syuの日記・気まま旅

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富士山の湧水の柿田川公園 頼朝以来の三嶋大社 

2018-09-24 | 気まま旅
県東部、駿東郡清水町に入る。西に沼津・東が三島で、街中央に富士山の大小10ヶ所に自爆湧水の柿田川がある。町名も湧水に由来する。
戦国時代は泉頭・徳倉の2城が置かれ、北条と武田の激戦地になっている。
三島市の発展で清水町もその延長部分となっている。
今は、工場が多く、沼津の卸商団地、徳倉団地とベッドタウン化している。 

「白隠の遺墨」が、白隠慧鶴は江戸時代中期に、“駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠”と言われ、分かりやすい禅画や和讃の形式で民衆の教化に努めた臨済宗中興の祖と称えられる高僧。
玉井寺に残された白隠の遺墨は三界萬霊等二点と山号・金龍山及び寺号・玉井寺等であり、いずれも雄渾にして気魄のある肉太の筆跡で大変貴重である。(数か月前渋谷文化村で白隠の水墨画の展示を掲載した。沼津-吉原の中間原町を予定しています)

    

金龍山「玉井禅寺」禅画、東海道田子の浦「白隠禅師」の関係寺という。

達磨の禅画は、世界に知られている。


昭和50年代まで荒廃に任せるままであったがという。昭和60年に原型に復元整備され、 61年 清水町文化財指定されている。
百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派 駿河國興津清見寺末寺という。 元亀2年(1571年)創建という古寺。

宝池寺一里塚


「市内の一里塚」

宝池寺一里塚は、向い側にある玉井寺一里塚と対を成し、一般的に伏見一里塚といわれ、江戸日本橋から29番目に当たり、昭和60年復原。
宝池寺側には立場があり人夫が駕籠など留めて休息できる場であったと伝えられている。

玉井寺一里塚は、1604年、江戸幕府が交通政策上の重要施策として、四キロメートル(一里)毎に道路の両側へ、高さ1メートル、9メートル平方の塚を築き、上に榎(えのき)を植えさせた当時の里程標の一つ。
一里塚と三島市塚原(山中)にある一里塚との距離は正確であるが、沼津日枝神社境内の一里塚との距離は短かい。
こちらは原形を改修してあるという。

    

「柿田川公園」は、昭和61年、「自然の保護・保全」と「コミュニティー広場の確保」を目的に町民の憩いの場として柿田川の上流部に開園
園内の第1・第2展望台からは、年中変わることなく水が湧き出る「わき間」を見ることができ、湧水広場では実際に水に足を入れて湧き水の冷たさを体験できるので、子供・家族連れが多い。
国指定天然記念物の柿田川を眺めながら散策できる遊歩道が整備されている。

富士山の湧水が滾々と


東洋一の大湧水群が湧き出る様子が見られる、-柿田川湧水群-。富士山の雪解け水が、長い年月を経て、ここ柿田川に涌き出ます。



柿田川の日100万トンの水量すべてが湧水、公園内は、貴重な動植物の生息地として知られ、約35万人の飲料水として利用されている。
ミネラルウォーターが水道から出てくる、日本有数のすばらしい地下水。

公園内の「貴船神社」
  

柿田川は、延長ー1.2 km短く、合流先は、狩野川へ。県駿東郡清水町を流れる狩野川水系の一級河川。約1.2kmは、日本で最も短い一級河川である。
かつては泉川、周辺地域は、泉郷と呼ばれていた。大量の湧水を水源とする日本でも稀有な川である。
本河川は、長良川・四万十川とともに日本三大清流に数えられている。
1985年(昭和60年)柿田川湧水群として名水百選に選定された。
さらに国の天然記念物にも「地質鉱物」の枠で指定、これは民間の企画であるが、日本の秘境100選にも選定。

雑木林には、いろいろな昆虫              夏になると涌出水が増すと聞く
    

「駿河志科」(1861)によると、夏には益々湧出溢れるがこれは富士山の雪解けの水であって、地中をくぐって出てくると里人は言っているがそのとおりであり、柿田と言う地名がつけられたのは里の老人の話として、この地は用水に不足し乾き田であったことから「カキダ」といっていたが、後に柿田の文字に変えたと記している。

    

「水生生物」は、安定した水温と水量が保たれているため生物にもその影響が現れている。
沈水植物には珍しい種類があり、春秋に水中や水面に淡黄色の梅花に似たミシマバイカモのほか、多年草のセキショウモ、フサモ、ヤナギモ等である。魚類は流域によって種類が変わり、清流ではウキゴリ、カジカ、アユ、アマゴ、濁りの在る所ではウグイ、ヘラブナ、アブラハヤ等が生息。
川底にはヌマエビ、スジエビ、テナガエビ、モズクガニ等の甲殻類が生息している(清水町調べ、1981)。



公園は、国道1号線沿いにある。一歩中に入ると、公園としても、芝生が広がる広場、園内に引かれた水遊び用の水路、2つの大きな湧水群と、きれいな水と空気の中をあるく遊歩道が続く。 遊歩道を歩きながら、小規模の湧水が、



「柿田川」は、清水町伏見にある柿田川公園の「わき間」からの湧水に源を発し南へ流下、清水町役場付近で狩野川に合流する。
流水はほぼ全量が湧水から成り、これは富士山への雨水や雪どけ水が三島溶岩流に浸透し、その先端部から湧き出でたものである。
清流で知られ、水温は季節を問わず15℃前後。流量も年間を通してほぼ一定を保っている。当河川特有の水中植物としてミシマバイカモが自生している。
豊富な湧水を求めて工場が進出、排水のたれ流しにより水質が悪化し、魚も住めない状態になった。
1970年代には護岸のため、部分的に川縁がコンクリートに覆われるなどしたが、1980年代には地元有志によるナショナルトラスト運動が始まり、工場の移転運動や清掃活動が行われ、カワセミ等も生息する環境が残されたという。

柿田川


柿田川脇に、1671(寛文11)年 建立の「石橋碑」と1787(天明7)年建立の「十句観音経 二百萬遍供養塔」がある。
左右三基の石碑を合わせて「柿田川三石碑」と呼んでいると云う。
架橋されている鉄筋コンクリートの柿田橋は、地震、水害などで犠牲者が出たのであろう、その供養塔であろう。

柿田橋から
    

キリン協和・東レ・東芝・森永・横浜ゴム等の企業の三島工場がある。
県東部に位置する三島市は、伊豆半島の基部にあたる。三島大社市内中央に、箱根連山の西側斜面で、西部は愛鷹山の東部斜面で、東に境川、西に黄瀬川が流れている。
古代から伊豆国府が置かれ、行政の中心地であった。

鎌倉時代以降三嶋大社の門前町としてのイメージが強い、江戸に入り下田街道の分岐点として東海道の宿場として栄えた。
箱根越え、伊豆の天領を支配する「三島代官所」が置かれていた。
明治に入り一時衰退しているが、丹那トンネル開通で活況を取り戻した。富士山の伏流水の湧水地が特に多い。「三嶋は水の都」と云われ
富士箱根国立公園の玄関口になる。

法華宗本門流「光長寺」・創建は1276年(建治2年)、日蓮を開山、日春と日法の2名を「同時二祖」としている。鷲山寺(千葉県茂原市)、本能寺(京都市)、本興寺(尼崎市)とともに法華宗本門流の四大本山の一である。住所沼津。

光長寺・日蓮宗                       山門に大楠木が


「宝物」は、日法作の御影、宗祖日蓮大聖人曼荼羅 5幅・全て山中喜八の『御本尊集目録』に収録されている。 中でも弘安元年11月の28紙継ぎの曼荼羅は、現存する宗祖筆の曼荼羅の中で最大。(2349×1249mm)
日法聖人作宗祖御影、日法聖人彫刻の御影。 「日蓮大聖人御尊像、 彫刻の名手として名高い日法聖人の謹刻。御開眼の後、少しお気に召さぬところがあり鑿を当てたところ清血が流れたと云う、一たび御開眼の後はただの木像ではない、「生きておられる」と驚き疎漏を悔いられ、これを伝え「血流れの祖師」と云うとある。
                       立派な楼門


七百余年の昔、御弟子の訓育に努めておられた宗祖は、かって道中の草庵を結ばれ、熱心な信者もいる岡宮の地に再度の弘教を志され、御弟子日法聖人にこれを託されました。
師の命を承けて法華経を説く日法聖人の法門を弔問した当地の古刹の僧空存は、自らの誤りを悟り日法聖人に帰信し、聖人の御手引きで宗祖の御弟子に加えられ、名を日春と賜りました。
日春日法両聖人は力を合せ里人を教化し、1276年 光長寺を開創、宗祖の命に応えた。

室町時代には学頭日朝聖人が出られ、京都本能寺の日隆聖人と呼応して宗祖の正義を宣揚され、現在の法華宗の礎を築かれ、その後
今川氏徳川氏等も寺領を安堵、教勢は年を逐って充実伸張したと云う。
宗祖直受の法燈連綿七百年、末寺約百を擁し、老杉古松鬱蒼と茂る二万余坪の境内は聖地の趣き深く、全国法華宗徒渇仰の霊場となった。

額に山号「徳長山」の文字        仁王像が             参道


辻之坊山門は、沼津城中庭の門を移築したものと伝えられている。

日朝聖人ご旧跡、日蓮宗総本山身延山久遠寺第11法王で、行学院と号する(1422~1500)、今日の身延山発展の基を造った敏腕家。
優れた学僧でもあって、晩年には、著作活動に全精力を傾注し、一時眼病を患って筆を置くこともあったが、信仰の力で、やがて視力を回復したと云う。「にっちょうさま」と呼ばれて、民衆に崇められ、眼病平癒の神様とうたわれる。

                           本堂


文化財は、重要文化財 宝物集ー巻第一、1287年日春の書写。宮内庁書陵部本と並ぶ「宝物集」の最古写本、登録有形文化財 光長寺御宝蔵
1926年起工した、宝物収納法要堂は、県指定文化財 法門聴聞集等がある。

                           講堂

桜の名所として有名で、春になると多くの人々が訪れる。 
現住は、78世石田日信貫首。関連、 鷲山寺、 本能寺、 本興寺、 門池。光長寺と市仏教会、 南之坊、 西之坊、 東之坊、 辻之坊がある。

                        坊、末寺


「三嶋大社」三島駅南約1Km大宮町に鎮座する。
                        三嶋大社


伊豆国一宮。三島明神とも称した。祭神は、大山祇命と事代主命、創建ははっきりしていないが平安初期には文献に見られている。

                         本殿


源頼朝以来、幕府や武家に信仰されて保護を受けている。
銅像の神主は、矢田部家が世襲・社家の河合家は、三島暦(地方暦)を発行した。

神木


江戸時代は、朱印地530石を領有した神社。

天然記念物金木犀                  舞殿              境内


境内には、天然記念物金木犀が、資料館に頼朝らの歴史資料が展示されている。北条政子奉納の「梅蒔絵手箱」・頼家筆の般若心経など。

源頼朝・北条政子腰掛石がある。 治承4年に源頼朝が平家追討の心願をこめて百日の日参をした時に、腰をかけて休憩したと伝えられている。
向って左側の石が源頼朝、右側の石が北条政子が腰掛けたと云うが。?



1月7日「お田打神事」は、鎌倉時代から伝わるー田遊びーで知られている。



「沼津アルプス」とは、香貫山から南へ横山、徳倉山、志下山、小鷲頭山、鷲頭山、大平山と続く山稜線を地元の愛好会が整備し、名づけたもの。標高は一番高い鷲頭山でも392mと低山ではあるが、起伏が激しく鎖を伝って歩くところもあるので、登山用の装備が必要という。
高齢者の人気登山、 沼津アルプスは、なんといっても、眺望が素晴らしく、山稜線まで登ると眼下に駿河湾を見下ろし、北には富士山がそびえる。まさに大パノラマ。春は桜、秋は紅葉も楽しめる。

「狩野川」は、伊豆半島の最高峰、天城山に端を発し北流。沖積平野である田方平野を蛇行しながら、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾に注ぐ。狩野川のような太平洋側の大河川で北流するものは本川だけである。
これはかつて島であった伊豆半島が、フィリピン海プレートの移動によって本州側のプレートに衝突し隆起したことによる。
一級水系の大河川にしては河口付近でもそれほど川幅が広くならない。これは大支流である黄瀬川が造りだした三島扇状地(黄瀬川扇状地とも)があるためであると云う。また、水利用の大型ダムがなく、これは一級水系にしては数少ない特徴である。

沼津に


「沼津・霊山寺」は、曹洞宗永平寺派の寺。
昔は真言宗の寺院であったが、1748年の火災に遭って寺記をことごとく焼失、創建の年代などは不詳である。
伝説によれば、昔この辺が伊豆国であった時、天平の詔によって創立されたものといわれている。
1557年に宗祖の道元禅師より12世の法孫である機外永宜和尚が、伊豆国北条村の真珠院の住職であった時、当寺に招かれて中興開山となったと云う。このために真珠院を本寺とし、曹洞宗に改宗。
塔頭として、光明院・西光院があったが、後者は廃寺となり、前者は平成13年大岡三明寺に移転している。

霊山寺            鐘楼                    本堂


五輪塔は空、風、火、水、地の五大を、団、半月、三角、円、方の五輪にあて、順次積み重ねて塔、もとは舎利(仏骨)奉安のためのものであったが、後に転じて墓標となっている。
藤原末期から作られ、鎌倉時代に盛んになった。中央の大きな五輪塔の下からは、青銅製の蔵骨器が出土しその銘によって、元享3年(1323)に亡くなった成真大徳という僧侶の墓であることが判明したと云う。本県の場合、中世の蔵骨器は陶製のものが主であるので、青銅製のものは珍しい。県指定有形文化財に指定。
墓地には、内膳堀を造った植田内膳の墓がある。

お地蔵さん


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