南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

ダビンチとコロンブスに対する新たな疑惑?!

2008-07-31 00:09:08 | アジア
今日もまた、香港の会社の下の喫茶店で香港の英語の新聞を読んで
おりましたら、またまた興味をそそる記事が出ていました。それは
イギリスの歴史学者のギャビン・メンジース(Gavin Menzies)とい
う人が指摘した驚くべき歴史的な事実に関しての記事でした。その
記事によると、ダビンチが描き残した飛行機や様々な機械の絵の
いくつかのネタは中国の文献に出ていた絵だったというのです。と
いうことはダビンチさんのパクリ?記事によれば、もとの絵は単純
な図解のようでしたが、それを三次元的に表現したのはダビンチ
だったということなのです。

私は英語の小さな記事を読んだだけだし、もとの中国の『エンサ
イクロペディア』の絵を実際に見たわけでもありませんので、
しったかぶりで言うことはできません。しかし、記事によれば、
ダビンチが登場する少し前の15世紀は、中国の明の技術は相当に
進んでいて、とくに船の造船技術や航海技術に関しては、ヨーロッパ
を遥かにリードしていたのだそうです。当時のベニスには、中国
から届いた世界地図や、百科事典や、様々な先進的な文献があった
のだとか。それはシルクロードを通じて届いたのか、それとも当時
最強を誇った明(みん)の鄭和(ていわ)の軍団の船でもたらされ
たものなのかわかりませんが、ベニスにはそんなびっくりするもの
がいっぱいあったようなのです。

ダビンチはそこで中国のへんてこりんな機械の図面などを眺めて、
インスピレーションを刺激されていたのかもしれず、コロンブスなど
も大西洋の向こうに陸地があるということを中国の地図によって確信
したのかもしれません。

歴史学者のギャビン・メンジースは、その著書の中で、コロンブスが
アメリカを発見する1492年の遥か以前に中国の明の鄭和がアメリカ
を発見していたと証明しています。メンジースは、ある時、古地図を
眺めていて、アメリカ大陸の東のほうに小さな島が三つほど描かれて
いるのに興味を持ったのだそうです。その地図は、コロンブスがアメ
リカを発見する前の地図でした。メンジースは考えました、コロンブス
よりもはるか以前に、アメリカを発見していた人物がどこかにいると。
それが鄭和の船団だったとメンジースは論証しています。

メンジースがどこまで正しいのかはわかりませんが、そのサイト
は、明の鄭和の船団が、マゼランよりも前に、喜望峰をこえて大西洋を
渡り、アメリカの南北大陸に到達し、さらに、オーストラリアに到達し、
太平洋を横断してアメリカの西海岸に到達していたというのです。
何年か前の雑誌ナショナル・ジオグラフィックの鄭和特集では、こんな
感じの地図が出ていました。

これだと鄭和の船団がアフリカのケニアあたりまで行った程度になって
いますが、メンジースによればそんな程度ではなく、世界の海を制覇して
いたということなのですね。

これは西欧中心で語ってきた歴史の流れがぐらつく大問題ですし、西洋
人の価値観、プライドが傷つけられる問題なので、これを事実として
認めたくないのかもしれません。歴史教科書の中で、ヒーローのように
語られてきたコロンブスがその地位を失ってしまうかもしれない危機な
のです。それにルネサンスの時期に中国のほうが技術力が高かったなどと
いうのは西洋史観からするとあまり認めたくないのかもしれません。

逆に中国ナショナリズムからすると、これは大いに誇るべき事実なので、
中国系の新聞が取り上げたくなるのでしょう。でも、造船技術においては
明の時代(日本でいうと室町時代)は世界のトップクラスで、その船は
コロンブスがアメリカ大陸を発見したサンタマリア号などに比べても
かなり大きな船だったということなのです。

大きさをトンで言ってもよくわからないのですが、鄭和の船団の船は
500トンほど。ヴァスコ・ダ・ガマの船団で、旗艦が120トン、コロン
ブスの船団は250トン級だったということです。それだけ中国の技術
は進んでいたということなのですね。それがあまり知られていないの
は、鄭和の後、明が急に航海を禁じ、巨大船の造船を禁じ、造船技術
は一気に衰退していくのだとか。

その後、史料も歴史の混乱の中で散逸し、あまり知られていないのだ
そうです。今日は早速、コーズウェイベイの旭屋書店で、太佐順とい
う人の書いた『鄭和』(PHP文庫)を買ってきました。なんだかこの
人のことに興味がわいてきました。ではまた。