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syuの日記・気まま旅

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富士山 石灯籠が続く長い参道 北口浅間神社

2018-07-25 | 富士山麓日記
「伝説」ー葛飾北斎の北斎漫画より、前鬼・後鬼を従えた「役小角」
鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。
左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。
ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。
こうして、架橋は沙汰やみになったという。
役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。
富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。
また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。
続日本紀ー小角の生涯は伝承によるところが大きいが、史料としては、続日本紀・巻第一文武天皇三年五月丁丑条の記述がある。
日本の公式な歴史書にある唯一のものであるが、執筆の時期は役小角が亡くなってから約100年も後の頃と考えられていると云う。

「長谷川角行」-人穴富士講遺跡(静岡県富士宮市人穴)。角行はここで修行。
1541ー1646年・江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれ、俗名、長谷川左近藤原邦武。

「伝記」ー角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にすると云う。
応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記されたと云う。
当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、1560年、
「角行」という行名を与えられる。その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」という独特の呪符や曼荼羅を授かった。「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。
後継者は、日行日玥、赤葉玥心、、前野月玥、村上月心と続いた。
村上月心の死後は、月心の二男、村上光清(1682年 - 1759年)の光清派と、月行劊忡から食行身禄・1671年 - 1733年)への身禄派がある。
そこからさらに清康派、伊勢派、出雲派など、俗に「八百八講」と呼ばれる多数の派を生んだと云う。
その中から、食行の女花子に連なるとする小谷三志が神仏混合を拝して神道の一派として不二道を成し、明治維新のころ、そこからさらに分かれて、
柴田花守率いる實行教と穴野半率いる扶桑教が生まれた。角行を開祖とする富士講諸派の母体は、教派神道の實行教と扶桑教へとつながっていったと云う。

「冨士教」-角行から村上光清に連なる系統(御法家)から、角行直系を称する冨士教が生まれ、冨士教は角行及びその直系の8代までが教えを記した「御巻き」という文書(御法家としての秘宝であるという)を保管しており、角行の直系の教えを教義としている。
「富士山」と「藤」(角行の姓にちなむ)が組み合わされた紋にも角行の直系と云う。

「金鳥居・かなどりい」-古くは「唐銅鳥居」と称し、唐から製法が伝わった金属ということで青銅のこと。
「唐銅鳥居」が訛って金鳥居となたっとされている。
金鳥居は「一の鳥居」という別称があり、金鳥居をくぐった先に続く吉田口登山道を登っていくと富士山頂に至るのですが、その道中の一番初めにある鳥居という。富士山の信仰登山者を迎え入れる「門」として、又俗界と富士山の信仰世界とを分かつ「境界」として建立し、金鳥居を歩いてくぐると、富士山の信仰の世界と考えられ、神聖な存在と云う。
記録によると、1788年に初めて建立され、幾度と暴風雨などの影響で倒壊と建立が繰り返され、現在の金鳥居は昭和32年に建立。

中心高は 9.88m、 明(柱と柱の間)7.9m、笠木巾 13.4m 柱の太さ0.88m・扁額には「冨士山」の文字が。


「御師」-平安時代の御師には、石清水・賀茂・日吉などのものがあるが、代表的なのは熊野三山の熊野御師である。
熊野詣では平安時代末期に貴族の間で流行したが、その際の祈祷や宿泊の世話、山内の案内をしたのが熊野御師であった。
熊野では当初参詣のつど両者間で契約していたが、次第に御師を「師」とし「先達」が率いてきた参詣者(道者)を「檀那」とする恒常的な関係(師檀関係)を形成していった。
鎌倉時代には武士にも広まり、室町時代には農民などの庶民まで檀那とするようになった。鎌倉時代から室町時代初期にかけては、伊勢神宮[1]・富士講・松尾・三嶋・白山・大山などの御師も活躍した。特に出雲大社が源頼朝の御師を行った事は「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録を示したものに記されている[2][信頼性要検証]。
明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退、1869年、に明治政府は神職の葬儀は神葬祭に改めるように命じるとともに御師は百姓が兼帯しているもので正規の神職では無いため神葬祭を行う事が禁じられた。
御師側はこうした動きに抗議したものの、1871年、御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入、百姓や宿屋経営などに転じていくことになるが、富士講の御師を結集して「扶桑教」を結成するなど、宗教的な活動を維持しようと動きが。

                           御師・旧外川宿坊


富士山駅から南約350mの金鳥居から国道139号線に沿って御師の家・富士山登拝する人々の宿泊請負や登山指導をする神職で、建物は、「北口本宮
富士、浅間神社」に所属し、御師の住宅形態を残している。1861年頃の建築で、現在数十軒あるが、観光の一つに。

                             浅間坊


白衣を着け、鈴と金剛杖を手に集団登拝する人も。
                             番城屋


                            山神社碑


「北口本宮富士浅間神社」
139号線沿いで、富士駅から南約1.5kmに鎮座。
日本武尊が、現在地のやや南の「大塚丘」に創建したと伝わる。788年、「甲斐守 紀 豊庭」が現在地に造営したとある。

                        石灯篭が続く参道


                           鳥居




                           門楼


東宮本殿前には、老杉巨木の神木が。
                           社殿


                           舞殿


                           神木


                           狛犬


                           献上樽酒


                       富士山湧き水・橋を渡した水路が、




                          角行の立行石


「吉田の火祭」は、夏の富士山の山じまいのお祭りとして毎年8月26日、27日におこなわれる。
北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の両社のお祭り、元来、火祭は、浅間神社ではなく、諏訪神社の祭礼であり、「甲斐国志」においては、上吉田村諏訪明神の7月22日の例祭として町中で篝火を焚くとあり、上吉田の産土神であると記され、火祭は、諏訪神社の神主である佐藤家を中心とした諏訪神社の祭りで、浅間神社の社司や御師が関わるべき祭りでもあったと伝たわる。
26日午後、本殿祭、諏訪神社祭が催行され、大神輿、御影は、参拝者で賑わう参道を下って表通りに出て、氏子町内を一円し、暮れ方に御旅所に奉安されると、時同じくして、高さ3メートルの筍形に結い上げられた大松明70余本、家毎に井桁に積まれた松明に一斉に点火されると、街中は火の海と化し、祭りは夜遅くまで賑う。27日午後7時頃、2基の神輿は氏子中を渡御し夕闇迫る頃、浅間神社に還御。氏子崇敬者が「すすきの玉串」を持ち、二基の神輿のあとに従って高天原を廻ると祭りは最高潮に。
27日を「すすき祭り」ともよんで、神輿と見物客とが一体になって、夕闇の境内を廻る。

      吉田の火祭り・島田市の大井神社帯祭・稲沢市国府宮はだか祭り「日本三奇祭」。


本州中央部・太平洋側に位置し我が国最高峰3776m。均整の取れた典型的な成層火山で世界遺産の「富士山」。
次回も下吉田方面へ。

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