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御坂峠・勝頼の北条夫人

2015-08-29 | 気まま旅

「御坂峠」ー国道137号線ー
山梨県南都留郡富士河口湖町ー笛吹市にまたがる峠。(鎌倉往還御坂路・御坂の名は日本武尊が東国遠征の際に越えたことに由来)
富士吉田側と甲府盆地側にまたがる御坂山地の御坂山(1596m)と黒岳 (1793m) との中間付近に存在する (1520m) 。
御坂トンネル開通までは、富士吉田側と甲府盆地側の行き来は徒歩により御坂峠を越えなければならなかった。
1931年の昭和6年、御坂隧道(延長396m)を含む旧・国道8号(現在の国道20号)が開通、後に御坂トンネルを通り甲府と富士吉田を結ぶ路線バスも運行。
昭和27年、新道路法制定に伴い旧・国道8号が国道20号に変更された際に御坂峠越えから笹子峠(大月市・甲州市)越えにルート変更
昭和28年、国道137号指定。
御坂峠の呼称は、御坂隧道の富士吉田側入り口地点(標高1300m)付近を指すようになり、古道の峠を「旧御坂峠」、御坂隧道の峠を「新御坂峠」と分けて呼称する場合も。
1994年の平成6年に、御坂トンネル有料道路が無料に、
1967年(昭和42年)に旧御坂峠のほぼ直下の標高1000m付近を貫く形で新御坂隧道が開通され、延長は2778m。

「御坂峠と文学・美術」-葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州三坂水面」-
           - 歌川広重「富士三十六景 甲斐御坂越」ー



江戸時代後期には浮世絵師の葛飾北斎が御坂峠から見える富士山を描いている。
1830年、から1834年、刊行、「冨嶽三十六景」では甲斐の裏富士を描いた作品が六作あるが、そのうちのひとつ「甲州三坂水面」では御坂峠から河口湖に映る逆さ富士が描かれている。(実景としては逆さ富士は御坂峠から見ることが出来ない)
「甲州三坂水面」では実景として描かれる富士は夏山なのに対し、湖面に映る逆さ富士は冠雪した冬の山として描かれている。
北斎没後の1849年、刊行、「北斎漫画 第十三編 無題(甲州三坂水面)」においても同様の御坂峠から望んだ逆さ富士が描かれている。
同じく浮世絵師の歌川広重は、1858年、に刊行、「富士三十六景」において御坂峠から見える河口湖と富士が描かれている(逆さ富士は描かれていない。広重は、1841年に甲斐を訪れ「甲州日記」に甲斐名所のスケッチを残してるが、御坂峠を訪ねた記録は見られないと云う。 

           -作家の井伏鱒二と太宰治ー
御坂隧道の富士河口湖町側入口横にある天下茶屋に滞在して執筆活動をしている。
茶屋付近には太宰の作品「富嶽百景」にある「富士には月見草がよく似合ふ」の一節を記した文学碑が。



「ヤマトタケルノミコトが越えたことから「ミサカ・御坂」と呼ばれるように。
御坂路ー関西と甲斐を結ぶ主要道路として使用さている。
武田の軍勢の甲斐源氏もこの道を通り、御坂の山を越えていった。



「鎌倉古道御坂道の峠」
戦国時代に山城が築かれていたと云う。
天正10年(武田家が滅んだ年)の記述に御坂城で戦があったとの記載ある。
調査の結果峠の鞍部を中心にやや西側に多くの城郭遺構が見られると云う。ー富嶽旧御坂峠ー


御坂黒岳,ー御坂山塊の最高点ー
旧鎌倉往還の藤ノ木から石畳の残る道を上がると御坂峠、目の前に河口湖、富士山を見る、甲斐富士見三景の1つになる。
往古、日本武尊はここを越えて甲州に入ったと云う。
ブナ林の中の土塁は、徳川家康と北條氏政の覇権争い(黒駒の合戦、天正10年8月12日)の跡と云う。



東海道から甲府へつながる「鎌倉往還」の途中になる「御坂峠」。
富士河口湖町と笛吹市にまたがる「御坂峠」は、東海道から甲府へつながる鎌倉往還の途中。
富士山がそびえる。この眺望に旅人の心が洗われるのは今も昔と変わらないのでは、
作家、井出孫六氏は昭和57年出版「日本百名峠」でひとつに数えている。



           北条夫人辞世の句(武田勝頼の正室ですが、北条家より嫁入りしたので)
 ー黒髪の乱れたる世ぞ、果しなき、思いに消る、露の玉の緒ー

武田家と北条家の同盟の証として、嫁入り、その後、両家は仲たがいし、闘いの日々が、織田の乱入で滅亡の定めへ勝頼の「北条へ帰って、生き延びよ」との、説得に応じず勝頼の妻として、武田の女として死を選んだのでした。

北条夫人  1564-1582 北条氏康の6女? 名不明(氏康の子女で生年が判明しているのは「氏規と北条夫人のみと云う」
夫人が輿入れの際、御坂路を通って甲斐の国へ・黒駒の地主の家に一泊し、翌朝記念に松を植樹し、昭和30年まであったと云う。北条夫人は、戦国時代の強い女性であった。

「駒木戸の口留番所案内板」より。
江戸時代に駒木戸(立沢)には口留番所と呼ばれる関所があった。
甲州には二五か所の口留番所があり、信濃境・駿河境や江戸へ近い上之原などは、侍身分の役人が取締っていた。駒木戸では上番(名主)下番(平百姓)が駐在し通行手形など厳しく取り調べた。この番所は平屋茅葺で二間半・四間の建物で役務室と控え室の二部屋からなり、外周りの矢来は栗材で高さ六尺(役百八〇糎)、東側三間・西側二間で囲まれていた。
通行手形を持たない者とか不法狼藉をはたらく者に備えて、刺股・袖がらみ・突棒なども用意されていた。

鎌倉街道に沿った駒木戸の集落の東側で、金川と立沢川の交差する付近に口留番所はあったが、水害の延宝二年(一六七四)には、称願寺の前に移動したこともある。今も関所があったことから関元とか、関下などの地名が残されている。


「棒道」
武田晴信・信玄が、開発したとされている軍用道路。
八ヶ岳南麓から西麓にかけての甲信国境(甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の境)を通る。
甲斐国北西部の逸見筋(現在の北杜市域)にあたる山梨県北杜市(旧北巨摩郡小淵沢町、長坂町)や長野県富士見町には現在でも上の棒道、中の棒道、下の棒道の三筋が残されており、それぞれ市・町指定の史跡となっている。
地元では信玄棒道と呼ばれており、「棒道」の由来は、荒野にまっすぐ一本の棒のように存在していたので棒道と呼ばれるようになったとされる。
別名は大門嶺口。
           信玄の道は、信玄菩提寺、恵林寺の参道


「ほうとう」
山梨県内のほどんどの地域で古くから食べられていた郷土料理。 小麦粉を練った麺に、地元でとれた野菜や、地味噌で煮込んだ麺料理の一種。
農山漁村の郷土料理百選にも選ばれている。県は山国で水田が少なくお米の代わりによく食べられていたのが、「ほうとう」。米作に恵まれなかった
山梨県では、数十年前までは県民の主食で、特にお嫁入り前の娘さん達は、ほうとう作りの腕を磨いていたと云う。
野菜類、カボチャ、じゃが芋、里芋、白菜、ねぎ、ごぼう、にんじん、しいたけ等を入れ、食物繊維が豊富に含まれる。
カボチャの入ったほうとうは栄養価が高くて、寒い季節には身体が温まり、夏は汗が出るのを好み、涼しくなる、早く簡単に調理できる。

             武田軍は、「ほうとう」が食べられると喜ばれたと云う。


「石和温泉」温泉の出る前は田畑。
1961年の昭和36年、「いすみ荘」で温泉掘削を行った際、毎分2,000L、泉温49℃の温泉が湧出し、周辺の川や田畑に流れ出したと云う。
その後即席の露天風呂が作られ、「青空温泉」と称したのがはじまり。
その後山梨県企業局や地域内の温泉宿によって掘削が行われ現在に、都心に近く人気に。





「笛吹川」
山梨県山梨市北部の甲武信ヶ岳・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と、国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を上流部に持つ。
広瀬湖(広瀬ダム)を経て甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し、南巨摩郡富士川町で富士川(釜無川)に合流する。
流域に扇状地を多く形成している。灌漑用水を整備した果樹園は、ブドウなどの果実栽培が盛ん。



次回は恵林寺方面へ。

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