今回の展示で見る限り、1962年頃を画期として田淵安一の作品は突如として緑・黄・明るい青そして赤などの原色がほとばしり出るように「官能的」となる。
「白壁の下で」(1962)の作品の前にベンチがあり、図録と作者の著作が置いてあった。著作の題名を失念してしまったのが残念だが、作者は15歳の時、父親の愛人だった30歳位の女性と同棲する。その時の模様を記しているが、確か女性を白いものが覆いかぶさるというような表現をしていた。同窓生であった作家の隆慶一郎が家を訪れた時、田淵少年が母親と同衾していたと思いびっくりしたというエピソードが紹介されていた。
この「白壁」は女性の象徴であり、右の赤と黄の図は明らかに交接の図である。このような官能の絵が1970年代半ばまで続く。
1961年個展のため帰国したのちパリへの帰途東南アジア・インドで「東南アジアの土俗的色彩は西欧-日本の枠から僕を解放した。‥もうひとつの西欧の荒々しい生命力を発見する糸口になった」と述べている。
私には「西欧-日本の枠」という一括りのとらえ方に思わず首を傾げた。私には実に新鮮というか、まったく発想になかった考え方である。「西欧」対「日本」、「西欧」対「日本・アジア」という枠組みが戦後の思想では当然の前提であった。こんな把握もあったのかと衝撃すら感じた。
しかも「東南アジアの土俗性」といっても、私にはあまでも色彩感覚の取入れということのように思える。「西欧-日本の枠」というのをしばらく頭の中に常駐させて見たが、私には未だに理解が出来ていない。考えるヒントが欲しい。
画家は自らの根っこを「日本」という枠組みから探すのではなく、「西欧の荒々しい生命力」を求めて自らの体験の対象化と「官能性」への方向を模索したようだ。10数年の遍歴は、しかし長期間である。
また1960年代末以降「快楽の園」(1967)のように画面の直線による分割が行われる。横や縦などに分割し相似形のような図を並べる作品へと発展していく。三次元を二次元に変換する手法として、あるいは奥行きの表現として模索された技法らしいが、これは晩年の作まで繰り返し現れる。万華鏡のようでもあり、大地と空の分割線にも見えたり、時間の断絶のシンボルにも見える不思議な分割線である。
画家はこの時期を「西欧人の原像」の執筆に過ごしたスランプは「樹」を主題に据えた連絡によっていっきょに吹き払われ、連作「未完の季節」のシリーズとなった」と述べている。私にはやはり「官能性の表出」という表現の方法と、「西欧人の原像」という問題意識と回答不可能性が、一体のものとして画家にのしかかっていたのかと推察している。
この「未完の季節」のシリーズ(上は「花や実や(未完の季節1)」(1978)、下は「花や実や(未完の季節18)」(1978))は私にはとても好ましい作品に思われる。生命力の賛歌が「官能性」という迂回した表現方法から、身近な自然を表現の対象として獲得したと思える。
難しい理論的な探求ではなく、身近な自然の表現の中に自然の生命力、自身の生への衝動を捉え、それを画面にたたきつけているような力強さを感じる。特に下の赤い夕陽のもとの燃えるような山とそれに対峙する孤高の樹木の静かな緑は、不思議な均衡を保っているように思う。樹木という生命体が、地球という巨大なエネルギーのかたまりと対峙している。樹木の下の白い未完の塗り残しに画家は何を込めようとしたのだろうか。わからないながら、興味を惹かれる絵である。
この「高山の春」(1981)は、上記の山と樹木の対峙から一歩進んで、生命の象徴としての樹木の山に対する優位性を表現しているように私は感じた。春の山桜のような生命力あふれる樹木が、山を従えるように覆っている。
ただし画面を横に区切った濃い緑の土台のような緑の帯と、その中に描かれた虹のような左右の縦線と、赤・青・黄の色彩は何を象徴しているのかはわからない。わからないがとても引っ掛かる。このイメージも晩年の「宇宙庭園」に結びついているかもしれない。
山に象徴される地球のダイナミックなエネルギー、そして樹木で象徴される生命の溢れるようなエネルギー、それらを生み出す土台のような、より根源的なものの象徴かと思ったが、答えは見えてこない。しかしここまで言及してしまうと、何か宗教がかった観念の世界に入り込むような危うさを感じてしまう。
掲げた作品は、版画集「峨山國奇譜」(1986)より。1980年代後半からは再び山や岩、火山をモチーフにするように見える。図録では「東洋」的な主題への取組みとしているが、同時に「これらの「東洋」は西洋と日本の溶け合った色彩・造形感覚によって描き出された、地上のどことも呼ぶことのできない境地であった。(アトリエの在ったバリのガザン街の)ガザンは「峨山」と漢字に置き換えられ、版画集「峨山國奇譜」が制作された」と記載してあった。
また「(金箔は)複雑な物質的心理的特性を持つ。歴史を通じて文化的意味を負荷された素材だ。それぞれに違う民族の文化が育てた美的感性の反映なのだ」という画家の言葉があり、金箔が画面に大きなアクセントとして用いられるようになる。
この時期生命としての樹木はなくなり、火山のような自然をモチーフとして出現し、金箔がおそらく人間の歴史総体を暗示するものとして登場してくる。掲げた作品は「黒い火山Ⅰ」(1983-1987)。
画家にとっては、東洋あるいは日本というイメージには帰り着く場所としてのイメージはなかったようである。架空の「峨山」という母型を自ら作り上げるしかなかったようだ。
ある意味ではこれはとても人間にとっては不幸なことである。故郷、あるいは人間としての原点が何処にもない浮遊する存在でしかないと認識した時の空虚感というのは想像できない。初めから日本にも西洋にも帰る場所がない根無し草のような存在であった自分を発見したとして、新しい故郷を構築するに至る溝はとてつもなく深いのではないか。超えるにはあまりに幅の広い水路を跨がなくてはいけない。こんな困難を私なら感じるが、画家はどのようにこの事態に対処したのだろうか。作品からだけではよくわからない。これを作品から読み解こうという私の方法論は間違っているのだろうか。
(その3)に続く