伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年に続き2023年も目標達成!

中国労働法事件ファイル

2018-02-28 19:16:51 | 実用書・ビジネス書
 中国での労働事件の裁判事例を元に、中国の労働法の内容とその実務を解説する本。
 使用者側弁護士の手になるものですが、使用者側の利害をギラつかせず、淡々と書かれているように思えます(中国の労働法、私はまったく知らないので、どの程度公平に紹介されているのかまではわかりませんけど)。
 紹介されている内容によれば、中国では、労働契約書を作成しないまま雇用すると、1か月経過後は賃金を2倍支払わなければならない(契約書作成義務を履行しないことへの制裁。日本の労働基準法になぞらえれば、残業代や解雇予告手当の不払いに対する付加金のようなものでしょうか)、1年経過しても労働契約書が作成されない場合は無期雇用(期間の定めのない労働契約:日本ではいわゆる正社員)と見なされ、有期契約を更新すると無期契約になり(基本的に1回更新で。上海では2回更新で初めて無期になると解釈運用してるとか)、派遣労働者については派遣先労働者(正社員)と同一労働・同一賃金が適用されるとのこと。非正規雇用に対する法のあり方を考える上で、参考になります。私傷病の場合の休職制度が法律上定められていて(日本では法規制なし、休職制度を作るかどうかも使用者の自由)、有期契約の場合も休職期間(それと別に産前産後・育児休業期間も)中に雇用期間の末日が到来するときは雇用期間が延長され、しかも休職期間は使用者が一定割合の賃金を支払い続ける必要がある(日本では賃金を支払うかどうかも使用者の自由で大半の企業は支払わない)、休職期間満了時に業務に堪えない場合でも使用者が別途手配した他の業務もできない場合でないと解雇できない(日本では、規定がなく裁判所の判例で補われている部分)というのも、労働者保護あるいは労働者への福利厚生の考え方について考えさせられます。
 残業は、労働者及び労働組合と協議をした上で、原則として1日1時間まで、特別な原因により必要なときでも1日あたり3時間まで、1か月あたり36時間までしか認められない(割増賃金は時間外150%、休日200%、法定祝日300%だとか)そうです。「働き方改革」と称して長時間労働を抑制するなどと言いながら、残業制限のラインは月100時間(未満)とゆるゆる(というか、過労死ライン)の上、残業代不払いで働かせ放題となる「裁量労働制」「高度プロフェッショナル」なんとやらを拡大しようと画策している此方の政府のありようと比べると頭がクラクラします。
 解雇は法律で定めた事由がないとできず、労働者に責任がある一定の事由(試用期間中に採用条件を満たしていないことが証明された場合、使用者の規則制度に著しく違反した場合、著しい職務怠慢・不正行為により使用者に重大な損害を与えた場合、労働者が同時に他の使用者との労働関係を確立し本使用者の業務任務の完成に甚だしい影響を与えたかまたは使用者が指摘しても是正を拒否した場合、詐欺・脅迫の手段または危機に乗じて真意に背く状況下において使用者に労働契約を締結または変更させ労働契約が無効とされた場合、法により刑事責任を追及された場合)による解雇以外の解雇や雇い止め、退職勧奨による合意退職、使用者側の責任がある自由による労働者側からの退職に際して、使用者は経済補償金(勤続1年あたり賃金1か月分。最大12か月分)を支払わなければならず、解雇が違法の場合経済補償金は2倍になるのそうです。言ってみれば退職金が、日本と異なり(日本は退職金制度を作るかどうか自体使用者の自由)法律上義務づけられていて、違法解雇の場合はそれが倍になるということです。
 使用者が、退職した労働者に対して競業避止義務(同業他社に就職しない)を課す場合、それができる労働者が限定され、期間が最大2年と制限されている上、使用者はその期間中賃金の30%をめどとする補償金を支払う義務があるというのも、1つのあり方として興味深く思えます。
 外国の法制度は、私のような国内専業の弁護士にとって直接には業務に関係なく勉強する機会もないのですが、日本の現行制度が唯一のまた動かしがたい制度ではないことを再認識させてくれ、こういう本の読書はよい刺激になります。


五十嵐充、包香玉 日本法令 2017年10月10日発行
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わたしたちは銀のフォークと薬を手にして

2018-02-27 02:05:17 | 小説
 三十路を迎えた藤島知世が、業務上知り合った年配バツイチでHIV感染者のWEB制作者椎名と、戸惑いながら恋に落ちる様子を、知世の女友達3人組、そりが合わない妹などを交えながら綴る短編連作小説。
 最初の方、雑誌連載らしく説明がダブルのを、単行本にするとき直さないかなぁと感じつつ、あくまでも知世側から見る椎名の年下女性に対するもの+HIVを抱えた引け目と困惑を抱えながらの大人ぶり・包容力を心地よく味わいながら、知世の心がほどけてゆく様に引き込まれていくところ、やはり巧いと思う。HIV感染者の現実がそうなのかは、よくわからないけれど。
 「大人になるって、この人を好きになるとは思わなかったっていう恋愛が始まることかもしれない。」という3編目「雨の映画館、焼き鳥、手をつなぐ」の書き出し(24ページ)、地味に夢を持たせてくれて、いい感じ。「世界が暮れなずむ。なぜか、絶望みたいだ、と思った。なにも欠けたものがない。ゆるぎなく、無理もなく、満たされて、だけど私たちは確実にいつか死んでいく。それを自然と想像できるくらいに幸福だと気づき、希望とはなにか足りないときに抱くものなのだと悟った。暖かな胸の中で、純度の高い絶望が揺れていた。」という最終編での記述(230ページ)は、あまりに観念的でついて行けないけれど。


島本理生 幻冬舎 2017年6月10日発行
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裁判の原点 社会を動かす法学入門

2018-02-26 19:41:10 | 人文・社会科学系
 「裁判は正義の実現手段ではない」という挑発的な(目立ちたがりの)テーゼを掲げ、裁判の現実の姿は一般人が認識しているところとは違うと指摘し、裁判に(本来は)何を期待すべきなのか、「裁判が本来そのようなものであることを予定されている姿、いわば裁判の原点を確認する」と主張する本。
 裁判の現実が一般の方が認識しているものと違うということは、私自身もサイトであれこれ論じているのですが、そういう指摘は、裁判の実情をきちんと認識してそれを伝えること、そのことに責任感を持って行うことが、前提となると思います。
 この本は、端的に言えば、議員定数訴訟を始めいわゆる政策形成訴訟など自己満足だと、人権派・社会派弁護士などを揶揄し貶め、そういった裁判で国の政策を違法とする判決を書く裁判所に対しては、選挙で選ばれた民主的基盤を持つ政権(内閣と国会)が、特に最近は立法も迅速に対応してよくやっているのだから、民主的基盤もない実力不足の司法がそれを妨害するな、と現政権に都合のいい主張をすることを目的として、それに合わせた事例を並べて「論」を構成したものと、私には見えます。
 「日本の裁判所は消極的ではない」と論じている部分(第2章)。通常、司法消極主義・積極主義は政治権力との緊張関係で論じられるもので、過払い金返還請求(利息制限法の条文の事実上の無効化)や解雇権濫用、中古ゲーム転売と著作権で、法律の明文規定と異なったり明文規定がないところに新たな基準を作るような判例法理を展開しても、それ故に司法消極主義じゃないなんて議論は、議論のはぐらかし、素人相手の目くらまし、言葉の遊び、を超えた意味があるとは思えません。
 そういう議論をするのにも、そもそもこの法学者は、労働法を理解して論じているのか、とても心許ない。この本を読んでいると、解雇権濫用法理は整理解雇(経営不振を理由とする解雇)についてのみの法理のようにさえ見えます(47ページ)。整理解雇の要件をめぐる議論と判例法理は、解雇権濫用の法理のごく一部に過ぎず、整理解雇以外の普通解雇や懲戒解雇にも解雇権濫用法理は、当然適用されます。また利息制限法の適用でも、返済によって残元金の額が減少すると制限利率が上昇する(50ページ)という、裁判実務ではあり得ない「解説」をしています。実務を知らないんだか、一部の強欲で無謀な主張をし続ける消費者金融に賛同しているんだか(52~55ページの書きぶりでは、過払い金の返還請求を認めた最高裁判決後、消費者金融に有利なように一定の条件を満たせば利息制限法を超える高利をとれるよう法改正した与党・国会ではなく、その改正法を再度骨抜きにする判決を出した裁判所の方に批判的ですから、著者は消費者金融・高利貸しに有利な法解釈がお好きなのかもしれません)わかりませんが、これははっきり間違いです。
 一般人が認識していない裁判の制約として、著者は、「民事裁判においてはこの制約はより厳格で、あくまで当事者の主張を、当事者が提出した証拠に基づいて・判断しなくてはなりません(当事者主義)。仮に一方当事者の提出した証拠が捏造されたものだということを裁判官個人が偶然知っていたとしても、他方当事者がその旨を主張しない限り、それを判断の根拠に含めてはいけないのです。」(37ページ)と述べています。こういうところは目について売り文句になりやすいようで、読売新聞の書評(2018年2月19日)もその部分を(言葉は少し変えて)採り上げています。弁護士の目には、「えっ、いくらなんでも」と映ります。理論的にいっても、弁論主義・処分権主義で当事者が主張しない限り認定できないのは「主要事実」(法律の適用の要件となるような事実:例えばこういう内容の契約をしたとか)であって、ここで挙げられている証拠の信用性についての評価は対象となりません。主張されている事実を認定できるかどうかの部分では「自由心証主義」が当てはまり(民事訴訟法247条)、証拠評価(捏造された証拠で信用できない)は当事者の主張に拘束されない上、判決でも特定の証拠が信用できない理由を示す必要もないので、著者が示すような場合に、捏造された(とわかる)証拠を排斥するのに実務上何の障害もありません。それなのに何かそういうことがあると裁判所は正しい判断ができないかのような一般読者に誤解を与える書きぶりを、「法学者」というプロに見える肩書きでされると、たいへん困惑します(迷惑です)。


大屋雄裕 河出ブックス 2018年1月30日発行
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