Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

横浜市庁舎 貴賓室の思い出

2020年05月03日 16時55分05秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 現在の横浜市庁舎は7代目である。

1代目(1889-1911)
 本町1丁目にあった横浜電信分局を利用。レンガ造り2階建て。
2代目(1911-1923)
 魚市場跡地(現在の敷地と同じ)にレンガ造り3階建て。関東大震災で焼失。
3代目(1923-1925)
 桜木町一丁目の中央職業紹介所を臨時市庁舎として使用。
4代目(1925-1944)
 現敷地に木造2階建て。
5代目(1944-1950)
 空襲を避けて野毛山の老松国民学校(現市立老松中学校)に疎開。鉄筋コンクリート造3階建て。6代目(1950-1959)
 日本貿易博覧会神奈川会場(現在の反町公園一帯)の建物へ移転。木造2階建て。
 現在の神奈川区庁舎の敷地。
7代目(1959-2020)
 開港100周年記念で建設(村野藤吾設計)。関内駅南口。
 鉄筋コンクリート造地上8階・地下1階。2代目・4代目と同じ場所。
8代目(2020- )
 北仲通南地区。地上32階(高さ約155m)・地下2階。
 みなとみらい線馬車道駅に直結。

 ここでは新市庁舎建設の経過と問題点には触れない。あくまでも思い出話である。

 現在私の属する組合の退職者会の会員にとっては、4代目や5代目の市庁舎を経験しているかたもおられるが、大半は6代目以降の記憶であろう。
 1940年に当時さまざまな身分で雇用されたかたは90歳代後半と思われる。

 私の記憶では、1963年秋の現庁舎1階の「貴賓室」が市庁舎の最初の記憶である。現在は「元文書集配室」(略称「もとぶん」)と呼ばれ、会議室などに使われている。当時「健康優良児」という制度(1978年制度廃止)があり、小学校6年生で12歳のわたしと他4人が市長表彰を受けた時の場所である。
 ロビーのピアノの置いてある場所で少しばかり待機した後、招き入れられたのが立派な部屋であった。小さい部屋であるが、窓に赤いビロードのカーテンがかかり、細長いテーブルと背もたれの高い豪華な椅子が並んでいた。
 すごい場所に連れて来られたものだとおどおどしていた。すぐに飛鳥田一雄市長が体をゆすり、杖をついてひょこひょこと入ってきた。1963年の統一地方選で市長になったばかりの48歳。のちに教えてもらったが、私の父親のひとつ上であった。
 帰りがけに、触ってはいけないといわれたロビーのピアノの蓋ににちょっとだけ手を触れてみた。ひんやりとしてなぜだか嬉しかった。
 なお、表彰を受けた5人の内、もう一人と私が市の職員になった。

 その後、横浜駅から山手駅まで市電や根岸線で通ったが、市庁舎を眺めることはなかった。伊勢佐木町の有隣堂には関内駅北口を利用していつも寄っていたけれど関内駅南口は降りたこともなかった。
 その後、横浜市庁舎の記憶は1974年までない。11年間のブランクである。
 1974年夏、就職先が決まらない私は、地方公務員になるしかない、と思い、たまたま横浜市だけ受験し、さいわいにもなんとか採用された。これで採用されなかったら、どうしていただろう。今でも不思議である。
 夏休みに帰省したとき、庁舎の広いロビーの貴賓室のそばにあった案内所の横にあったチラシ入れから勝手に願書を貰ってきた。そのときあらためて11年前に貴賓室に入ったことを思い出した。
 採用試験は金沢の市大のキャンパスであったが、合格発表は現在の関内駅北口よりの庁舎入り口の掲示板。そのときは掲示板だけ見て帰宅した。

 1975年4月1日の辞令交付式は線路を挟んだ向かい側にあった「教文センター」のホール。ここも現在取り壊されてしまった。やはり杖をついた飛鳥田一雄市長が登壇して、訓示をし、代表者に辞令を渡していた。小学6年生で直に飛鳥田一雄市長から表彰状を受け取った記憶がよみがえり、「随分長く市長だったんだな」とあらためて感心した。
 一か月間の研修ののち、配属されたのが道路局の出先だった。出先事務所でも「本庁事務連絡」ということで現市庁舎には一週間に二度以上関内の道路局と下水道局に出向いた。しかしタコ足庁舎で、ともに現市庁舎の横のビルであった。現在も道路局は市庁舎には入っていない。今度ようやく新市庁舎の中に入ることになった。

 現庁舎は組合が開催する決起集会や座り込みなどでしょっちゅう利用したし、組合の分室も地下にあった。徹夜交渉の待機場所も地下の組合分室であった。同時に各種交渉事にはあの旧貴賓室をよく利用した。呼び方は「もとぶん」という呼び方に変わっていたが、大きなテーブル・背もたれの大きな椅子の設えは変らないままであった。ただしとても古びており、お世辞にも豪華という感じはしなくなっていた。

 私の現市庁舎の記憶はロビーのピアノとこの旧貴賓室と、そして杖を突いてひょこひょこ歩く故飛鳥田一雄氏の姿と、労働組合のさまざまな想い出とともにある。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。