syuの日記・気まま旅

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熊谷 武蔵別府城から

2012-01-23 | 気まま旅
荒川の扇状地東端、氾濫原「曲谷」かまがやが転じて熊谷と云う説がある。江戸時代は中山道の宿場町、1773年頃の3年間県庁所在地、
第二次世界大戦で、軍用地帯の為、大空襲を受け、私の疎開先秩父影森から真っ赤な夜空が見えた。今でも跡地に、鉄、銅、セメント工場が多い。
熊谷と云うと、1184年一ノ谷で勇名を馳せた「熊谷直実」ゆかりの地で駅ロータリーに銅像が立っている。

「熊谷直実」 1141-1208 源氏方坂東武者、平山季重との先陣争いし、平敦盛を討ったと「平家物語」にある。
頼朝に御家人は同格と云って矢の的立役を断わり、頼朝の不興をかい所領の一部を削られている。法然の門に入り「蓮生」と名乗り出家している。

駅前にある 熊谷直実像
  

「武蔵別府城」は、東別府家の館として、東西南北ともに約100余m四方で、周囲には巾約2~3mの横濠(現在は西、北、東側に残っている)を廻らし、
内側に高さ約2mの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形を見る事が出来る。 
太郎能幸に初まった東別府家は、それから11代目の尾張守長清まで続いた。

武蔵別府城 別府神社
  

土塁 
    


 
   

    


「福聚山・香林禅寺」は、東別府館の近くであり、禅宗寺でもあるので、何らかの関係があるものと推測される。
門構えその他から由緒あるものと思うが、調査できなかった。
  



「熊谷禅林・報恩寺」は、曹洞宗寺院の報恩寺、大慈山。「熊谷直実」の子「直家」が、父の没後菩提の為に浄土宗寺院として創建。
江戸時代に入り、報恩寺と改号、萬室察和尚1717年が曹洞宗へ改宗し中興開山したと伝えられている。熊谷直実の娘千代鶴姫玉鶴姫の開基・守佛とされている。
  


報恩寺隣に「袖引神社」は、袖引稲荷を寺の伽藍神としている。このお稲荷さまへの信仰は、日本古来の神道の信仰にインドの古い神さまで後に
お釈迦さまの守り神となり「托枳尼天」の話が結びついて平安時代から盛んになったもの。
稲荷は、鎌倉時代の初め、開基玉津留姫が近くの内池町の菩薩院という寺院にあったお稲荷さまが荒れ果てていたので移された。
  


「高城神社」鎮座地は荒川の蛇行によって形成された地域、古くから地下水の自噴する湧水池が多く、古代祭祀が行われていたものと推定され、
創立年代は詳かでない。
1590年に豊臣秀吉の小田原攻めが行なはれたが、その折、忍城など北武藏の城も攻略され、高城神社もそのとき兵焚にかかり荒廃した。
境内から霊泉が湧き万病に効能があると信仰され、数万人が参拝する神社となった。
  

豊臣軍勢の石田三成、浅野長政の兵士等が忍城(現行田市)攻略するに当り、この神社も災を被り焼失した。1580年のこと。
現社殿は1671年 忍城の閤老阿部備後守忠秋公が式内社であることを認め、伊藤伊織、野沢忠兵衛を奉行とし、甲良豊前を棟梁として造営された社である。
「むすび」の神として信仰、「産」から安産の神、「生産」「産業」「建築建設」の神として信仰を集めている。
境内には6百年以上の樹齢の欅が数本あり、御神木も欅である。
宝物として天国剣刃、鎧、蹴まり一式、オランダ鏡、神道流古文等々がある。境内には摂社、末社9社があり、天神社の特殊信仰をもつ社がある。

      

次回は、忍城、行田市方面に。

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