「定家明月記私抄」(堀田善衛、ちくま学芸文庫)を読了。書名はこの通りなのだが、続編には「定家明月記私抄 続編」とあるので、「正編」「続編」という区別をしてみた。
その4で引用した以降、「定家は左右なき物なり」(建仁三年記(1))から「末代ノ滅亡、慟哭シテ余リ有リ」(承元二年記(2))、および最後の節の「明月記欠」まで。
定家の年齢にして、42歳から48歳までである。最後の「明月記欠」は2年半にも及び、47歳から50歳に相当する。
俊成の死、九条家の衰運、官僚・貴族としての昇進の停滞等々があり、後鳥羽上皇の放埓な振舞いに振り回されながら、新古今集編纂に携わった時期である。この新古今集の編纂事業は後鳥羽上皇からの歌の差し替え(切り継ぎ)要求によって定家は大変な苦労をさせられている。
「この兼実良経の主家の親子に対する感情も、可成り入り組んだものであった‥。保守的で天台教学の範囲内につねに止まっていた定家としては、それを振り切って法然の専修念仏の新信仰にとりついた兼実については、一抹のうとましさを感じても不思議はない。慈円も、何か大事が起るとすぐに雲水の旅に出るなど‥九条家の大黒柱としてはやはり頼りない‥。さもあらばあれ、定家よりも七歳年少の良経は摂政であり、主家の主であり、和歌所寄人の筆頭であった。新古今巻頭は良経であり、その歌は、常に漢詩の風韻をもつ平明なものであった。新古今集の仮名序も良経筆になるものであり、定家はこれを「此ノ御文章、真実不可思議、比類ナキ者ナリ」と評価もしている。三十七歳の教養人にこれだけのものが書けるということは、二十世紀現在の教養水準から考えても、「真実不可思議」というものであろう。‥“昨日までかげと頼みしさくら花ひとよの夢の春の山風”技巧もなにもない、率直な追悼歌である。‥煙(良経の死)とともに定家と九条家の縁もまたうすらいで行くのである。定家としてなさなければならないことは、歌学の家としての家の確率である。そのためには自らは早く公卿に列し、また為家を教育してその昇進をもはからねばならない。」(「良経暴死」)
「人は人に対して人格の一貫性を求める。しかし同じく、人は人として一貫性を貫き難い場合がいくらでもあり得る。私は別に定家を、だからといって避難しようなどとは到底思わない。日記によって、時代のなかにある定家という人のあるがままを、診ていきたいと思っているだけである。」(「近日、時儀更ニ測リ難シ」)
「私は‥時には自分が平安末期から鎌倉時代へかけての、週刊誌の編集者になったか、とすら思ったことがあった。時世時代の移り行き、それは時には激流と化して巨大な渦巻きをなし、飛沫をとび散らかして、その当時に、渦中にあった人々にとっていずれの方向へとも見極めがたい進行の仕方をする。そうしてこの場合の飛沫は、飛沫とはいえ、すべて人間の生命である。ただの幼児であるにすぎふ安徳天皇は、海に溺死せしめられる。時には流れそのものが流血である。天皇の宮廷であっても、定家らの公家においても、また荘園の農民や流浪民、武士においてもそれは同じことである。(日記などの資料や時代の資料を)眺めていると、この時代の異様な風貌が茫と浮び上がって来ると見える。京都は袋小路のデカダンスであり、鎌倉はシェークスピア劇の如き骨肉の争いである。」(「明月記欠」)
後鳥羽上皇という、傍若無人で、淫らで、移り気で、浪費癖が顕著な、後先など考えていないような稀有な帝王のもとで、崩壊しつつある宮廷の世界とそれを支えてきた支配秩序、そして新しい武家社会が骨肉の争いに明け暮れる時代のなかで、繊細なことばの文芸に大きな地歩を作りあげたといわれる定家の、堀田善衛流の像が次第に見えてきている。
同時に、同時代性としてこの12世紀末から13世紀初頭のこの列島の精緻な文芸世界が、ヨーロッパの中世の文芸と並べてみた場合、ひょっとしたらあちらでは建築と絵画に相当するのではないか、という感想も持った。木造の建築が朽ちてしまう中で、「ことば」が稀有な位置を占めたのではないか、という感想は引き続き持続して頭の片隅に残しておきたい。