伊東良徳の超乱読読書日記

読んだ本の感想を中心に本に対するコメントを書き散らします。読み終わった本は図書館に返すのでフォローは保証できません。

裁判の原点 社会を動かす法学入門

2018-02-26 19:41:10 | 人文・社会科学系
 「裁判は正義の実現手段ではない」という挑発的な(目立ちたがりの)テーゼを掲げ、裁判の現実の姿は一般人が認識しているところとは違うと指摘し、裁判に(本来は)何を期待すべきなのか、「裁判が本来そのようなものであることを予定されている姿、いわば裁判の原点を確認する」と主張する本。
 裁判の現実が一般の方が認識しているものと違うということは、私自身もサイトであれこれ論じているのですが、そういう指摘は、裁判の実情をきちんと認識してそれを伝えること、そのことに責任感を持って行うことが、前提となると思います。
 この本は、端的に言えば、議員定数訴訟を始めいわゆる政策形成訴訟など自己満足だと、人権派・社会派弁護士などを揶揄し貶め、そういった裁判で国の政策を違法とする判決を書く裁判所に対しては、選挙で選ばれた民主的基盤を持つ政権(内閣と国会)が、特に最近は立法も迅速に対応してよくやっているのだから、民主的基盤もない実力不足の司法がそれを妨害するな、と現政権に都合のいい主張をすることを目的として、それに合わせた事例を並べて「論」を構成したものと、私には見えます。
 「日本の裁判所は消極的ではない」と論じている部分(第2章)。通常、司法消極主義・積極主義は政治権力との緊張関係で論じられるもので、過払い金返還請求(利息制限法の条文の事実上の無効化)や解雇権濫用、中古ゲーム転売と著作権で、法律の明文規定と異なったり明文規定がないところに新たな基準を作るような判例法理を展開しても、それ故に司法消極主義じゃないなんて議論は、議論のはぐらかし、素人相手の目くらまし、言葉の遊び、を超えた意味があるとは思えません。
 そういう議論をするのにも、そもそもこの法学者は、労働法を理解して論じているのか、とても心許ない。この本を読んでいると、解雇権濫用法理は整理解雇(経営不振を理由とする解雇)についてのみの法理のようにさえ見えます(47ページ)。整理解雇の要件をめぐる議論と判例法理は、解雇権濫用の法理のごく一部に過ぎず、整理解雇以外の普通解雇や懲戒解雇にも解雇権濫用法理は、当然適用されます。また利息制限法の適用でも、返済によって残元金の額が減少すると制限利率が上昇する(50ページ)という、裁判実務ではあり得ない「解説」をしています。実務を知らないんだか、一部の強欲で無謀な主張をし続ける消費者金融に賛同しているんだか(52~55ページの書きぶりでは、過払い金の返還請求を認めた最高裁判決後、消費者金融に有利なように一定の条件を満たせば利息制限法を超える高利をとれるよう法改正した与党・国会ではなく、その改正法を再度骨抜きにする判決を出した裁判所の方に批判的ですから、著者は消費者金融・高利貸しに有利な法解釈がお好きなのかもしれません)わかりませんが、これははっきり間違いです。
 一般人が認識していない裁判の制約として、著者は、「民事裁判においてはこの制約はより厳格で、あくまで当事者の主張を、当事者が提出した証拠に基づいて・判断しなくてはなりません(当事者主義)。仮に一方当事者の提出した証拠が捏造されたものだということを裁判官個人が偶然知っていたとしても、他方当事者がその旨を主張しない限り、それを判断の根拠に含めてはいけないのです。」(37ページ)と述べています。こういうところは目について売り文句になりやすいようで、読売新聞の書評(2018年2月19日)もその部分を(言葉は少し変えて)採り上げています。弁護士の目には、「えっ、いくらなんでも」と映ります。理論的にいっても、弁論主義・処分権主義で当事者が主張しない限り認定できないのは「主要事実」(法律の適用の要件となるような事実:例えばこういう内容の契約をしたとか)であって、ここで挙げられている証拠の信用性についての評価は対象となりません。主張されている事実を認定できるかどうかの部分では「自由心証主義」が当てはまり(民事訴訟法247条)、証拠評価(捏造された証拠で信用できない)は当事者の主張に拘束されない上、判決でも特定の証拠が信用できない理由を示す必要もないので、著者が示すような場合に、捏造された(とわかる)証拠を排斥するのに実務上何の障害もありません。それなのに何かそういうことがあると裁判所は正しい判断ができないかのような一般読者に誤解を与える書きぶりを、「法学者」というプロに見える肩書きでされると、たいへん困惑します(迷惑です)。


大屋雄裕 河出ブックス 2018年1月30日発行
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講座労働法の再生3 労働条件論の課題

2017-11-12 20:15:53 | 人文・社会科学系
 日本労働法学会が労働法学の理論的到達点を示すとして出版した「講座」シリーズ(「労働法講座」1956~1959年、「新労働法講座」1966~1967年、「現代労働法講座」1980~1985年、「講座21世紀の労働法」2000年)の第5弾「講座労働法の再生」の第3巻。「賃金」「労働時間」「労災」の3分野13本の論文で構成されています。
 学者の分担執筆で、それぞれの関心に応じて、専ら政策論・立法論を語るもの、裁判例を分析して実務の現状を語るもの、その論や裁判例のリサーチ・分析の精度も様々です。
 どちらかというと学者さんが書いたもの、それも分担執筆のものは弁護士の実務にあまり役立たないし、読み物としても今ひとつと思って避けてきたのですが、現在、私が最終編集責任者の第二東京弁護士会労働問題委員会編の「労働事件ハンドブック」の3年ぶりの全面改訂作業中なので、新しい本でもあり視点を変えてヒントを得ようと読んでみましたところ、特に第4章の「企業年金」と第8章の「多元的な労働時間規制」(変形労働時間制等)で、私自身が現実の裁判では経験していない問題について多数の裁判例がありそれが分析・整理されていて、刺激になりました(ハンドブックの編集で参考にさせてもらいました)。
 学者さんの論文も、あまり食わず嫌いしないで読もうかなと、思えました。まぁ業界人以外にはハードルが高いかなと思いますが。


日本労働法学会編 日本評論社 2017年6月10日発行
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これを知らずに働けますか? 学生と考える、労働問題ソボクな疑問30

2017-08-14 22:54:35 | 人文・社会科学系
 元朝日新聞記者の著者が大学教授として授業をする中で、学生の労働問題に関する認識のなさ加減に驚き、学生のトンデモ質問に対してどこが間違っているかを講義した講義録を元に働く人を守る基礎知識を解説した本。
 まず挙げられている学生の質問(「ソボクな疑問」)が、あまりにも経営者側、それもかなり原始的で強欲な経営者目線の感覚であることに驚きます。こういう感覚がどのように教育され形成されてきたのかに興味を持ちますが、こういうことだから、大半が労働者(勤労者)である若者層が労働者の敵(経済界の代弁者:表面的にはそれが労働者のためにもなるかのように述べることもままあるのですが)の政治家に投票するという自分の首を絞める投票行動が広くなされているのだと、悲しいことですが、理解できます。
 著者の解説は、労働者側(日本労働弁護団の多くの弁護士より徹底した労働者側)の弁護士である私の目からは、経営者側への遠慮が感じられますが、概ね妥当に思えますし、わかりやすく説明されていると思います。学生向けのワークルールの解説として読みやすい本だと評価できるでしょう。
 ただ、私の専門分野ですので見過ごすわけにも行かず、不正確に思える点を少し指摘しておきます。
 懲戒解雇の(有効)要件を「①就業規則に何が懲戒の対象になるのかを、合理的に定めており、②それが周知されており、③処分が正当な手続にもとづいており、④処分内容が似たような例と比べて過度に重いなど平等性を欠いていないこと」としています(194ページ)が、実務上、懲戒解雇が無効とされ労働者が勝訴するケースの多くは、具体的事情の下で解雇理由とされたことが解雇するほど重大でない(解雇が相当でない)と評価された場合です(他の事例との比較・平等性ではなく、当該事例での事実の重大性と処分の重さの比例・均衡の問題)。著者の説明では、実務上一番重要な要件を説明できていないことになり、懲戒解雇が有効となる場合を裁判実務より大幅に拡げて見せてしまいます。
 「対価型セクハラ」の定義で、上司等が部下等に性的な関係を迫り「それに従えばプラスの評価(昇進など)」の場合を含めています(174ページ)。著者はアメリカのセクシュアル・ハラスメントの取材・研究の経験が深いのだと思いますが、この点は、アメリカで発展したセクシュアル・ハラスメントの概念を日本に導入したときの混乱の残滓です。アメリカでは、公民権法第7編(Title7)の差別禁止規定を根拠としてセクシュアル・ハラスメントに関する訴訟が提起されてきた、つまり「差別」だから違法とされてきました。だから、「利益」を与えても「不利益」を与えてもいずれも差別として問題になるわけです。これに対して、日本では、最初のセクハラ裁判とされた福岡セクハラ訴訟で人格権(性的自己決定権)侵害の不法行為としてセクシュアル・ハラスメントの違法性が構成され、認められました。その後の裁判等でも同様で(安全配慮義務違反:債務不履行の構成が取られることはあっても)差別だから違法だという構成はとられていません。その法律構成では、(そもそも「対価型」と「環境型」を分ける実益もないのですが)どう頑張っても「利益」を与えたときは人格権侵害になりようがありません。その後均等法が使用者のセクシュアル・ハラスメント防止義務(11条)を定めた際にセクシュアル・ハラスメントの定義を対価型と環境型に分類しましたが、その際、対価型の方は「職場において行われる性的な言動に対するその雇用する労働者の対応により当該労働者がその労働条件につき不利益を受け」として、「利益」を与える場合は除外しています。ということで、日本でのセクシュアル・ハラスメントを議論する限り、「対価型」の定義を論じる際、「利益」を与える場合は判例上も法令上も含まれません。


竹信三恵子 ちくまプリマー新書 2017年7月10日発行
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医療者が語る答えなき世界 「いのちの守り人」の人類学

2017-08-02 20:40:10 | 人文・社会科学系
 入院患者に対する管理、高齢者に対する(ベッド)拘束、手術室にまつわるルールとその合理性、ワルファリンやDOACなどの抗凝固薬の薬効・副作用と医師によるコントロール(処方の微調整)の是非、根拠に基づく医療(Evidence - Based Medicine)と漢方、治すことと患者の意思・選択、認知症の意固地な人の在宅復帰、失語症とリハビリという8つのテーマを題材に、医療者が何を考え悩んでいるかをインタビュー等によって描いた本。
 医療者側の都合で患者を機械・材料のように扱うこと、患者の納得や選択よりも「治す」ことを優先する医療への疑問を、それに疑問・迷いを持つ医療者の言葉から浮かび上がらせようとしています。患者を人間として扱えという話を、患者・家族・遺族側からするのではなくて、心ある医療従事者側の自戒・心情で語る点にポイントがあるわけですが、他方で、そんなことを言っていたらとても(他の患者のケアも含めて)仕事が回らず、医療従事者が過労で倒れるだけという怨嗟の念を持つ者も多数いると思います。そのあたりの困難さを考える素材としてはいいかなと思います。
 ただ、血液をさらさらにする薬のDOACに「直接経口凝固薬」って振ったり(93ページ:血液をさらさらにするんだから「凝固薬」じゃなくて、「抗凝固薬」でしょ)、EBMについて Evidenced Based Medicine とか(110ページ)、ちゃんとわかって書いてるのか不安になります。医療の分野じゃないけど、181ページの賃貸マンションの例では「賃借人」と「賃貸人」逆だと思いますし・・・


磯野真穂 ちくま新書 2017年6月10日発行
 
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ダ・ヴィンチ絵画の謎

2017-07-12 23:57:28 | 人文・社会科学系
 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画のうち、「モナリザ」と「聖アンナと聖母子と子羊」を中心にレオナルドの意図等を、レオナルドが残した膨大なメモ類からレオナルドの自然観・地球観・絵画観などを読み取ってそこから論じた本。
 レオナルドの父親が公証人で様々な裕福な宗教団体の代理人を務めていたため大口の注文があったがレオナルドが悪戦苦闘した挙げ句にすべてを未完成のまま放棄し、債務不履行のため信用を失い、フィレンツェを離れミラノに移住した(51~54ページ)、ミラノでも契約通りに完成できず何年も放置して訴えられた(59ページ)、「南半球の水の重さが大地を押しているので、北半球のユーラシア大陸とアフリカ大陸が海面から突出したと考えている」(73ページ)などの説明は、天才・偉人のレオナルド像を見直させるもので興味深く思いました。
 大地の隆起(それ自体は、現在は、プレート・テクトニクス、ホットプルームによる造山運動として理論づけられるわけではありますが)についてのレオナルドの考えから、「モナリザ」「聖アンナと聖母子と子羊」の背景、特に遠景の切り立った岩山、その崩落、川の流れなどとのつながりはいえるのでしょうけれども、そこに示された意図については、著者も必ずしもすっきり説明できていないように感じられますし、「モナリザ」の制作経緯に関する推理はロベルト・ザッペリの仮説(155ページ~)に依拠しているので、著者が見事に謎を解いてくれたという読後感を持ちにくいのが哀しい。


斎藤泰弘 中公新書 2017年3月25日発行
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日中漂流 グローバル・パワーはどこへ向かうか

2017-06-18 17:58:32 | 人文・社会科学系
 日中国交正常化(1972年)から40年あまりが過ぎ、友好関係から険悪な力による対抗へと変化した日中関係を分析し、今後の日中関係について提言する本。
 近年、中国との関係は(北朝鮮との関係もそうですが)いつの間にここまで悪化してしまったのだろうと、改めて思うことが多くなりました。
 この本では、中国側の事情については、日中国交正常化交渉に当たり中国政府側は台湾問題(「1つの中国」)での成果(日本政府が中華人民共和国を中国の唯一の正統な政権と認め、中華民国/台湾の政権を承認しない)をとるために、ごく少数の軍国主義者と犠牲になった一般国民を分け日本人民は中国人民と同じ被害者と位置づける「二分論」をとり、賠償請求権を放棄したが、中国の大国化に伴い若者や中間層に排外主義的民族主義意識が広がり、権力基盤の不安定という情勢の下ポピュリズム的な民族主義が力を得、インターネットと携帯電話という新たな情報手段で飛躍的に増幅した、それが1990年代半ばと2010年頃に顕著になったと分析しています。
 米中関係では国交正常化(1979年)以降様々な領域における政府間の大小のチャネル(定期協議の場)が設けられており、2006年以降毎年大規模でハイレベルの定期協議(戦略経済対話:S&ED=外相もしくは副首相級等)が開催され、関係が「制度化」されており、ソ連崩壊後のロシアとの関係でも同様の定期協議が続いているのに対し、日本とは、首脳間の個人的な関係が重視されがちで定期協議(日中総合政策対話)は2005年にスタートし2012年までは続けられたがその後途絶えていると説明されています。考えてみれば、アメリカと中国は、朝鮮戦争で1950年代に直接戦った間柄で、それでも閣僚をはじめ多段階の定期協議が継続されているのに、戦闘がそれ以前の日本と中国が尖閣諸島をめぐる対立があるというだけで定期協議もできないというのは哀しい/大人げない話だと思います。中国の外交政策は利益を第一に追求するので、領土がネックになって日中経済関係が停頓しそれが国内経済に強いマイナス影響をもたらせば原理を引っ込めて実利へと舵を切ることはあり得るが、日本の対中外交は一貫性を重視するので中国外交と違って日本は豹変できないと指摘されています(106ページ)。
 外交(継続的な関係がある/関係を絶てない相手との交渉)では、冷静さと寛容さが大事だと思いますし、隣国が「外敵」と強調されるのはきちんとした内政ができない独裁的政治家が権力の座にある時だというのが歴史の教えるところだと思うのですが。


毛里和子 岩波新書 2017年4月20日発行
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読んで楽しむ百人一首

2017-06-06 23:37:37 | 人文・社会科学系
 百人一首の各首について、歌の出自、他の歌との関係(本歌取り、類歌)、言い回しの先例、詠み手の運命、当該歌の背景などを解説した本。
 京都新聞での連載50回に加筆して出版したとされています(あとがき)。当然に対で紹介されたはずの平兼盛「忍れど色に出でにけりわが恋はものや思うとひとの問ふまで」と壬生忠見「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」の天徳歌合コンビ。平兼盛の方の記事では「まず左方から忠見の『恋すてふ』が詠みあげられました。当の忠見は秀歌ができたと思って、自らの勝ちを信じていたようです。続いて右方の兼盛の『忍れど』が詠みあげられると、忠見は思わずドキッとします。」(117~118ページ)と、壬生忠見が天徳歌合の会場にいたという前提で書かれています。ところがその続きの忠見の方の記事では、「誤解されているようですが、歌合の場に必ずしも作者本人がいるわけではありません。和歌は講師によって詠みあげられるので、本人は不要なのです」(119ページ)、「なお肝心の兼盛と忠見ですが、二人は身分が低かったので、内裏歌合には参加していないというか参加できなかった可能性が高いようです」(121ページ)とされています。書いた時期がずれている(後日加筆)としても、それくらい調整して欲しい。猿丸太夫「奥山に紅葉ふみ分けなく鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」では、現代語訳(意味)は「奥深い山に紅葉を踏み分けてやって来て、鹿の鳴き声を耳にすると、秋の悲しさが身に染みて感じられます」(27ページ)としています。これだと、紅葉を踏み分けたのは詠み手(人)で、この歌は「紅葉ふみ分け」と「なく鹿」の間で切れることになります。私は「紅葉ふみ分け」は「鹿」にかかると考えていたので、えっと思ったのですが、著者は、記事の中では、この歌が菅原道真の「新撰万葉集」では紅葉ではなく黄葉と表記され「古今集」では初秋に配列されていることから、百人一首以前は「萩」と鹿の組み合わせだったとした上で、百人一首では秋の紅葉に読み替えられているという説明をして「なお萩の場合は落葉しませんから、鹿の踏み分け方も自ずから異なることになります」(29ページ)と、踏み分けたのは鹿だという前提で書いています (-_-;)
 光孝天皇「君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ」の君って、光孝天皇を即位させた時の実力者関白「藤原基経のことを指していると解釈できます」(57ページ)だそうな。思い人かと思っていたのですが、興ざめするというか人生の悲哀を感じます。
 ついでにもう一首の「君がため」「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」の藤原義孝、21歳で死んじゃったんですね(138ページ)。人生は儚い・・・


吉海直人 角川書店 2017年4月28日発行
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情報倫理 技術・プライバシー・著作権

2017-06-04 23:25:44 | 人文・社会科学系
 近年の情報技術やインターネットとそれに伴うプライバシー、著作権保護のあるべき姿などについて、論じたエッセイ(小論文?)集。
 みすず書房の本にしては、「軽い」本です。第5章以外は「月刊みすず」連載の時事評論的な文章を出版したものでテーマと書きぶりに軽さが感じられ、著者のスタンスも時事のテーマについて鋭く論ずるというよりは困惑と懸念を示し折衷的な対処を示唆するものが多いことから(憂鬱な雰囲気があるものはありますが)重厚な印象がなく、そして紙質の選択のためと思われますが500ページを軽く超える厚さの割に軽くて持ち運びが容易です。
 おそらくは連載時にテーマを絞っていなかったのを単行本化するに当たり分類して章立てしたためでしょうけど、後半に行くほど、章のタイトルに無理がある感じがして、読後感は今ひとつです。連載時以後の事情の変化等について丁寧にフォローして本文の加筆や注記をしている点は好感が持てますが。
 著者の姿勢は、国家による情報統制・規制については慎重に、一私企業が情報のインフラを独占することには危惧感があり、著作権は当然の権利ではなくその保護の範囲は政策的な判断が必要で現在の保護は業界団体の圧力の影響を受けフェアユースを損ねているように思われる、というようなところにあるようですが、いろいろと気配りをするせいか歯がゆさが残ります。
 権力者の行為に対しては、明確な批判がなされない印象を持ちましたが、攻撃からデータを守るために「ウィキリークスは、スイスのドメインを取得するとともに、憲法で定められた通信の秘密を厳格に守るとするスウェーデンの企業にデータを預けた」ということを「国境を越えてデータを移動させることで、情報の自由を守る点では、タックスヘイブンを利用して、自ら居所を転々と変えて資産を守る富裕層と似ている」(425ページ)と、権力に対抗するウィキリークスを不正な経済的利益を得るための多国籍企業の行動になぞらえるというセンスには驚きました。


大谷卓史 みすず書房 2017年5月1日発行
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知のスクランブル 文理的思考の挑戦

2017-05-28 00:42:29 | 人文・社会科学系
 日本大学文理学部を構成する人文系6学科(哲学、史学、国文学、中国語中国文化学、英文学、ドイツ文学)、社会系6学科(社会学、社会福祉学、教育学、体育学、心理学、地理学)、理学系6学科(地球科学、数学、情報科学、物理学、生命科学、化学)から各1人の教員が書いた文章を並べ、「この現実世界は、大学や学問分類によって切り取りやすくはできていない」「そこでは、文系・理系の区別も、どちらが役に立つかで評価されることもない。それぞれの学問領域から見える世界の違いをふまえつつ、世界を生きぬくための多様な知恵を身につける--それを文理的思考と呼びたい。」「本書は、この18学科で活躍している教員18名の知を結集したものである。それぞれ18の学問領域の専門的なトピックをわかりやすく説明し、研究の最先端の一部を紹介している。」(はじめに:10~11ページ)とする本。
 大仰な紹介とタイトルですが、実質は様々な学問分野の教員が各パートの関連性も特に考えず統一テーマもなく(あるとすれば、学生向けに自分の研究分野をアピールする、くらいでしょう)書いた文章を配列も全く工夫せず羅列したという、作る側にはお手軽な出版物で、通し読みしても、個別の読者の関心で引っかかるものは出てくるでしょうけれども(なんせ18ものバラバラの領域ですから、いくつかは関心がある領域があるはず)、1冊の本全体としては、いろいろな研究領域がありいろいろな教員(読者がわかりやすいように努力した跡がある人も、衒学趣味的な専門/特殊用語を並べて煙に巻こうとしている人も・・・)がいるのねという程度にとどまる感じがします。
 はじめにで「哲学研究の第一人者・永井均が自分の存在を追求し」(11ページ)と紹介されている「第1講 自分とは何か--存在の孤独な祝祭」では、前段で自分を識別する基準は何かと問い、「その体をくすぐられると実際にくすぐったく、その人の人生の苦しみが実際に苦しく、その人の思い出すことが実際に思い出される人」という基準を立て(24ページ)た上で「ここから1頁ほどの記述は少々高度な問題に触れている」などとした挙げ句、「だれもがこの基準を使って自分を他人たちから識別しており、それでうまくいっているのだとすると、だれもがこの基準を満たしてることになる。だれもがこの基準を満たしているのだとすると、そのだれもたちのうちから、あなたはどうやって自分を識別できているのだろうか。」(25ページ)と問うています。前段でした基準作りが観察者・判断者=知覚・感情・記憶の主体である場合が自分、観察者・判断者にとって知覚・認識の客体であるだけで主体でない場合が他人という、個別の観察者・判断者を前提とし基準としたものであったのに、後半ではそれを捨象ないし超越した(個別の観察者・判断者を前提としない)立場での問いかけをするというのでは、問題の立て方の次元が違います。そのように問いかけるのであれば、基準作りの時点で、観察者・判断者に依存しない、指紋とか、顔(顔認証システムが十分に個人を識別できるのであれば・・・)、DNAなどの客観的な識別指標を用いるべきでしょう。こういう議論は、哲学では、「アキレスは亀に追いつけない」などの「詭弁」の1つとして紹介すべきではないかと思います。他の専門分野との総合、編集する力をいうのなら、ニュートン力学の絶対時間・絶対空間などの概念に対し、観察者という視点を持ち込んだことで相対性理論へと議論が進んだ、観察者という視点を持つか捨象するかでパラダイムが変わる、くらいのことも指摘するべきなんじゃないでしょうか。


日本大学文理学部編 ちくま新書 2017年2月10日発行
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ニッポンが変わる、女が変える

2017-05-10 00:13:14 | 人文・社会科学系
 福島原発事故前は、原発については「これは触れないでおこう」と戦略的に黙っていた(14ページ)という著者が、原発再稼働に向かう政権への危惧、特に橋下維新の勢力拡大とその後の総選挙での安倍政権の成立・暴走に対する危機意識/絶望を背景に、各界の先行者と著者が評価する女性たちと、3.11後の日本社会のあり方を語る対談集。「婦人公論」2012年4月号から2013年3月号までの連載のため、前半は、民主党政権のだめさ加減と橋下維新のポピュリズムへの危機感、後半は原発推進戦犯の政権復帰と安倍政権への危機感が表れています。2013年10月の単行本出版から3年余を経て出版された文庫本では、12名のうち8名から「文庫化に寄せて」が寄稿され、その後の状況に対するフォローと感想が記されていて、そこも対談者の思いが表れていて感慨深い。
 第8章の歴史学者の加藤陽子さんとの対談では、畑村洋太郎東京大学名誉教授の失敗学も今回は難しかったはずですとして、政府事故調の報告書でも「電源喪失が地震段階なのか、津波段階なのかという点も不明のまま。」、(上野)「事故が引き起こされた原因についての解明も、できていませんね。」、(加藤)「国会事故調では、津波の前の地震段階ですでに電源喪失していたとの判断をしています。」(149ページ)と論じていただいたのは、その部分を担当した国会事故調協力調査員としてはうれしく思います。
 今後の日本のあり方について、縮小経済に見合った社会、肩の力を抜いて排除することのない上手な分かち合いをする「老いらく社会」(138~140ページ。第7章:経済学者の浜矩子さん)、「人口と地面の大きさに見合うくらいの小さな国になる」「こぢんまりとした、しかしよその国が『あの国はいいな』というような国。競争に負けても、最後には『やっぱりあなたたちが正しい』と言われる国になれればいい」(235ページ。第11章:ノンフィクション作家の澤地久枝さん)というのが、心に染みました。


上野千鶴子 中公文庫 2016年12月25日発行(単行本は2013年10月)
 
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