gooブログでは、みなさまに大変お世話になりました。
ブログ閉鎖に伴い、はてなブログに引っ越しました。
新しいブログでも、これまで同様のスタイルでやっていきたいと思います。
ありがとうございました。 遅生
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戯れ唄5『派閥ハイそれまーでョ』
戯れ唄6『サイテー元引こぉ・ハイそれまーでョ』
詞:添田遅生坊
ゆうちゅうぶをONして、どうぞ。
かつて、こんな郵便物があったのですね。
10.7㎝x16.5㎝。昭和7年。
絵葉書と手紙を組み合わせたような品で、「書簡図絵」といわれるものです。
消印は、昭和7年9月16日、大垣市の○○さんが、養老郡の△△さん宛に出した郵便です。
広げると、64㎝程の長さになります。
大垣市地図、大垣を中心とした絵図、大垣の観光地が載っています。
裏面は、通信欄に続いて、大垣市案内などがビッシリと書かれています。
通信欄が葉書や手紙の役目をしているのですね。
大垣市近郊図:東西を横切る東海道線に対して、南北に伊勢電鉄(先回のブログ)が走っています。
杭瀬川:以前紹介した「関ケ原合戦絵巻」で唯一西軍が勝利した、杭瀬川の戦いがあった所です。昭和初めには、蛍の名所だったのですね。今も源氏ボタルが生息していて、大垣市の天然記念物に指定されています。
大垣城:関ケ原合戦では西軍、石田三成の本拠地となった城です。その後戸田氏の居城となり、明治以降もよく保存され、国宝となりましたが、昭和20年、空襲で焼失しました。この写真は、焼失前の大垣城です(現在の天守は鉄筋)。
大垣市案内:大垣市概要、名勝、附近都邑。
大垣音頭、大垣小唄。奥付に「昭和7年8月15日」とあります。大垣市役所が発行元です。この書簡絵図は、売り出されてすぐに投函されたのですね。
書簡絵図のハイライトはやはりパノラマ絵図です。
めちゃくちゃに圧縮されているので、遠くは東京から名古屋を経由して、西へ向かいます(赤線は東海道線です)。
左(西方)にバーンと大きく大垣の市街図。中央には、焼失前の大垣城が見えます。
注目されるのは左端の西濃地方。
上方に伊吹山系、下方に養老山系が南北に横たわっています。その間のわずかな隙間が東西交通の要衝、関ケ原です。向う側は滋賀県、琵琶湖が横たわっています。
垂井から関ケ原にかけての一帯が、天下分け目の戦場になった場所です。三成としては、東軍が西へ向かうのを、ここで、何としても喰い止めたかったのでしょう。
そこから養老山脈に沿って南へは、太平洋側へ抜ける古道、伊勢街道が伸びています。赤線は、伊勢電鉄です。
その途中に、先日来紹介してきた養老の滝があります。
南西端に、養老公園が描かれています。
ピンクでボヤっと描かれているのは桜ですね。その上方、滝のまわりが紅に染まっていますが、これは紅葉でしょう。春と秋が同居していますが、養老公園、特に滝のまわりは紅葉の名所でもあるので、大目にみてあげたいと思います(^.^)
江戸後期の文人、貫名海屋の『養老の滝図』です。
全体:69.8㎝x201.6㎝、本紙(紙本):53.2㎝x135.1㎝。江戸後期(天保12年)。
『辛丑春」とあるので、天保十二(1841)年、貫名海屋63歳の作であることがわかります。
讃は、まだ読めてません(^^;
「於岐阜寓所」とあるように、貫名海屋は、しばしば岐阜(美濃)を訪れ、養老の滝を描いています。
今回の品は、その一つでしょう。
ブログでは、以前、美濃の文人、村瀬秋水の「養老瀑布図」を紹介しました。
村瀬秋水(1794-1876) 貫名海屋(1778-1863)
今回の貫名海屋の作品とは、構図が大分異なります。
養老の滝は、古くから多くの絵師によって描かれてきました。その多くは、貫名海屋のような養老の滝を中心とした情景です。一方、村瀬秋水の養老溪谷図は、伝統的な山水画の構図です。先の明治の養老公園絵図で見られたように、新しい時代に入って出された観光地図では、地域を俯瞰する山水画の様式が取り入れられました。
ほぼ同時代を生きた文人、秋水と海屋です。二人の間に交流があったかどうかはわかりません。しかし、美濃の詩社、白鷗社を主宰していた大垣の江馬細香を通じて、二人が会った可能性は否定できません。お互いの「養老の滝」をどのように評していたのか、興味あるところですね。
養老を紹介した小冊子です。
13.3cm x19.1㎝。72p。岐阜県。昭和8年。
小冊子ですが、しっかりとした作りです。
岐阜縣が発行元なのですね。
養老の滝:
養老公園全景:
当時流行りのパノラマ地図も付いています。
養老公園の描き方は、これまで紹介してきた浮世絵などとは違って、随分平坦です。実際、養老の滝まではそれほど急峻な道ではないので、この図の方が実感に近いです(^^;
写真や絵図はこの手の品にはつきものですが、今回の小冊子は、本文で、かなり真面目に「養老」を紹介しています。
なんと、養老の滝を登っていく(登坂?)と、スキー場があったのですね。
雪が降ってもすぐ溶けてしまう低い養老山脈ですから、スキー場があった話は聞いたことがありません。昭和初期には、今よりずっと多くの雪が降っていたのでしょうか。
最後の頁に、養老方面への交通(伊勢電鐵)が載っています。
伊勢電鉄は、大正から昭和にかけて、三重県を中心に伊勢神宮への鉄道として作られました。養老へは、東海道線経由、大垣で伊勢鉄道に乗り換えて養老へ行くのが普通ですが、伊勢電鉄のルートに従えば、名古屋方面からは、伊勢神宮だけでなく、桑名を経て養老へも行くことができます。当時はかなりの利用客があったものと思われます。
伊勢鉄道は、その後、近鉄となり、さらに現在は養老鉄道として運営されています。典型的なローカル線ですが独特の風情があります。桑名から養老まで50㎞ほどを、濃尾平野の西端、養老山麓を、コトンコトンと揺られながら、伊勢街道(美濃街道)を往来した古人に思いをはせるのも一興かと思います。なんせ、あのヤマトタケルが伊吹山の荒ぶる神に敗れて、この街道を南下したという伝説があるくらいですから(^.^)