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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

光琳「風神雷神図屏風」と抱一「夏秋草図屏風」

2015年05月27日 21時46分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 酒井抱一は、尾形光琳を強く意識しており、というよりは尊敬の念がはなはだ強かったといわれる。尾形光琳の風神雷神図屏風の裏に「夏秋草図屏風」を描いた。風神の絵の裏に風になびく秋草、雷神図の裏にうなだれる秋草と紅白梅図を連想するような川をそれぞれ描いた。私はこの対比がとても気に入っている。抱一という画家光琳を尊敬するだけでなく、かなり大胆に光琳を越えた表現を模索していたように思う。
 先日「俵屋宗達」(古田亮、平凡社新書)を読んだとき、次のような表現があった。
「抱一の自己表現は実に用意周到である。表の金地に対して裏の銀地。‥。風神の裏には野分にゆれる芒、蔦紅葉、葛といった秋草。もちろん、風神の風袋から噴出する強烈な暴風に耐えられる姿である。一方雷神の裏には雨に打たれた若い芒、その陰に百合、まっすぐに伸びる女郎花など夏の草花が描かれている。風神雷神に天候や季節感を見る抱一の感性と想像力は、光琳が大成した装飾美に対して自然感情を吹き込まずにはいられなかったのである。」
 「抱一の「風神雷神図屏風」は、抱一の芸術との接点が希薄な作品であるがために、かえって抱一の評価を下げてしまいかねない危うさを含んでいる。」

 前段は私が抱いた感想とほぼ同じなので、同じように感じているプロがいるというのは素人の私にはとても嬉しい。私の言葉を添えるならば、天上の神の領域、天上の不可思議な自然現象に対して、抱一はそれらの影響を受ける地上の現象に眼を凝らしたのであろう。天界のことよりも地上の現象にこそ美の視点を持って行きたいという強い意志も感じられる。様式美・装飾美・目に見えない畏怖の世界の先に、自然の写生の美を対置したのかもしれない。同時に雷と風=野分というわずかな季節感の違い着目して、晩夏から初秋という時間差、季節の差を描こうとしたように思う。美の世界が、具体的な生活者の視点に降り立ったような感じがする。それが多分、光琳という江戸時代前期から、抱一が生きた江戸後期という時代の社会の変化が反映しているのかもしれない。




 ただ、引用した後段にはちょっと違う感想を持った。宗達・光琳・抱一の三つの風神雷神図屏風を上から順番に並べてみた。私なりに感じたのは、まず第一に宗達に比べて光琳の絵では雲があまりに濃い。濃すぎるのである。黒が強いことで宗達の絵よりもおどろおどろしさを強調しているようではあるが、風神も雷神も目立たなくなってしまっている。それゆえに動きが伝わってこない。二番目には宗達の雷神に比べて光琳の雷神は下に少し降りてきたので風神と雷神が同一の高さになってしまった。このために雷神の下に降りていこうとする動きと、風神の左に横切ろうとする動きが、屏風の真ん中で交差する緊張感が希薄になってしまった。宗達の絵に比べて光琳の絵は、雷神・風神がそれぞれ今いる場所で地団駄を踏んでいるようにすら見えることがある。それは雷神の眼が下方を見ていないで風神を見ているから余計そのように見える。
 抱一はこのふたつのマイナスを復元しようとしたのではないだろうか。まず雲がうすくなり宗達のように軽やかな画面に戻った。雷神・風神とも画面の前面に出てきた。また雷神を少しだけ上にあげた。宗達のように太鼓は画面からはみ出るほどではないが、太鼓が上辺ぎりぎりに戻った。風神の右足は光琳では指が上を向いて足を上げる動作だが、抱一では甲が着地の形になり、前方へのベクトルがより強調されている。ただし雷神の眼は光琳と同じく風神を見つめたままである。だから雷神の下方への動きはそれほど復元はしていない。とはいっても宗達の絵のように雷神が風神を無視するように下を向いているのもおかしいものがある。

 このように見ると抱一は、光琳が宗達の絵を装飾的に変えたものを、躍動感を戻そうとしたように見える。
 抱一は光琳を尊敬していたが、江戸時代後期という時代の精神の中で光琳を越えようとしてもがいていたと私は感じている。光琳を尊敬しあこがれていただけの模写ではなかったと思える。私はそのもがいた形跡が好きである。一見静かな眼を思わせるがその実、夏秋草図からは激しいエネルギーを感ずることがある。それは光琳の風神雷神図屏風の裏に描いたという行為からうかがえるのではないか。

東京国立博物館(鳥獣戯画・よみがえる江戸城‥)

2015年05月27日 20時33分46秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日は14時40分からの講座なので、午前中は昨日行けなかった東京国立博物館に行ってきた。特別展「鳥獣戯画」を人が並んでいなかったら見ようかと思っていたが、待ち時間2時間超ということで早速諦めた。そのかわりミュージアムショップで図録を思い切って購入した。また尾形光琳の風神雷神図屏風と抱一の夏秋草図屏風のポストカードも購入した。
 時間があるので、通常展示を見ようかと思ったが、「よみがえる江戸城-江戸東京上野編-」という上映をしているというので、500円を払って見てきた。
 鳥獣戯画については図録を見てから記載したいことが浮かび上がってきたらアップしてみたい。

   

 「よみがえる江戸城-江戸東京上野編-」は本館15室の展示とあわせて見るのがお薦めなのだろうが、時間の関係でシアターのみの鑑賞にした。精細な復元のようであるが、私にはこのバーチャルな映像はもう一工夫が欲しいと思った。
 ひとつは大広間の上段の間を映しているが、床の間・違い棚などの奥行き感がほとんどない画面が続いていた。この床の間の奥行き感のない画像はとても見づらいし、上段の間を狭く感じさせる。その上浮遊感が増してしまう。この処理はもう少しきちんとしてもらわないといけない。
 もうひとつは、大広間から松の廊下を通って大奥、天守閣跡地までの室内を歩行する映像が欲しいと思った。広大な建物の集合とその長大な建物の伝って歩くことで広さを体感できるのではないか、と思った。
 この2点は是非改善・実現してもらえるとおもしろいのではないだろうか。

 光琳の風神雷神図屏風と抱一の夏秋草図屏風のことについては、別途アップ予定。

「勝った中国・負けた日本」(講師:田畑光永)

2015年05月27日 09時57分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日から始まった講座は「勝った中国・負けた日本」、講師は田畑光永氏。なかなか刺激的な表題だが、講師の最新の著作の題から取ったようだ。
 軍事的な圧力を高め、戦後の歩みを大きく変えて「反覇権」の主張の真逆を行く中国のあり方。どう読みとくのか。
 その前提として、1945年8月の敗戦以降日中はの断絶の時代を迎えるが、日本では中国をどう見てきたのか、逆に中国では日本をどう見てきたのか、当時の報道から読み解くというのは、私には興味のある試みである。
 著者の著作も購入したいと思うが、ちょいと高価のようだ。