ツィッターで茨木のり子の「六月」という詩が一部掲載されていた。久しぶりで詩集を紐解いた。
六月 茨木のり子
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこか美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって 立ちあらわれる
茨木のり子の詩はいくつか取り上げている。好きな詩人でもある。実はこの詩、以前にもこのブログでアップしようとしたことがある。しかしちょっと引っ掛かることがあってやめていた。
詩全体は気持ちのいい内容で、搾取や年貢、税などのの負担の重さや村落社会を覆う習慣のいやらしさを除いて、古来の労働の実態へのあこがれをうたい、言い方は悪いかもしれないが他愛もないものともいえる。そこに懐かしさや郷愁を呼ぶ「わかりやすさ」に共感を得ていることもわかる。
しかしはじめて読んだとき、私は始めから三行目「鍬を立てかけ 籠を置き」が気になったのだ。まさか鍬や籠などの大切な農具を畑に放置したわけではなく、納屋や道具置場にしまった、という意味ではあると思うが、この一行、どこか投げやりである。「道具を洗って大事にしまう、籠なども埃をはらいほつれを直してしまう」という行為について無頓着である。
「収穫物をキチンと整理をし、道具を大事にしまい、自然に感謝し、「神」に祈る」という行為が抜け落ちている。残念ながら、都会の人の、しかも実際の労働とは離れた方の「憧れとしての労働」「神格化され美化された労働」でしかない、と思ったのだ。
農業に従事する人も、さまざまな職人も、商家も、人びとは労働の対象だけでなく道具を、手立てを大切にしなければ、労働は成り立たない。この詩はそこに目が向いていない、と思った。
という理由で私は取り上げなかった。茨木のり子という優れた詩人で私も好きであるが、どこかで肝心な見落としがあるように感じたのだ。
この詩が書かれた戦後すぐの時代、やや性急に未来を謳いすぎたあまりに、ご指摘のような農業の本髄を置き忘れてしまたのかも知れません。
でも、そのような未来を描くのが困難な今、この詩を読んでみると、私には、「どこかに美しい〇〇はないか」という言葉が、魂の叫びのようにひびいてきます。
ちょっと穿ち過ぎの評を記載てしまったかもしれないですね。
職場で、職人気質の方々と接することが多かったので、道具を大事にする意識を教えられました。
労働組合としても安全衛生の観点から、口を酸っぱく若い人に伝えてきたつもりです。
そんな思いが先行した感想です。
ご指摘のように今の時代、「美しい〇〇はないか」と心底つぶやきたいですね。
人と人との関係もきつい言葉で断ち切られたり、人を傷つけるのが当たり前のような社会になってしまったと感じています。
言葉足らずの私の文章を解釈していただきありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。