横浜美術館の「2015年第1期コレクション展」を見てきた。前回ざっと速足で見て回った時とは違い、今回は少し時間をかけて見たこともあり、4つの作品に眼が停まった。まずは、今回の展示の概要は、次のように記されている。
★身体からかんがえる コレクションにみる身体表現―現代美術を中心に
横浜美術館コレクション展2015年度第1期では、美術における身体に焦点を当て、現代美術作品を中心にご紹介します。
時代や文化背景の違いによって人々の身体のとらえかたは異なります。かつての移動手段である徒歩や動物にかわり、近代以降技術の格段の進歩により交通機関が発達し、人は長距離を高速で移動できるようになりました。また通信網の発達により今では実際に足を運ばずとも居ながらにして遠く離れた場所の情報を得ることもできます。本来私たちが知りえないはずの膨大な量の多様な情報がインターネット上にあふれ、またコンピューター技術が生み出すバーチャルな世界がひろがりをみせる中で、身体に対する私たちの意識や感覚も変わりはじめています。肉体としての身体の実感が得にくくなりつつあるいま、同時代を生きるアーティストにとって、実在する自らの身体は、それを取り巻く空間とそこから展開する世界を読みとき、他者に伝えるための手がかりとなるといえるでしょう。
本展では、6つの章により美術作品における身体表現を考えます。
絵画の登場人物に自らが扮する作品で知られる森村泰昌が、メキシコの女性画家フリーダ・カーロを題材とした「私の中のフリーダ」シリーズをはじめとして、平野薫が2008年に横浜美術館で滞在制作した、衣服をほどき再構成する作品《Untitled - mother and baby-》ほか、奈良美智、小谷元彦、岩崎貴宏、川島秀明、金氏徹平ら日本の現代美術のアーティストによる作品を展示します。またパブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、フランシス・ベーコンら20世紀の巨匠たちによる身体表現をあらためてとらえ直します。さらに、伝統的な日本画の技法や空間表現をとりいれつつ、現代を描く三瀬夏之介、中村ケンゴ、藤井健司らの作品を通して、作品に描かれる空間と鑑賞者の身体との関係について考えます。
1.変幻する身体
人間の身体はいつの時代もアーティストをひきつける題材として繰り返しとりあげられてきました。
2.顔と向き合うーポートレート
誰もが一度は自分や家族の顔を描いた記憶があるように、ポートレートは私たちにとって近しいものであり、古来より絵画や彫刻の主題となってきました。一方、伝統的な肖像画の役割が写真にとって代わられた19世紀末以降は、ポートレートは作家自身の内面や個性の表現として、あるいは社会へのメッセージを込めたものとして描かれるようになります。
3.とらえられた身体
身体という言葉から想起されることは様々です。このセクションでは異なる視点、異なるアプローチによって身体の持つ豊かな、そしてだからこそ謎めいたテーマに挑む作品を紹介します。
4.入れかわる身体
このセクションでは入れかわる身体と題し、名画の登場人物に自らが扮した作品で知られる森村泰昌が、メキシコの女性画家を題材にした「私の中のフリーダ」シリーズをはじめ、平野薫による横浜美術館での滞在制作によるオブジェ、同じく横浜に滞在制作の経験のある遅鵬のCGによる巨大な平面作品などをご紹介します。
5.そこにある身体
日頃、自分の身体の存在を意識する機会は多くはありません。
一方で私たちの身体は今ここにあり、それに目を向けることは、世界に相対する手がかりとなり得ます。ここでは、作品と鑑賞者の身体との関係を想起させるような作品を中心にご覧いただきます。
なお、今回は時間の関係もあり、「6.身体への眼差しー20世紀写真における身体表現」は断念し、次回にもう一度見ることにした。
「1.変幻する身体」のコーナーでは、キューバで生まれたヴィフレド・ラムの「アダムとイブ」(1969)。2002年に横浜美術館で「ヴィフレド・ラム展-変化するイメージ」が開催されている。中国・アフリカ・スペイン人の血をひき、スペインで絵画を学んだ画家である。
この作品は、安定した構図で色彩も地味である。描かれているのはカマキリがバッタのような身体をした2人の横になって互い違いの人間であろう。ただし手足は人間の形をしている。
その背後には長いひし形の4つの仮面か盾のようなものが二つずつ組になって並んでいる。二人の人物の手と足は絡み合っており、その他にも紐のようなものが手足に纏わりついている。奴隷のように手足の自由を奪われている人間にも見える。男女の区別や二人の関係もわからない。
さらにこの二人の背後に影のようにひとまわり小さく暗い色彩で二人の人物らしいものが、描かれている。影なのか別の人物なのか、霊魂のようなものなのか、この二人を操るものなのか、判然としない。
何かを訴えるような思いを感じるがそれが何であるか、どのように見たらよいのか未だに悩んでいる。だが、考えさせる力を感じる。2002年の展示の図録などを手に入れて、他の作品も見てみたい。そんな吸引力のある作品だと感じた。
「2.顔と向き合うーポートレート」のコーナーでは、宮崎進の「不安な顔」(2000年)がとても印象に残った。すでに宮崎進という作家については昨年2014年6月20日と22日、28日と7月1日に取り上げている。この「不安な顔」も神奈川県立美術館葉山で開催された「立ちのぼる生命-宮崎進」展で展示されていた。その記事ではこの作品は取り上げていないが、感銘を受けた作品であることは間違いない。
その時、他のポートレートの作品に触れる中で私は「絶望や虚無の人の顔を画面いっぱいに描いた絵やトルソを制作している」「顔に対する執念のようなこだわりもこの画家のひとつの特徴といえるのではないだろうか」と記した。シベリア抑留という極限の体験をとおして、画家の脳裏に浮かび上がってくる人の顔、それは死や絶望などといったイメージを色濃く漂わせている。宮崎進という表現者を知った時の衝撃を再び思い出した。