Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「田淵安一展-知られざる世界-」(その2)

2014年07月31日 23時03分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 今回の展示で見る限り、1962年頃を画期として田淵安一の作品は突如として緑・黄・明るい青そして赤などの原色がほとばしり出るように「官能的」となる。
「白壁の下で」(1962)の作品の前にベンチがあり、図録と作者の著作が置いてあった。著作の題名を失念してしまったのが残念だが、作者は15歳の時、父親の愛人だった30歳位の女性と同棲する。その時の模様を記しているが、確か女性を白いものが覆いかぶさるというような表現をしていた。同窓生であった作家の隆慶一郎が家を訪れた時、田淵少年が母親と同衾していたと思いびっくりしたというエピソードが紹介されていた。
 この「白壁」は女性の象徴であり、右の赤と黄の図は明らかに交接の図である。このような官能の絵が1970年代半ばまで続く。
 1961年個展のため帰国したのちパリへの帰途東南アジア・インドで「東南アジアの土俗的色彩は西欧-日本の枠から僕を解放した。‥もうひとつの西欧の荒々しい生命力を発見する糸口になった」と述べている。
 私には「西欧-日本の枠」という一括りのとらえ方に思わず首を傾げた。私には実に新鮮というか、まったく発想になかった考え方である。「西欧」対「日本」、「西欧」対「日本・アジア」という枠組みが戦後の思想では当然の前提であった。こんな把握もあったのかと衝撃すら感じた。

         

 しかも「東南アジアの土俗性」といっても、私にはあまでも色彩感覚の取入れということのように思える。「西欧-日本の枠」というのをしばらく頭の中に常駐させて見たが、私には未だに理解が出来ていない。考えるヒントが欲しい。
 画家は自らの根っこを「日本」という枠組みから探すのではなく、「西欧の荒々しい生命力」を求めて自らの体験の対象化と「官能性」への方向を模索したようだ。10数年の遍歴は、しかし長期間である。
 また1960年代末以降「快楽の園」(1967)のように画面の直線による分割が行われる。横や縦などに分割し相似形のような図を並べる作品へと発展していく。三次元を二次元に変換する手法として、あるいは奥行きの表現として模索された技法らしいが、これは晩年の作まで繰り返し現れる。万華鏡のようでもあり、大地と空の分割線にも見えたり、時間の断絶のシンボルにも見える不思議な分割線である。

   

 画家はこの時期を「西欧人の原像」の執筆に過ごしたスランプは「樹」を主題に据えた連絡によっていっきょに吹き払われ、連作「未完の季節」のシリーズとなった」と述べている。私にはやはり「官能性の表出」という表現の方法と、「西欧人の原像」という問題意識と回答不可能性が、一体のものとして画家にのしかかっていたのかと推察している。
 この「未完の季節」のシリーズ(上は「花や実や(未完の季節1)」(1978)、下は「花や実や(未完の季節18)」(1978))は私にはとても好ましい作品に思われる。生命力の賛歌が「官能性」という迂回した表現方法から、身近な自然を表現の対象として獲得したと思える。
 難しい理論的な探求ではなく、身近な自然の表現の中に自然の生命力、自身の生への衝動を捉え、それを画面にたたきつけているような力強さを感じる。特に下の赤い夕陽のもとの燃えるような山とそれに対峙する孤高の樹木の静かな緑は、不思議な均衡を保っているように思う。樹木という生命体が、地球という巨大なエネルギーのかたまりと対峙している。樹木の下の白い未完の塗り残しに画家は何を込めようとしたのだろうか。わからないながら、興味を惹かれる絵である。
 この「高山の春」(1981)は、上記の山と樹木の対峙から一歩進んで、生命の象徴としての樹木の山に対する優位性を表現しているように私は感じた。春の山桜のような生命力あふれる樹木が、山を従えるように覆っている。
 ただし画面を横に区切った濃い緑の土台のような緑の帯と、その中に描かれた虹のような左右の縦線と、赤・青・黄の色彩は何を象徴しているのかはわからない。わからないがとても引っ掛かる。このイメージも晩年の「宇宙庭園」に結びついているかもしれない。
 山に象徴される地球のダイナミックなエネルギー、そして樹木で象徴される生命の溢れるようなエネルギー、それらを生み出す土台のような、より根源的なものの象徴かと思ったが、答えは見えてこない。しかしここまで言及してしまうと、何か宗教がかった観念の世界に入り込むような危うさを感じてしまう。



 掲げた作品は、版画集「峨山國奇譜」(1986)より。1980年代後半からは再び山や岩、火山をモチーフにするように見える。図録では「東洋」的な主題への取組みとしているが、同時に「これらの「東洋」は西洋と日本の溶け合った色彩・造形感覚によって描き出された、地上のどことも呼ぶことのできない境地であった。(アトリエの在ったバリのガザン街の)ガザンは「峨山」と漢字に置き換えられ、版画集「峨山國奇譜」が制作された」と記載してあった。
 また「(金箔は)複雑な物質的心理的特性を持つ。歴史を通じて文化的意味を負荷された素材だ。それぞれに違う民族の文化が育てた美的感性の反映なのだ」という画家の言葉があり、金箔が画面に大きなアクセントとして用いられるようになる。



 この時期生命としての樹木はなくなり、火山のような自然をモチーフとして出現し、金箔がおそらく人間の歴史総体を暗示するものとして登場してくる。掲げた作品は「黒い火山Ⅰ」(1983-1987)。
 画家にとっては、東洋あるいは日本というイメージには帰り着く場所としてのイメージはなかったようである。架空の「峨山」という母型を自ら作り上げるしかなかったようだ。
 ある意味ではこれはとても人間にとっては不幸なことである。故郷、あるいは人間としての原点が何処にもない浮遊する存在でしかないと認識した時の空虚感というのは想像できない。初めから日本にも西洋にも帰る場所がない根無し草のような存在であった自分を発見したとして、新しい故郷を構築するに至る溝はとてつもなく深いのではないか。超えるにはあまりに幅の広い水路を跨がなくてはいけない。こんな困難を私なら感じるが、画家はどのようにこの事態に対処したのだろうか。作品からだけではよくわからない。これを作品から読み解こうという私の方法論は間違っているのだろうか。

(その3)に続く

ミレー生誕200年

2014年07月31日 10時00分57秒 | 読書
 今年は画家ジャン・フランソワ・ミレーの生誕200年にあたる。これを機会に開催される「ミレー展 傑作の数々と画家の真実」(三菱一号館美術館、10.17~1.12)は私も是非見に行きたいと思っている。

 「図書8月号」のあとがきにあたる「こぼればなし」には、岩波書店のマークであるミレーの種まく人との関連からこの生誕200年について言及している。
 美術展についてはまず、名古屋ボストン美術館で「ミレー展 バルビゾン村とフォンテーヌブローの森から」が4.19~8.31まで開催中。宮城県美術館でも「生誕200年 ミレー展 愛しきものたちへのまなざし」が11.1~12.14までの予定との情報が書かれている。

 さてミレーの「種まく人」は何を播いているのか?
 この「こぼればなし」によると、フランスで「サラセン人の麦」「黒麦」とも呼ばれる「蕎麦(そば)」であるとのこと。「寒冷地でも土壌が痩せていてもなんとか育つ、飢饉に強い雑穀として栽培された。「燕麦」よりもましだが、口の奢ったパリジャンたちの食べるものではなかった」らしい。
 高校生のころ世界史で「黒麦」という言葉が出て来て先生に質問したり、事典・辞典をひっくり返したがよくわからなかったことを思い出した。蕎麦のこととは知らなかった。世界史の先生も知らなかったのだろう。蕎麦の原産地は中国南部というのが定説らしい。
 この「黒麦」のことについては「「農民画家」ミレーの真実」(井出洋一郎、NHK出版新書)に詳しい、との紹介がされている。
 岩波書店の宣伝紙にNHK出版の書籍の紹介があとがきで掲載されるというのも不思議な気持ちだが、この「「農民画家」ミレーの真実」は是非手に取って読んでみたいと思った。

 しかし蕎麦好きの私としては、食文化が違うとはいえフランスでこんなに邪険に蕎麦が取り扱われていたというのはとても悲しい。とはいえ、生産主要国は、ロシア100万トン、中国80万トン、ウクライナ16万トン、フランス12万トン、ポーランド9万トンとなっている。そして日本の生産はわずかに3万トン余りしかなく、80%が輸入(中国・アメリカ)ということが分かった。(仕入れ先はWikipediaだが。)



 なお、岩波書店の種まく人のマークは、日本が国際連盟を脱退した1933(S.8)年とのこと。 マークを探して見たら、岩波文庫や岩波新書にもこの種まく人のマークはついていない。宣伝紙「図書」にもひとつもついていない。おかしいと思ってよく見たら、岩波文庫のカバーの表の左下についていた。文庫では表紙によってついていない本もあるようだ。年代によってマークの扱われ方に強弱があるのかもしれない。

図書8月号から「他人の痛みを知る」

2014年07月31日 02時12分10秒 | 読書
 岩波書店の「図書」8月号が昨日届いたので、いつものとおり斜め読みしていた。現在必ず読むのは、高村薫、赤坂憲雄の両氏、時々池澤夏樹氏、巻末の「こぼればなし」、そして最後に岩波の出版案内である。高橋睦郎氏の連載は今は古典ギリシャの世界なのでバスしている。
 今回は赤川次郎氏のところでちょっと目がとまった。「三毛猫ホームズの遠眼鏡」という連載の第26回として「傷を背負って前向きに」という題がついている。

 まずは、NHKのETV特集「鬼の散りぎわ」に言及して、
「(文楽の竹本)住大夫さんの脳梗塞の一因となったストレスに、橋下徹大阪市長の補助金打切り問題があったことは間違いない。橋下氏は「住大夫さんを引退させた人物」として、歴史に名を残すだろう。まあ、橋下氏がこのTVを見たからといって、おそらく何の感慨も覚えないだろうが‥‥。」
と述べている。
 集団的自衛権、武器輸出三原則を巡る報道についてマスコミ批判を展開したあと、後半では、
「もちろん日本にいいところは色々あるだろうが、福島の原発が事故から三年もたって、なお収束の見通しも立たないのは事実だし、都議会で、女性議員にセクハラのヤジを飛ばしても、辞めずに議員ポストにしがみついている男がいるのもまた日本の一面なのである。中国や韓国へのヘイトスピーチをくり返す人々はよく「自虐史観」という言葉で、戦後の民主教育を批判するが、私には「他の国を悪く言うことでしか自分の国を誇りに思えない」ことの方がよほど「自虐」と思えてならない。」
と述べている。
 最後に、赤川次郎氏の娘は小さい頃からけがで痛い思いをしているので、
「(娘は)「けがをするのもいやだけど、他の人がどんなに憎らしくても、けがさせたいとも思わない」と言っている。痛みを知るということは、もちろん、実際の傷のことだけではないが、知ることによって、他の人の痛みを知ることができる。」
と結んでいる。(けがをよくしていたのは私の娘も同じだが‥)

 言葉をついたくさん注がないと言いたいことが言えないと思い勝ちだが、このようにあっさりと述べることの方が的確に表現できることを教えてくれる文章である。これまで私は赤川次郎氏の小説もエッセイも読んだことがない。氏がどのような思いを持っているか知らないで申しわけないが、文章はすっきりしている。見習うことが必要だと思った。

 同時に「他の人の痛みを知る」ことの大切さをあらためて思い出した。小さい頃から教わってきたが「他の人の痛みを知る」ために謙虚に「知る」「学ぶ」こと、もう一度噛みしめておこう。

 批判者を批判する場合、自分の立ち位置も、より豊かな知識と包容力を常に求められる。相手にも味方にも、そしてとりわけ自分にも「考えること」「知ること」の大切さを求めなくてはいけない。そして味方には付和雷同する人を集めてはいけないのだ。