Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

東日本大震災から2年-当日の記憶3-

2013年03月12日 20時34分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
-前回の2で書き漏らしたことの補足-

 歩いて帰宅する途中、横浜駅の近くでこの区を所管とする私と同様の職場の現業職員が乗るトラックに追い抜かれた。もう深夜12時になろうかという時間帯であった。多くの人が行き交う中、私を見つけてトラックから私に声を掛けてくれた。
 乗車していた仲間はいづれも私の組合の組合員で、くたびれていると思われるもののその明るい表情からその職場にけが人などはいないことを十分察することが出来た。そして「支部長の職場は解散が早いけど大丈夫なのかい」といってくれた。思わず「私などの年寄りは必要なかったようだよ」と返事をしたのだが、乗っているリーダーは私より一つ上で31日には定年となる仲間であった。私の返事が頓珍漢であったと反省をすると共に、現業の仲間がキチンと災害配備に位置づけられていることを実感し、とてもうれしかった。

 現業職員というのは、自治体で働くいわゆる行政職の事務・技術職とは違い、「単純労務」と位置づけられた職員である。ゴミの収集や施設管理、道路・公園・下水道などの維持管理、学校用務・給食調理などに従事する。「単純労務」と規程されているが、各種施設の維持管理をはじめどの職場も行政の基本に精通していないとこなせない仕事であり、仕事は「単純」ではない。市民とも直接接する中で行政指導もこなさなくてはならない立場は、事務・技術となんら変わるところはない。
 私共の組合は、この現業職員の業務が行政の一環としてキチンと位置づけられ、「単純労務」と落とし込められることなく、働きがいをもって業務に位置づけらるよう、組合再建以前も以降もひたすらそのことを具体的な要求提言を行い、人員体制の確保を使用者側に求めてきた。
 災害時の現業職員の業務の位置づけは行政としてもっとも基本的な課題である。また、当該の組合員自信がそのことに自覚的になることがもっとも重要であると組合員にも訴えてきた。
 この日、被害の大きかった横浜駅を所管とする職場の現業の仲間が、深夜でも走り回って業務をこなしていること、それも生き生きと携わっていることを目の当たりにして、私としては大変うれしかった。
 降雪時や大雨、通常の小規模な事故などの日常の災害でも位置づけられていることは確認してきたが、この未曾有の災害時に存在感をしめした現業の仲間の存在は組合のこれまでの取り組みが無意味ではなかったとあらためて思われ、感慨深かった。ことに私に声を掛けてくれたトラックに乗っていたリーダーは昔私と同じ職場にいて、私にスポーツというか体を動かすことの楽しさを教えてくれた恩人でもある。

 その時の状況から、あらためとこの震災の日と、それ以降の後処理で各職場の現業職員の位置づけについて後日組合として点検をしたが、どの職場も当然のように現業職員が第一線に位置づけられ、特に初期対応で大きな存在感を示していた。大変うれしかったことを今でも覚えている。

 現業職員は議会やひどい政党などからいわれのない業務切捨ての圧力を常にかけられ、人員と業務の縮減を強いられている。この圧力に抗して、引き続きこの職場と仕事の位置づけが行われ、働きがいのある職場として生き残ってほしいと切に願っている。

東日本大震災から2年-当日の記憶2-

2013年03月12日 14時02分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 執務室では発電機のおかげで現場照明用のライトを点灯したが、全体を照らすものではないので、一部しか明るくならない。人は暗いと落ち着かないもののようで、私も気分がざらついた感じが継続していた。さらに区内全域が停電であることが判明し、職員全員の不安感が増してきた。
 テレビについてはこの発電機で見ることが出来、事態の深刻さがわかった。また交通全般が関東でも麻痺していることも伝わってきた。津波の話もチラホラと伝わってきたが、あのような深刻な事態であることの認識は伝わってこなかった。
 そして私は、他の執行委員への連絡も取れず、妻と娘に連絡が取れない。メールを打っても返信がいづれもまったく来ないのだ。それも気分が落ち着かない原因でもあったが‥。金曜日ということもあり、土・日は携帯電話の番号を知っている組合員以外連絡のしようがなくなる。

 17時過ぎに他の職員が近くの数件のコンビニでレトルトの味噌汁とカップ麺を調達してきた。これもなかなかの好判断であった。夜になるとコンビニでは食品類は売れきれ、棚は空っぽになった。ガスと水道は供給されていたので、19時近くには職員はこれを食すことが出来た。全員の分はなかったので、予想される要因の縮小の時に、残留すると予想される人を中心に食した。
 この時間帯、私の携帯電話は電池切れ寸前。通常の通信は出来ないのだが、緊急地震速報はやたらとくる。受診するたびに電池の残量がどんどん減っていった。充電器は持っていたものの発電機の貴重なコンセントを使うのは気がひけた。しかし仕事の合間に見計らって、コンセントが空いた時間を利用して、3回ほどに分けて充電した。組合員との連絡にどうしても必要、と言い訳を上司にして目をつぶってもらった。この時、充電池を普段持参することの大切さを認識した。

 19時を大分過ぎてから、点検結果をまとめて所管内はがけ崩れも施設の損壊もないとの判断をして、居残りの人員を縮小することとなった。職種・係ごとの均衡、それぞれの家族事情などを考慮しつつ、約半分くらいにしたのだったろうか。その割合については私は記憶にないのだが、私は居残り組からは外れた。私の係は59歳の私よりも若い職員ばかりなので、年寄りがしゃしゃり出ることもなかったようだ。あらためて自分の年齢を実感した。

 しかし20時近くに駅に行ったが、JRの駅のシャッターは閉まっており、運行情報を駅員に聞こうとする人が幾人もいたが、駅員の姿はなかった。駅前のバスも長蛇の列でいつ来るかわからない。やむを得ず、自宅までおよそ18キロを歩いてかえる覚悟をして、幹線道路を歩き始めた。駅前付近の二つの信号のある交差点では、地元のボランティアによる手信号による誘導が行われており、私が心配したような交通無秩序は見られなかった。
 しかし街路灯は点灯しておらず、時たま通る自動車の明かりがありがたかった。途中自動販売機を利用してお茶やジュースを買おうとしたが、停電でまったく利用できない。その上、隣の区まで商店や食堂がない道である。チラホラと横浜の中心部のほうから歩いてくる人とすれ違う頻度が増えてきた。皆大分くたびれている様子ではあったが、それでもこの時刻では横浜の中心部か最寄の副都心あたりに勤めていた人々と思われた。
 若干の登りで峠道のようなところを過ぎてすぐ隣の区に至り、突然あたりが明るく感じた。街路灯と自動販売機が点灯していた。この明かりでずいぶんと気分がほぐれてきたように思った。さっそく自販機で温かいコーヒーを購入し、一息つくことが出来た。信号も点灯していた。
 バス路線に沿って歩いているのだが、バスは上りも下りもまったく通過しない。横浜駅を通り過ぎた先の自宅まで歩くことを再度覚悟した。前年の秋口に自宅から職場まで歩いて出勤する参集訓練は、朝から昼にかけての時間帯であったし、人通りも多かった。今回は暗いし、最初は人通りも少なく心細かった。私でもそう感じたのだから、体力に自信のない人、遠くから通っている中・高校生などはさらに不安であったのではないだろうか。
 この間も家族に電話をかけたり、メールを幾つも発信したがまったく返信がない。この隣の区内の三分の一を過ぎたあたりのバス停では10人くらいが待っていた。そのチョッと手前で、突然横浜駅方面に行く市営バスが私を追い越していった。あわててバス停まで走り、乗ろうとしたが待っていた人が乗るのを躊躇するくらいギュウギュウであった。しかし市営バスの運転手は「次は当分来ないので詰めてください」とのアナウンスをして、最後の私が乗るまで発車を待ってくれた。やっとの思いでステップに足をかけて乗り込んだが、あまりの混雑で、緊急地震速報がいくつか携帯電話に着信したものの取り出すことも出来ない。朝のラッシュ時の通勤バスの満員などよりはるかに多くの乗客が乗っている。あとから携帯電話を見るとこの時間帯、契約している気象情報から地震の震度情報がいくつか入るようになっていた。しかし家族からのメールも、他の執行委員からのメールも着信はなかった。
 隣の区の中を通っていくうちに渋滞がひどくなり、区役所の傍でまったくバスが動かなくなった。この渋滞で何人かの乗客が降りたので多少は身動きが出来るようになった。区役所へ駆け込む人が幾人かいたので、便所を求めて降りたようだった。これで多分通勤ラッシュ時の満員程度に乗客は減った。このあたりから歩道は関内方面から歩いてくる人でいっぱい。車がいっぱいの車道にも人が溢れて歩いていた。これを逆に歩いていくのはつらいかな、とバスに乗り続けることを選択した。
 この時点でようやく妻からメールが届いた。ただし「今、○○を通過中」とだけで要領を得ない。しかもどうも大分前に発信したような形跡があり、メールての通信の混乱が察せられた。
 だが、この区を通過して、さらに次の区に入ったときはすでに10時半を過ぎていた。バスは道行く人よりも極端に遅い。この先は関内の中心街であり、さらに渋滞が予想されるので、先ほどの決断は撤回して、最寄のバス停で私も降車して歩くことにした。途中のコンビニでパンかおにぎりを食べようとしたが、棚は空っぽ。かろうじて残っていたのはケーキで私は食べる気にはならなかった。しかしトイレが開放されているのでコンビニはずいぶん繁盛している。カップ麺はそろっているのだが、お湯の沸くのが間に合わないらしく、これを求めて人が並んでいた。大きなやかんも利用してお湯を供給していた。
 次に気がついたのが、1本裏道はまったく自動車や人が歩いていないこと。街路灯はないが防犯灯は点灯しており、問題ない。自動車も人もこの近辺の地理に詳しくない人が主要道路に殺到しているのだと思った。また自動車も渋滞に嵌ってしまって簡単には裏道に入ることのできる情況ではなさそうだ。裏道に自動車が少しでも回ればあの渋滞もずいぶん解消できるはずであった。緊急輸送路の確保も必要だが、この裏道情報もいざというときには大切であると感じた。
 私は歩道から溢れる人の流れに逆行して歩かなくてはいけないので、躊躇なく裏道をひたすら横浜駅に向かって歩いた。ほとんど人は歩いていない。表通りとまったく違う様相である。歩くのは自信があった。携帯電話の電池の残量が再び半分以下になり不安になってきた。
 桜木町では町内会館に役員が陣取り、便所・休憩・お茶を用意していた。これはずいぶんと気がきく対応だなぁと関心した。
横浜駅を海側から陸側に向かってとおり抜けようとしたが、人が溢れかえっている様子なので、北側に迂回した。
 この横浜駅では揺れのあと夕方大変な混乱であったとあとから聞いた。横浜駅で溢れた人を市の職員がMM地区に誘導したところ、途中で津波情報で警察の判断はそこはまずいということになり、ずいぶんと混乱したとの話が後日伝わった。避難所設営の現場ではずいぶんと苦労が多かったようだ。食事がないとクレーマーのように食って掛かられ、人の誘導など他の業務が出来ないなどの事態も起きたようだ。

 私は、12時半過ぎにようやく家にたどり着いた。空腹であったが、もう食事をする気力はなく、熱いお風呂で汗を流して人心地がついた。

 妻も私が帰宅したときにはすでに帰宅していた。話を聞くと、渋谷よりも先にある職場からずっと歩いてきたらしい。私へのメールは歩いていた地点の報告だったようだが、妻の携帯電話の電源もすくなっており、かなりあわててメールを打ったようだ。
 それよりも感心したのは、職場から線路沿いに菊名駅の傍まで歩きとおしたということであった。そこまで来て電車が動き始めるとの情報を得て、電車にかろうじて乗り、12時近くに帰宅したらしい。私よりも歩いたと思われる。妻は少なくとも20kmは優に超す距離を歩いたことになる。ちなみに私は13kmほどであったと思う。妻の体力を見直したものであった。

 翌日、土曜日以降支部の他の執行委員に連絡が取れ、その範囲では組合員にけが人のいないことが判明。さらに月曜以降職場に点在している組合員への安否確認の分担を決めることが出来た。娘とは妻のメールで連絡が取れたと記憶している。そして組合の本部に出向いて組合員の状況報告をしたが、なかなかこちらでも情報が伝わってこないらしかった。