昨日東京都写真美術館のコレクション展「写真のエステ-五つのエレメント」を見てきた。
五つのエレメントとは光(luminous)、反映(refrection)、表層(surface)、喪失感(sense of loss)、参照(reference)を指している。この五つのテーマごとに作品を展示している。この展示の企画者が写真芸術あるいは写真の美の在り方として感じているこの五つの要素を手がかりとして、19世紀の初期の写真から現代の写真まで紹介している。
写真芸術の五つの側面の紹介という、写真を鑑賞したり写真芸術を志す人に向けた基本のレクチャー、教科書的な展示というふうに私は理解した。
「光」:光は始原であり、生命を与えるもの。暗い部屋のなかに外界からの光が注 ぎ、像を結ぶことが写真装置の本質である。
「反映」:水に映る光の像、ガラスや窓に映る世界。イメージは現と幻の境界にた だよい、どちらともつかない情趣や感覚、豊かな重なりあいを生み出す。
「表層」:物質の質感、皮膚感。ものの表面とディテールへのフェティッシュな感 覚。そしてモノクロームの印画紙の表層に色彩をのせる「化粧」をほどこすこと で、外国人を魅了したエキゾティックな明治期の横浜写真。
「喪失感」:廃墟や昔の記念写真。失われた時の痕跡は人の記憶や情動をゆさぶる。 写真をとおして人は取り返しのつかない時間の流れに思いをはせる。
「参照」:ひとつのイメージは他のイメージを源泉として未来に再生される。ひと つのイメージは過去の視覚文化の歴史とつながっている。
今年度にはこのあと「写真のエステ-作り方のエレメント」(7.13~9.16)、「写真のエステ-自然のエレメント」(9.21~11.17)と連続する企画。
私が惹かれた作品は、「光」のエレメントに展示されているものでは、稲越功一(1941~2009)の「Maybe,maybe#8」とチラシの表紙を飾る佐藤時啓(1957~)の「Breath-graph#155 YUBARI」、川内倫子(1972~)の《イルミナンス》のシリーズ。
稲越功一の作品は何ということもない景だが、柔らかい光と落ち着いたたたずまいの室内がいい。心を落ち着かせてくれる佳品だと思う。
佐藤時啓の作品は「喪失感」のエレメントに入れてもいいのだろうが、蛍の光が主題と考えるとこのエレメントでもいいのだろう。夕張のおそらく廃坑の建物の朽ちていく情景を写している。これなど時間のかなり長い経過・人の歴史も感じさせ、また光の芸術としての写真としてもいい。板目のディテールも美しい。蛍が美しい自然や、人の手が入って懐かしい田園風景の中にある美しさというような過去の範疇をさらっとかわし、和泉式部の「もの思へば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」という恋の情念を現代の栄枯盛衰の世界に変えてみせるてもいる。今回の展示の五つのエレメント、いづれにも当てはめられる作品ではないか。とても気に入った作品である。
川内倫子の作品、以前この東京都写真美術館で作品展があったと思う。そのとき私はあまり好印象はなかった。スナップ写真ばかりが目立っていて、作意が薄っぺらで面白味が感じられなかった。今回この「光」をテーマとした作品群の中にはいると技巧的な作品としておもしろいと思った。
また畠山直哉(1958~)の「スローグラス」は雨に濡れたガラスの向こうに赤い東京タワー近辺の都市風景だが、この作品のように都市を温かみのある風景として切り取るということにも私は最近ようやく慣れてきた。
「反映」のエレメントは、大きく分ければ「光」でもあるようでもあり、今ひとつ私には作品群としては迫ってくるものがなかった。しかし「映ることは自然現象で写すことは文化的な行為、能動的な意志。リフレクションのイメージは、その中間にある。」というコンセプトはなかなか面白い。最近の若いスナップ写真家の多くが自然現象のように映すことにエネルギーをあまりに使いすぎているのをみると、写すことの意志があまりに希薄でつまらないと思う私には、このエレメントは貴重なのかもしれない。
山崎博(1946~)の「海をまねる太陽No.4」は自然写真であるが、同時に時間を写しこむ造形的な美しさに惹かれた。このエレメントになるのだろうか。また東松照明(1930~2012)の「ホテル」や《チューイングガムとチョコレート》シリーズなど、表出意識の過剰な氾濫が技巧を越えて行く危うさが感じられて私などは惹かれるのだが、このエレメントとどうかかわるのか。
いづれにしても面白いエレメントなのだが、展示作品との関連が私にはわかりにくかった。理解が到らなかった。
「表層」のエレメントは、もうひとつのコンセプトは「写真の表層には目に見えるものものしか写らない。内面的なビジョンや精神性を表出する絵画表現と異なって、徹底して表層の美しさ、見栄えの良さにこだわる写真が私は好きだ」とある。私もこの把握は好きだ。いわゆる造形写真の多くがこの部類に入るし、同時に自然写真にもここに入るものも多い。マン・レイの作品やアンセル・アダムスの山岳写真が並んでいる。森山大道の作品でここに展示されるようなものがあったのは私の無知を晒すようだった。この方は実にいろいろな技術や目を持っていたのだなぁとあらためて感心した。
幕末から明治にかけての、モノクローム写真に水彩で色をつけたいわゆる横浜写真がこの部類に入るのかとビックリしたが、あらためてその精緻な彩色に舌をまいた。
「喪失感」のエレメントは私には刺激的だ。雑賀雄二(1951~)の《軍艦島》のシリーズ、川田喜久治(1933~)の《地図》のシリーズ、宮本隆司(1947~)の《建築の黙示録》のシリーズ、どれも見入ってしまう。そして造形的にもすぐれている。細部への細かな配慮も好きだ。このエレメント、シリーズものになるのはどうしてだろうか。時間を閉じ込めるのは一枚の写真でも充分に閉じ込めてそれを鑑賞者に見せることは充分に可能だ。しかしシリーズものになる場合が多いのはなぜなのだろう。私の理解では、作者の対象に対する姿勢、対象に肉薄しようとする表現意識の強さと関係があるのかもしれないと、この展示を見ながら考えたが、それ以上はまだわからない。
「参照」は面白い切り取り方だと思う。「モダンアートがひとつの作品が他の何にも似ていないことが創造的であるとされてきた。ポストモダンアートと呼ばれる高度情報化社会の美術作品は、先行する美術作品やさまざまなジャンルの視覚表現を引用し、参照することで成立する。」というコンセプト。確かに本歌取りやエッセンスの引用、新しい視点による再解釈、新しい意味の付与など芸術作品の原動力だ。こんコンセプトも面白いし、多くの作家が試みるべき試行だ。森村泰昌(1951~)の《なにものかへのレクイエム》のシリーズの試みなど刺激的で私はとても惹かれる。今回は「パブロ・ピカソとしての私」が展示されている。
文化や表現の画期をもたらすというすぐれた試みも持つと同時に、しかし同時にこのことが強調され、氾濫する時代は、時代の爛熟期の特異という側面もある。
いろいろなことが学べるコーナーなのだろう。
この写真展、素人目にこんな感想を持った。なかなか刺激的な時間を過ごすことが出来た。勉強にもなった。企画に感謝である。