刑事裁判における自由刑(懲役)の量刑の判断について、その基準、根拠の弱さ(なさ)を論じ、裁判員裁判での量刑のあり方を論じた本。
この本の構成は大きく3部に別れ、職業裁判官の量刑決定で伝統的に取られてきた手法を説明しつつその根拠がなく市民感覚と乖離していることなどの現状説明と問題提起をする序盤(第1章~第4章)、ヨーロッパの刑罰論の流れを概観しつつこれまでの刑罰論が結局は量刑の基準となり得ないことを論じる中盤(第5章、第6章)、犯罪の類型別に量刑上の考慮事項を指摘する終盤(第7章~第9章)からなっています。
著者の狙いを善解すれば、職業裁判官が行ってきた量刑は論理的な根拠もなく事件を比較すれば矛盾が見られ市民感覚では軽すぎるのは事実であるが、刑務所での矯正は現実には期待できず長期受刑はむしろ犯罪傾向を強化する(刑務所内で犯罪者と接し犯罪の知識が増え犯罪への抵抗をなくしさらに出所後の社会適応も困難になるなどから)実情からすればむしろできるだけ刑務所に入れないことで日本の治安は維持されてきた(序盤)、また量刑の決定を支える刑罰論上の根拠は結局ない(中盤)、そうすると市民感覚を反映する場合でも、量刑相場の枠内で(舞台の上で)特定の要素について新たな判断を示して行く限度で行うのが妥当である(終盤)という論理の流れになるかと思います。しかし、序盤はそれにしては扇情的で、中盤は今ひとつ何のために論じているのかわかりにくく、終盤は実務家の感覚でよく理解できるのですが序盤の論との手法が大きく異なりまるで別人が書いたかのように思えて、1冊の本としての収まりが悪いように感じます。
序盤で論じており、本の帯になっている「刑務所に行くのはたった2%」。検察官はよくこれを言いたがるのですが、現在弁護士であり元裁判官の著者がこれを言うときは、慎重な姿勢が欲しいと思います。16ページの表1-1での検察庁受理人員(2014年度133万2918人)に対する入所受刑者数(2014年度2万2755人)の割合(2014年度1.71%)がその論の(唯一の)根拠です。著者はこれをもって「犯罪者のうち刑務所に入れられる者が全体の2%にも満たない」(11ページ)と述べています。問題はこの「犯罪者」とはどういう人たちかです。検察統計年報の第7表(「罪名別被疑事件の受理の人員-自動車による過失致死傷等及び道路交通法等違反被疑事件を除く-」)を見れば、2014年度の受理人員総数は41万4483人です。つまり著者の(検察官がこういう議論をするときの)母数の検察庁受理人員の3分の2は、交通事故と道交法違反(30km毎時以上の速度違反等)なのです。ちなみに交通事故と道交法違反を除く検察庁受理人員の3分の1は窃盗と遺失物横領(いわゆるネコババ)です。読者が「犯罪者」と聞いて想定するのとは相当違う母集団を前提に「刑務所に行くのはたった2%」などと扇情的な主張をすることには違和感があります。私自身が調査できないので問題提起にとどめますが、この入所受刑者率の低さを日本の特色とするためには、逮捕・検挙、送検のレベルが同じであることが前提となるはずです。比較する諸外国でも、道交法違反(年間50万件レベル)や窃盗(年間13万件レベル)、遺失物横領(年間1~2万件レベル)、暴行(被害者が負傷していないもの:年間1~2万件レベル)、覚醒剤所持・自己使用(年間1~2万件レベル)、廃棄物処理法違反(廃棄物不法投棄等:年間1万件レベル)などが同様に送検されているのでしょうか。もし(先に述べたように私は調査できないのでわかりませんが)そうでないのであれば、日本の司法が「寛刑」なのではなく、むしろ微罪までうるさく検挙していると評価される可能性も出て来ます。
また職業裁判官の量刑感覚として、被害者1人の殺人が昔は懲役8年という紹介がなされています(14ページ)。これは、私が司法修習をした頃(1983~1985年)にはよく言われていたことですから、それ自体はいいと思いますが、そこで想定されていたことは、日本社会では、人はよほどのことがないと人を殺さない、殺人事件の多くは人間関係のもつれで被害者の言動が何らかの形で影響しているのが通例、つまりそれを「被害者の落ち度」と呼ぶかどうかは別としても被害者側にまったく原因がない殺人はあまりないという前提があったためです(著者も終盤の第7章では、日本の殺人罪の実情がそうであることを統計を用いて説明しています)。その頃でも、被害者側に原因がない、強盗殺人とか、身代金誘拐殺人とか、保険金殺人とかは被害者1人でも死刑が多かったし、通り魔殺人の場合に「懲役8年が相場」なんていうことはありませんでした。現在の読者は、現実には殺人事件などの凶悪事件が減少の一途をたどっているのに猟奇的・扇情的な事件を探して微に入り細をうがって「報道」したがる血に飢えたマスコミのおかげで、日本の治安はどんどん悪化していると考えており、また殺人事件とは通り魔殺人や保険金殺人のようなものをまず想定すると思います。そこへそういう事情を説明せずに(先に指摘したように、終盤で論じるときにはそういう説明をしているのですが…)職業裁判官は「寛刑」の傾向にあるなどと論じるのはアンフェアに思えます。
中盤の刑罰論の虚しさについては、著者がこれまで傾倒してきたフーコーに対しても批判的に論じている点は目新しいですが、量刑全体をうまく説明できないということでバッサリ切ってしまうのだと、何のために論じているのかという読後感が出て来ます。
なぜ人を殺してはいけないかについて、著者はこれまでの論は、自分はもう死んでもいいと考える者や自分が殺されるのはいやだが他人を殺すのはかまわないと本気で考える者には通用しないとしています(166~167ページ)。しかし、今の日本の権力者たちがどう考えているかは置いて、近代法の人権と社会契約的な考えからも、人はみな生きる権利があり人民から委託された権力はそれ(人権)を守るために殺人(権利侵害)を防止し違反者を処罰する、それが制度として実行されていること、その実行への確信(信頼)があるから、現実に犯罪(権利侵害)が減少するとともに、人々が一定の安心感を持って生活できるという説明で、私は足りると考えています。自分は死んでもいいと思うのは勝手(自由)ですが、他の人は生きたいと思っているということです。自分が殺されるのはいやだが他人は殺してもいいという考えは通じませんし、通常その人自身他人には通じないとわかっていると思います。
終盤の各論的な議論は、実務的なもので、著者の意見部分に必ずしも賛同できないところはありますが、議論の手法は説得的で有益に読めます。序盤で判決を比較して量刑に矛盾があるとか「乱数表的」だとした部分でも、このように実務的に背景を論じてくれればたぶん、個別事件の事情としては特段の矛盾がないものと評価できるのだろうなと思います。私としては、序盤の扇情的な議論をやめて(ついでにサブタイトルもやめて)、問題提起を簡単にして終盤の議論を膨らませてさらに展開してもらえれば、とてもよい本になったと思うのですが。

森炎 筑摩選書 2016年1月15日発行
この本の構成は大きく3部に別れ、職業裁判官の量刑決定で伝統的に取られてきた手法を説明しつつその根拠がなく市民感覚と乖離していることなどの現状説明と問題提起をする序盤(第1章~第4章)、ヨーロッパの刑罰論の流れを概観しつつこれまでの刑罰論が結局は量刑の基準となり得ないことを論じる中盤(第5章、第6章)、犯罪の類型別に量刑上の考慮事項を指摘する終盤(第7章~第9章)からなっています。
著者の狙いを善解すれば、職業裁判官が行ってきた量刑は論理的な根拠もなく事件を比較すれば矛盾が見られ市民感覚では軽すぎるのは事実であるが、刑務所での矯正は現実には期待できず長期受刑はむしろ犯罪傾向を強化する(刑務所内で犯罪者と接し犯罪の知識が増え犯罪への抵抗をなくしさらに出所後の社会適応も困難になるなどから)実情からすればむしろできるだけ刑務所に入れないことで日本の治安は維持されてきた(序盤)、また量刑の決定を支える刑罰論上の根拠は結局ない(中盤)、そうすると市民感覚を反映する場合でも、量刑相場の枠内で(舞台の上で)特定の要素について新たな判断を示して行く限度で行うのが妥当である(終盤)という論理の流れになるかと思います。しかし、序盤はそれにしては扇情的で、中盤は今ひとつ何のために論じているのかわかりにくく、終盤は実務家の感覚でよく理解できるのですが序盤の論との手法が大きく異なりまるで別人が書いたかのように思えて、1冊の本としての収まりが悪いように感じます。
序盤で論じており、本の帯になっている「刑務所に行くのはたった2%」。検察官はよくこれを言いたがるのですが、現在弁護士であり元裁判官の著者がこれを言うときは、慎重な姿勢が欲しいと思います。16ページの表1-1での検察庁受理人員(2014年度133万2918人)に対する入所受刑者数(2014年度2万2755人)の割合(2014年度1.71%)がその論の(唯一の)根拠です。著者はこれをもって「犯罪者のうち刑務所に入れられる者が全体の2%にも満たない」(11ページ)と述べています。問題はこの「犯罪者」とはどういう人たちかです。検察統計年報の第7表(「罪名別被疑事件の受理の人員-自動車による過失致死傷等及び道路交通法等違反被疑事件を除く-」)を見れば、2014年度の受理人員総数は41万4483人です。つまり著者の(検察官がこういう議論をするときの)母数の検察庁受理人員の3分の2は、交通事故と道交法違反(30km毎時以上の速度違反等)なのです。ちなみに交通事故と道交法違反を除く検察庁受理人員の3分の1は窃盗と遺失物横領(いわゆるネコババ)です。読者が「犯罪者」と聞いて想定するのとは相当違う母集団を前提に「刑務所に行くのはたった2%」などと扇情的な主張をすることには違和感があります。私自身が調査できないので問題提起にとどめますが、この入所受刑者率の低さを日本の特色とするためには、逮捕・検挙、送検のレベルが同じであることが前提となるはずです。比較する諸外国でも、道交法違反(年間50万件レベル)や窃盗(年間13万件レベル)、遺失物横領(年間1~2万件レベル)、暴行(被害者が負傷していないもの:年間1~2万件レベル)、覚醒剤所持・自己使用(年間1~2万件レベル)、廃棄物処理法違反(廃棄物不法投棄等:年間1万件レベル)などが同様に送検されているのでしょうか。もし(先に述べたように私は調査できないのでわかりませんが)そうでないのであれば、日本の司法が「寛刑」なのではなく、むしろ微罪までうるさく検挙していると評価される可能性も出て来ます。
また職業裁判官の量刑感覚として、被害者1人の殺人が昔は懲役8年という紹介がなされています(14ページ)。これは、私が司法修習をした頃(1983~1985年)にはよく言われていたことですから、それ自体はいいと思いますが、そこで想定されていたことは、日本社会では、人はよほどのことがないと人を殺さない、殺人事件の多くは人間関係のもつれで被害者の言動が何らかの形で影響しているのが通例、つまりそれを「被害者の落ち度」と呼ぶかどうかは別としても被害者側にまったく原因がない殺人はあまりないという前提があったためです(著者も終盤の第7章では、日本の殺人罪の実情がそうであることを統計を用いて説明しています)。その頃でも、被害者側に原因がない、強盗殺人とか、身代金誘拐殺人とか、保険金殺人とかは被害者1人でも死刑が多かったし、通り魔殺人の場合に「懲役8年が相場」なんていうことはありませんでした。現在の読者は、現実には殺人事件などの凶悪事件が減少の一途をたどっているのに猟奇的・扇情的な事件を探して微に入り細をうがって「報道」したがる血に飢えたマスコミのおかげで、日本の治安はどんどん悪化していると考えており、また殺人事件とは通り魔殺人や保険金殺人のようなものをまず想定すると思います。そこへそういう事情を説明せずに(先に指摘したように、終盤で論じるときにはそういう説明をしているのですが…)職業裁判官は「寛刑」の傾向にあるなどと論じるのはアンフェアに思えます。
中盤の刑罰論の虚しさについては、著者がこれまで傾倒してきたフーコーに対しても批判的に論じている点は目新しいですが、量刑全体をうまく説明できないということでバッサリ切ってしまうのだと、何のために論じているのかという読後感が出て来ます。
なぜ人を殺してはいけないかについて、著者はこれまでの論は、自分はもう死んでもいいと考える者や自分が殺されるのはいやだが他人を殺すのはかまわないと本気で考える者には通用しないとしています(166~167ページ)。しかし、今の日本の権力者たちがどう考えているかは置いて、近代法の人権と社会契約的な考えからも、人はみな生きる権利があり人民から委託された権力はそれ(人権)を守るために殺人(権利侵害)を防止し違反者を処罰する、それが制度として実行されていること、その実行への確信(信頼)があるから、現実に犯罪(権利侵害)が減少するとともに、人々が一定の安心感を持って生活できるという説明で、私は足りると考えています。自分は死んでもいいと思うのは勝手(自由)ですが、他の人は生きたいと思っているということです。自分が殺されるのはいやだが他人は殺してもいいという考えは通じませんし、通常その人自身他人には通じないとわかっていると思います。
終盤の各論的な議論は、実務的なもので、著者の意見部分に必ずしも賛同できないところはありますが、議論の手法は説得的で有益に読めます。序盤で判決を比較して量刑に矛盾があるとか「乱数表的」だとした部分でも、このように実務的に背景を論じてくれればたぶん、個別事件の事情としては特段の矛盾がないものと評価できるのだろうなと思います。私としては、序盤の扇情的な議論をやめて(ついでにサブタイトルもやめて)、問題提起を簡単にして終盤の議論を膨らませてさらに展開してもらえれば、とてもよい本になったと思うのですが。

森炎 筑摩選書 2016年1月15日発行