Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

何の脈絡もなく「新古今」と「西行」

2018年01月04日 11時51分22秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 ゴッホ展のカタログを見ながら、8枚ほどの作品を選択。本日中に画像として取組み、解説を読んでみようと思っている。

 正月も4日、ふと思い出して本棚から「新古今集和歌集」をひっぱり出してきた。高校生のころ、新古今集にはまって受験用の参考書として「新古今和歌集」の逐語訳のついたものを購入して通学の電車の中で読んでいた。
 逐語訳自体が幾度読んでもなかなか理解できなくて、「春歌上」だけはなんとか全部読んだけれど、他は拾い読みであった。今持っているのは「新潮日本古典集成」の上下2巻。
 当時いたく気に入ったのが「春歌上7」の

岩間とぢし 氷もけさは とけそめて 苔のしたみづ 道もとむなり  西行法師

この歌は、最後の「道もとむなり」が気に入っていた。

 春の歌というと教科書や学校の授業で取り上げる歌は「雪」「霞」などのイメージとそこに春の訪れを見つける、というものばかり。それもかなり強引なこじつけに近いもので、関東の都会に住む人間の季節感からは遠い世界であった。京都を囲む山々の世界を具体的に想定できないのである。

 しかしこの西行法師の歌は、そんな季節感とは別に納得できる光景として、そして自分でも体験したような感覚で詠むことができた。それから西行に関心を持つようになった。西行の歌には、叙景歌として観察眼の鋭さに驚くものと、たとえば「冬歌691」では

おのづから いはぬを慕ふ 人やあると やすらふほどに 年の暮れぬる

〈私からは何も言わなくとも私のことを理解してくれていると思い、便りをしないうちに年も暮れてしまいました。(どうして訪ねてくれたり、便りをしてくれなかったのですか)〉

と心情を、それもかなり出家遁世とは遠い心情を臆面もなく歌っている。人懐っこい、それどころか人に頼り勝ちな人間臭さが立ち上ってくる歌が、先の鋭い叙景歌と綯い交ぜになっている。それが魅力である、と思う。