少しも、その志が退いたことがない。
それどころか、劫が酷ければ、酷いほど、益々これらを消弭することに努めるので、道が一尺高くなってくれば、魔もこれによって一丈に成長するという節は、根拠の無い、とりとめの無い事であると見なすことが出来る。
ただ、吾が修人が、誠心誠意力を尽くして、多くの人の志を一つにして、一致団結し、全力をもって劫魔に挑戦し、多くの人と心を一つにすれば、至誠は、終わりには必ず、災劫をことごとく消して、道慈の光は昌(さか)んとなり、太平の世界を見る事が出来る。
しかし、これを言うことは難しくないが、これを行う事は難しいのである。
各方は、共にこの任を、重くして巨大な任務を担(にぎな)うのである。
それ、共に勉めよ。