香港の会社の唯一の男性現地社員のマイケル君が、香港の
『TOUCH』という雑誌を持って来て、「ここに出ている
サッカー選手、日本ではすごく有名人だったと書いてある
けど、知ってるですか?」と訊いてきました。その雑誌を
見ると、岡野雅行と中村祐人という名前が。岡野雅行って、
あの浦和レッズにいた「野人岡野」?でも写真を見たら髪
の毛が短いし、野人岡野は長髪というイメージがあるから、
これは別人かなと思って、調べてみたら、やはりその
「野人岡野」でした。
この雑誌記事は、岡野雅行と中村裕人(なかむらゆうと)の
二人へのインタビューですが、香港の印象や、食べ物などの
事をいろいろ話しています。一番最後の左下の写真は、
ジャッキー・チェンやブルース・リーの格好を真似ているよう
な感じです。岡野は香港での食事は全く問題ない、何を食べて
も美味しいと答えているようです。
調べてみると、岡野雅行は2008年、J1での通算300試合を
達成したのですが、11月26日、浦和レッズから戦力外通告を
受けます。「戦力外通告」というのは何と残酷な言葉なので
しょう。しかし体力勝負のスポーツの世界においては、年齢と
ともに体力の衰えというのが来るのは必然。スポーツ選手は、
解説者になったり、芸能人になったり、コーチや監督でサッ
カーの世界に残ったり、あるいはサッカーとは全く関係の
ない道に進んだり...しかし、野人岡野雅行が取った選択
は、現役としてサッカーを続けるということでした。最後まで
現役プレーヤーとしてフィールドを走り続ける。体力の続く
限り。その選択は、いかにも野人岡野らしい生き方のように
思われて、潔いなと思います。やがて体力の限界が来るのだ
と思いますが、最後までサッカーの夢を負い続けていくよう
な、そんな生き方もある意味美しいですね。
36才の野人岡野は、今年の2月初旬に、香港リーグ一部の天水
圍飛馬(TSWペガサス)というチームと契約。このチームには
22才の中村裕人選手(中村修三強化本部長の長男)も今年の
1月から在籍していたようです。だいたい香港にプロサッカー
リーグがあるのを知らなかったのですが、あったのですね。
香港甲組足球聯賽というのが正式名称で、1908年に発足した
アジア最古のプロリーグということですから、Jリーグよりも
歴史があったのですね。10いくつかのチームが参加していて、
野人岡野が入団した天水圍飛馬(TSWペガサス)は香港元朗区
(ゆんろんく)の元朗スタジアムをホームとするチーム。
元朗区ってどこだろうと調べてみると、香港の北西部の中国
との国境沿いのあたりで、元朗(ゆんろん)とか天水囲
(てんすいい)などという駅があるあたり。このへんは同じ
香港と言っても行ったことがない地域です。
野人岡野は2月7日のデビュー戦でゴールを決め、鮮烈な
デビューを飾ったのだとか。そのあたりの様子は、岡野自身
のブログ『野人は死なない』に彼自身の言葉で書かれている
のでご覧ください。また、天水囲ペガサスのホームページは
こちらです。
http://www.tswpegasus.com/zh/
このサイトには、『野人』という岡野のブログが広東語
で掲載されています。内容は『野人は死なない』の翻訳の
ようですが。
私はそれほどサッカーファンということではないのですが、
実は、1997年の11月16日のジョホール・バルでのワールド
カップフランス大会のアジア第三代表決定戦で、日本代表と
イラン代表とが戦った伝説の試合を見に行ったことがありま
した。「ジョホールバルの歓喜」ということで日本のサッカー
史に残る重要な試合なのですが、当時、シンガポールに駐在
していた私は、会社の仲間数人と運良く切符を入手して試合
を見に行ったのでした。ここで決勝ゴールを決めたのが他
ならぬ野人岡野でした。
2対2のままゴールデンゴール方式の延長戦に入り、岡田
監督は北沢豪に代えて野人岡野を投入します。何度もゴール
のチャンスが到来しますが、岡野はなかなかそれを活かし
きれません。この下の写真は、私が自分で撮影したものです
が、野人岡野がゴールキーパーと一対一になった瞬間です。
このすごいチャンスをものにできなかったので、岡田監督は
頭を抱えて「岡野~!」と絶叫していました。
しかし最後の最後、延長後半13分、呂比須が中盤で奪取した
ボールを中田がドリブルで持ち上がってペナルティエリアの
直前からシュート、イランのゴールキーパーがはじいたその
ボールに野人岡野が走りこみ、スライディングしながら右足
でゴールに押し込んだ。その瞬間に日本代表のフランス大会
出場が決まったのでした。
その時の野人岡野の疾走は今でも目に焼き付いています。
長い髪を後ろで束ねて、それは見るからに獲物を追って疾走
する原始人のような、何も考えずにただ走ることが自分の
役割だと思っているかのような、そんな姿でした。ワールド
カップ出場を可能にしたのは、そんな彼の走りのおかげだっ
たのですね。
当時の日本代表には、三浦知良や、ゴン中山、城彰二、
呂比須ワグナー、北沢豪、名良橋、相馬、井原、秋田、
山口、名波、川口などがいて、面白いチームだったのです
が、知的な中田英寿に対して、アンチ・インテリジェンス
(?)の野人岡野が対極にいて、このジョホール・バルの
試合ではその両極端の二人が勝負を決めたのは、非常に
面白かったです。
その彼が今、香港のフィールドを走りまくっているのかと
思うと何か不思議ですが、これからどんどん湿度が高まっ
てくる香港ですが、日本のJリーグの実力を見せつけてやっ
てほしいものだと思います。香港での野人岡野の活躍を
祈っております。
『TOUCH』という雑誌を持って来て、「ここに出ている
サッカー選手、日本ではすごく有名人だったと書いてある
けど、知ってるですか?」と訊いてきました。その雑誌を
見ると、岡野雅行と中村祐人という名前が。岡野雅行って、
あの浦和レッズにいた「野人岡野」?でも写真を見たら髪
の毛が短いし、野人岡野は長髪というイメージがあるから、
これは別人かなと思って、調べてみたら、やはりその
「野人岡野」でした。
この雑誌記事は、岡野雅行と中村裕人(なかむらゆうと)の
二人へのインタビューですが、香港の印象や、食べ物などの
事をいろいろ話しています。一番最後の左下の写真は、
ジャッキー・チェンやブルース・リーの格好を真似ているよう
な感じです。岡野は香港での食事は全く問題ない、何を食べて
も美味しいと答えているようです。
調べてみると、岡野雅行は2008年、J1での通算300試合を
達成したのですが、11月26日、浦和レッズから戦力外通告を
受けます。「戦力外通告」というのは何と残酷な言葉なので
しょう。しかし体力勝負のスポーツの世界においては、年齢と
ともに体力の衰えというのが来るのは必然。スポーツ選手は、
解説者になったり、芸能人になったり、コーチや監督でサッ
カーの世界に残ったり、あるいはサッカーとは全く関係の
ない道に進んだり...しかし、野人岡野雅行が取った選択
は、現役としてサッカーを続けるということでした。最後まで
現役プレーヤーとしてフィールドを走り続ける。体力の続く
限り。その選択は、いかにも野人岡野らしい生き方のように
思われて、潔いなと思います。やがて体力の限界が来るのだ
と思いますが、最後までサッカーの夢を負い続けていくよう
な、そんな生き方もある意味美しいですね。
36才の野人岡野は、今年の2月初旬に、香港リーグ一部の天水
圍飛馬(TSWペガサス)というチームと契約。このチームには
22才の中村裕人選手(中村修三強化本部長の長男)も今年の
1月から在籍していたようです。だいたい香港にプロサッカー
リーグがあるのを知らなかったのですが、あったのですね。
香港甲組足球聯賽というのが正式名称で、1908年に発足した
アジア最古のプロリーグということですから、Jリーグよりも
歴史があったのですね。10いくつかのチームが参加していて、
野人岡野が入団した天水圍飛馬(TSWペガサス)は香港元朗区
(ゆんろんく)の元朗スタジアムをホームとするチーム。
元朗区ってどこだろうと調べてみると、香港の北西部の中国
との国境沿いのあたりで、元朗(ゆんろん)とか天水囲
(てんすいい)などという駅があるあたり。このへんは同じ
香港と言っても行ったことがない地域です。
野人岡野は2月7日のデビュー戦でゴールを決め、鮮烈な
デビューを飾ったのだとか。そのあたりの様子は、岡野自身
のブログ『野人は死なない』に彼自身の言葉で書かれている
のでご覧ください。また、天水囲ペガサスのホームページは
こちらです。
http://www.tswpegasus.com/zh/
このサイトには、『野人』という岡野のブログが広東語
で掲載されています。内容は『野人は死なない』の翻訳の
ようですが。
私はそれほどサッカーファンということではないのですが、
実は、1997年の11月16日のジョホール・バルでのワールド
カップフランス大会のアジア第三代表決定戦で、日本代表と
イラン代表とが戦った伝説の試合を見に行ったことがありま
した。「ジョホールバルの歓喜」ということで日本のサッカー
史に残る重要な試合なのですが、当時、シンガポールに駐在
していた私は、会社の仲間数人と運良く切符を入手して試合
を見に行ったのでした。ここで決勝ゴールを決めたのが他
ならぬ野人岡野でした。
2対2のままゴールデンゴール方式の延長戦に入り、岡田
監督は北沢豪に代えて野人岡野を投入します。何度もゴール
のチャンスが到来しますが、岡野はなかなかそれを活かし
きれません。この下の写真は、私が自分で撮影したものです
が、野人岡野がゴールキーパーと一対一になった瞬間です。
このすごいチャンスをものにできなかったので、岡田監督は
頭を抱えて「岡野~!」と絶叫していました。
しかし最後の最後、延長後半13分、呂比須が中盤で奪取した
ボールを中田がドリブルで持ち上がってペナルティエリアの
直前からシュート、イランのゴールキーパーがはじいたその
ボールに野人岡野が走りこみ、スライディングしながら右足
でゴールに押し込んだ。その瞬間に日本代表のフランス大会
出場が決まったのでした。
その時の野人岡野の疾走は今でも目に焼き付いています。
長い髪を後ろで束ねて、それは見るからに獲物を追って疾走
する原始人のような、何も考えずにただ走ることが自分の
役割だと思っているかのような、そんな姿でした。ワールド
カップ出場を可能にしたのは、そんな彼の走りのおかげだっ
たのですね。
当時の日本代表には、三浦知良や、ゴン中山、城彰二、
呂比須ワグナー、北沢豪、名良橋、相馬、井原、秋田、
山口、名波、川口などがいて、面白いチームだったのです
が、知的な中田英寿に対して、アンチ・インテリジェンス
(?)の野人岡野が対極にいて、このジョホール・バルの
試合ではその両極端の二人が勝負を決めたのは、非常に
面白かったです。
その彼が今、香港のフィールドを走りまくっているのかと
思うと何か不思議ですが、これからどんどん湿度が高まっ
てくる香港ですが、日本のJリーグの実力を見せつけてやっ
てほしいものだと思います。香港での野人岡野の活躍を
祈っております。