時のある所、機がこれによって生じてくる。
機は、どうして生じてくるのであろうか。
吾が心の感応によるのである。
吾が心はどうして、能(よ)く感じるのであろうか。
それは、一誠が中に蔵され、運(めぐ)るからである。
中は炁霊感化の本である。
心が道慈に在りて、大公至正の心で、偏った欲望の私心(利己心)が無くして、はじめて、感応の顕現は、吾が心に悟るのであり、吾が心は一虚空の包(宇宙)であり、能くこの能力がある者は、功候の修進にある。
功のあるところ、候を養うところは、均しく平生の人に応待し、物に接し、世に処して、事を処理する上において、テストするのである。
たとえば、心が能く止水の如く、また明鏡の如く清らかで、事物が発生して来るや、ひとたび、照らして、そのしかる由縁の故を知り、そのしかる所以の理を明らかにし、その事が過ぎ去ってしまえば、跡を残すことなく、いぜん本然に復する。
本然とは自然であり、自然と天地とは、合一し、万物と合一する。
この種の修果は、皆、一誠によって修行して得たものである。
天地の運化については、人々が偉大にして、深遠なことは、測り知ることができない事は、皆知っている。
然(しか)も無心にして、為せば、為さざるは無いのである。
この一点より、坐功の上乗の修練方法を悟る事ができ、また世に処して、事を処理する上に於いて、人に対して、紛争を解く上での一切の妙訣を悟ることができる。
この誠の字の工夫は、知ったからといって、すぐ、実行するできるものでは、決してない。
必ず、一切の幻想、一切の妄想を取り除いて、はじめて能く工夫を用いて、真の効果を得ることができるのである。
各方は、みな吾が師の弟子(至生先天老祖の弟子、道院の修方を指す)にして、経訓は非常に多く、宝物も豊富である。
もし、能く心を潜(ひそ)めて、密(ひそ)かに修めて、自ら(真の自分自神)を得ることができれば、成就しない、道理は無いのである。
ただ、最も恐ることは、この山(青玄道)に登っていながら、他の山を見ては、もっと高いのではないかと思い、この山で埋蔵されている宝物を発掘して得る事が出来ないのに、他の山には宝物発掘する上での何か、近道があるのではないかと思い、もし、他の山に、真の近道があるか否か、埋蔵されている宝物が比較的豊富であるか、否か、我の願望を達成させてくれるか否か、を問うたとしても、確実にこれを知ることは、出来ないのである。
しからば、どうして、このように異なったものを見ては、心がその為に移り変わって、新奇なものを好むという、心理が働くのであろうか。
それは、経訓に、対して深く研究して、その玄奥を得ていないので、別にその秘奥を尋ねようとする、一念によって、動かされるからである。
ほかの山の宝物は、必ずしもあてに、なるとは限らず、吾が山の宝物は、すっかり、荒廃してしまっているのである。
古人が読書するのに、朱子を以って論ずれば、普段この一章(天の命ずるこれを性と謂い、性に率(したが)うこれを道と謂い、道を修めるこらを教えてと謂う。)において、その玄奥を深く明らかにすることは出来なかった。
いかに期間が長期にわたろうとも、必ず、この一章を悟解して後に、はじめて第二章を読むことが出来るのである。
現在は乱世の故を以て、人心の多数は、時流に流されて、動いているので、いかなる工夫を用いるにせよ、その上面(うわつら)を得ただけで、一知半解である。
それでも、自らその博学と能力を誇り、通りいっぺんの学問で、人の師となっている。
吾が院会(道院紅卍字会)の同修は、皆、一誠を発願して、四つの願を宏めている。
ある者は、少数ではあるが、ほしいままに、社会の俗流を観て、俗務を以て本とするところの者は、言語行動において、完全に真誠を失ない、かつまた、誠を実に愚かなことで、時代の流れに合わないと見做している。
したがって、お互いに騙し合い、一点たりとも、真実の現われが無いのである。
修人とは、いわゆる、人を修める者であり、範を立てて、世間の人の手本となるので、したがって狂瀾(荒れ狂った大波)が盛んに荒れ狂っているのを救い、滔滔たる時流の悪い、風習に流される事なく、不撓不屈の精神的ささえとなるのである。
十目の視る所、十手の指す所、みな、警しめ戒めて、深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如く、聖者賢者すらも、時々刻々に謹慎(つつし)んだのである。
我々修人は、道院において、求修して、一修人となった以上は、一言一行、一事一務についても、常に次のように考えるべきである。
それは、外部の人は、我々が如何なる責任を負って、いかなる道慈を修めているか知らないのである。
ただ、君の一言一語、一挙一動、一事一務の上において、君の為していることが、はたして自分の為にやっているのか、はたして、道慈に合致しているかというところより、君のその人物がはたして、修行の工夫を為しているか、はたして、道慈に合致しているかを評定するのである。
彼らは、院会の各人を修人の代表と見做し、当然、修行したものが身体的に現れて来ると思い、道慈を代表しているので、当然、為す事が道慈の宗旨に合致しているものと思っている。
もし、君たち自分自身の自らの心の、この一点に関心を持って、能く実践して、この一点が実行できれば、話すことは、みな教訓手本となって、みんなが自然にこれを称賛するようになり、自ら巷間に知れわたるようになり、たとえ、上乗の宣闡資料を用いなくても、能く人々の心中に深い印象を与える事になる。
これは自然の感応によって、その功徳が賞賛されるのである。
さもなければ、たとえ、最高の宣闡資料があって、人々がそれを一見して、立ち所に感動して来たとしても、それを述べた人と接触し、その人が宣闡資料に書かれているように、立派でなく、さらに観察してみると、言行不一致のところが多くあると、言うことがすべて手本となると云う、イメージに疑惑を生じることになる。
したがって、私(黙真人)は、しばしば次のように主張している。
それは、内部を完全に整理して、修人各方がみな、自分をよく修め、中(うち)に誠なる者は、外にあらわれるのである。
吾人があるいは、自己の言行の不当なところに気が付かなくても、岡目八目で他人はよくわかるので、君が彼に対して道を語り、修を研(きわ)めると言っても、彼ははっきり、わからないのであるが、然しながら、君が誠であるか否か、修めているか否か、何を修めているか、何を考えているかについては、外部の人は、一たび接触して、君の談話を聞き、君の行動を観察すれば、一目瞭然である。
これは、如何なる道理によるものであろうか。
何故、自分の間違いに対し、自分で気付かず、他人がかえって、能く一目瞭然で全てわかるのであろうか。
それは、我々に過失があるのは、全てみな、欲望の心があるからで、一たびこの心があれば、この心の為に、障(さえ)ぎり蔽(おお)われて気が付かないのである。
孔子の弟子である子路は、自己の過失を指摘されることを聞けば喜び、顔子は過失の二度を繰り返さなかった。
これらは、皆修行の功候に対し、積極的で、勇敢であった。
現在の普通一般の人は、夙根(前世から受け継いだ修養の徳)や夙慧(先天から来る叡智)が無く、また、読書して、理を明らかにすることが出来ず、ある者は、自分にはたして、過失が有るや否やも知らず、ただ自分と考えの合わない人には、勝手に粗探しをし、勝手に人に教訓して、自分は他の人より、一段上であるので、このようにしてもよいと、思っている。
これは、すべて、修行の錯覚である。
これを修め省みて、悔い悟り、全てこの平易にして、身近な小さなところにおいて、先ずこれをよく修め、一切の習性や俗性、悪い習慣をすべてみな、取り除いて正義正心を以て修行をし、気質を変化し、心を清くして、欲を寡(すくな)くするところの本とするのである。
これは、我々が行路を、一緒に歩む上での第一歩の足かせである。
もしも、われわれが、この一歩をおろそかにして、大股で速やかに前進しようと思っても、必ずひっくり返り損傷することは、間違い無いのである。
この時と言う字は、時には人心によって造られ、この機というのは、時には欲望の為に蔽(おお)われてしまうのである。
願わくば、各地の男女同修がわれわれ、院会社に、至聖が壇に降りて訓を垂れること数十年、我々は必ず、院会社を試験場と見做し、我々の候行がこの数年来、はたして、合格したのであろうか。
はたして、何点とれたのであろうか。
自分で検討して明らかにすることは、はたして心に恥じる事は無かったであろうか。
偏向に任せ、習慣となった俗性に偏することは無かったであろうか。
道慈の真に合しないことが無かったであろうか。
求修の四大宏顔に叛く事が無かったであろうか。
悪因非行があっても、悔悟懺悔することを知らなかった事は無かったであろうか。
一々吾が心において、自ら省み、自ら覚り、自ら改め、自ら修めるのである。
現在の時機(とき)は、最後の機会である。
皆んなが共に目醒め、自覚して、自らを渡(すく)い、人を渡(すく)うことを希望する。