Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「人を偲ぶ」時節

2019年07月29日 17時13分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 本日も朝から暑い。本日梅雨明け宣言となった。

 暑さが極まると、この列島では人を偲ぶ日々となる。それはお盆という行事に繋がるのだが、「日本」という近代国家が胎動を始めてから一貫して「戦」に駆り立てられ、「近代国家建設」「富国」の名のもとに大きな犠牲を強いられ「命」を差し出させられてきたひとびとの鎮魂の思いでもあったと私は理解している。
 「戦」の死だけでなく、公共事業、鉱工業、後に公害の部類に入れられる「死」、政治的な無策による「餓死」、移民という名の「棄民」等々、国内でも植民地でも無惨な「死」が強いられてきた。
 その行き着いた果ての1945年8月、鎮魂の夏が現在の国家の出発点であった。

★ひろしまや樹齢等しく夏木立      川崎慶子
★人偲ぶとは語ること夏木立       大井雅人

 「ひろしま」は原爆で町が壊滅し、生き残った樹木もほとんどなくなった。戦後の樹木は8月6日以降に芽生えた樹木である。それは一斉に樹木の再生の力で芽吹いたものもあり、人びとが再生の思いを込めて植えたものもあるだろう。
 もしも私があの時代、あの場所に遭遇して生き残ったら同じようにしたのではないか。

 そして亡き人を偲ぶ、とは現在も亡くなった人が自分とどういう関係にあって、自分とどう関わったか、それを確かめることが「偲ぶ」ことであり、「生かす」=「魂を鎮める」こととも理解できる。
 「戦の世」に関わっての「死」は、家族という係累の歴史の中にくり返し思い出し、思い出として「生かし」ていくことが、「戦の世」を繰り返さない方途である。人びとはその行為の意味を深く身に沁みて知っている。
 「国家」の論理を社会の最上位に位置づける人々は、「命」を「国家」の下位に置こうとする。私はこれが間違っていると考える。「命」は「国家」よりも重いのである。「国民の生命」を守るための枠組みのひとつである「現代の国家」がいつの間にか、まるで「神」のように人を支配する。そんな政治にしてはいけない。「戦」を避け続ける政治が現代の世に問われている。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。