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松島や・松島や 東北の旅5

2015-10-14 | 気まま旅

「松島湾周辺の貝塚」
「西の浜貝塚」-宮城県宮城郡松島町磯崎に所在する縄文時代前期から晩期、さらに弥生時代、奈良・平安時代までの人間生活の痕跡を残している。
湾内において確認されている数多くの貝塚においても七ヶ浜町の「大木囲貝塚」、東松島市の「宮戸島貝塚」と並ぶ。
1958~60年、東北大学歴史研究室と松島町教育委員会が行った発掘調査で、縄文時代前期から晩期にかけての遺物、弥生時代、平安時代の遺構・遺物が発見された。
和41、42年の1966、67年、には、宅地造成による破壊から遺跡を守るため、宮城県教育委員会が発掘調査を行い、縄文時代前期から晩期、弥生時代から奈良・平安時代の遺構・遺物が多数発見。
縄文時代前期から後期にかけての炉跡を中心とした平地式住居と考えられるものが重複して発見されたほか、弥生時代の製塩遺構が、昭和41、42年、
の調査では、それまで不明瞭であった縄文時代中期末葉から後期中葉にかけての土器編年が更に細分化されることが明らかになったと云う。

大木囲貝塚・二月田貝塚・西ノ浜貝塚・川下り貝塚・高松貝塚・里浜貝塚など松島湾に点在している。

昭和2年ー 宮城電気鉄道の松島公園駅として開業。昭和19年ー 宮城電気鉄道国有化により、国鉄の駅に、「松島海岸駅」に改称。
平成23年・3月11日 - 「東北地方太平洋沖地震」の影響により仙石線が不通となり、当駅も閉鎖(代行バス運行開始後は乗車券の発券のみを行う)。
同年の5月28日に復旧。

       JR仙石線「松島海岸」駅ー仙台あおば通りを起点
    

「松尾芭蕉」 1644-94 俳諧師・俳人ー伊賀国上野城下町生まれ、23歳で俳諧師の道へ、37歳で江戸・深川で暮らす。
元禄2年「奥の細道」旅に出る。
旅では仙台領・松島逗留で俳句を詠んでいないのは、幕府の伊賀忍者説が言われている。芭蕉の忍者にしても近代文学史に果たした功績は大きい。

           「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る」-大阪で客死した。

「日本三景」この松島一帯と広島の安芸と宮島の天ノ橋立つ京都府。
松島は、仁王島・兜島など奇勝と赤松・黒松が茂っている。平安時代には、歌枕として都の歌人達に知られていたと云う。
1689年の芭蕉は「抑ことふりにたれど、松島は 扶桑第一の好風にして 凡 洞庭・西湖を恥ず、、、、」と賞賛している。
松島観光船で巡航が人気。東の大高森・西の扇谷山・南の多聞山・北の富山を「四大観」と云う。

                         五大堂
    

東日本の太平洋沿岸に壊滅的被害をもたらした3.11。
松島は260余の島々に守られ奇跡的に被害は少なかったと言われているが、震度6弱の地震と最大3m80㎝の津波(16時40分第2波)に襲われた。
JR石巻線開業で、後2度目であるが早い復興。

「五大堂・五大明王」(重文)-臨済宗妙心寺派・東北36不動の29番。
伝承ー807年、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まり、円仁(慈覚大師)が延福寺(瑞巌寺の前身)を創建した際に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に東方降三世明王、西方大威徳明王、南方軍荼利明王、北方金剛夜叉明王の五大明王像を安置したことにより、
「五大堂」と呼ばれるようになった。

1604年、伊達政宗が瑞巌寺の再興に先立って再建、東北地方最古の桃山建築と言われている。

               福浦島・福浦橋


「坂上田村麻呂」 758-811  奥州平定・征夷大将軍  身の丈5尺八寸・胸1尺二寸・鷹の瞳・睨めば怪獣も逃げ・笑えば赤ん坊もなつく。
死体は、甲冑・剣・鉾と共に、平安京東を向いて立った姿で埋められたと云う。

   松島湾ー焼島・九ノ島・雄島・・・・・仁王島。天候悪い 約250種の植物が自生している。
  

「瑞巌寺」ー828年慈覚大師創建・約700年前の洞窟群が

            臨済宗妙心寺派ー山号ー青龍山瑞巌園福寺
    

本尊ー聖観音    東北代表禅宗寺院ー松島寺とも云われている。
    

1609年「伊達正宗」が再建した。「伊達家」の菩提寺となった。
本堂・書院など桃山建築様式を伝えている。(国宝)・障壁画161画(重文)・庫裏及び廊下等の大型入母屋煙出し切妻造り等重文多

延命地蔵尊ー延命・利生を誓願する地蔵尊。
生まれた子を守り、寿命を延ばし、後世、短命・若死にを免れるため信仰 された。                    
  

「御水主町の民家」
瑞巌寺の東に隣接した御水主町は、仙台藩主が松島遊覧の際に御座船を操った「水主」が住んでおり、最盛期には48棟があったが、最後に残った

           1棟、   松島町指定文化財に
  

「円通院」
天の庭・地の庭で構成されている。天ー松島湾七福神の島を表している。地ー人生・石、生まれたままの割肌、磨く。天水橋が架かっている。
伊達正宗・愛姫ー2代忠宗・徳川家振姫ー「伊達光宗」公

        瑞巌寺と同じ臨済宗妙心派ー山号白華峰山。別名バラ寺とも云われている。
    

円通院霊屋「三慧殿」・小堀遠州作ー堂内・家形厨子には、白馬に束帯姿の「伊達光宗」が安置されている。(重文)

                本尊ー聖観音ー縁結び観音(滝に乗った観音菩薩)
    

        仙台藩2代藩主「伊達忠宗」の次男ー光宗ーの廟所
  

「観瀾亭」ー月見崎にある建造物。(有料)
    

伊達正宗が豊臣秀吉から拝領した「伏見城の茶室を」2代忠宗が「観蘭亭」に移設した。

  

歴代藩主は納涼観月に使用していたと云う。



障壁画21面は、狩野山楽筆という。

狩野山楽 1559-1635  
江戸前期の狩野派の画家・近江蒲生郡生。
豊臣秀吉の近侍木村永光の子。姓は木村、名は光頼。
狩野永徳に学び養子となる。2代将軍「徳川秀忠」の用命を受けて画壇の重鎮として活躍した。筆法は強く装飾的で人物と云う。

                  園内には、松島町の博物館


庭内は史料・貝塚・等が展示されていた。

「セコイヤの化石」
ギリシャ語・(セコイヤスギの属名)が語源。
「メタセコイヤ」という名前になった訳は、昔は「セコイヤ」は化石でなくては見つからなかったので、化石植物と考えられていた。しかし、
1945年に中国四川省で生き残っていたことが確認され「生きた化石」として世界中で注目。
観瀾亭のセコイヤの化石は、明治天皇御行幸の折に、青葉城から移したもの。
    

観蘭亭建物は、東西に向き京間18畳2室で四方縁をめぐらした簡素な建築であったと云う。

    

床の間の貼付絵や襖絵は、壮麗な極彩色で描かれ、柱間1間6尺5寸の京間など桃山時代の建築で貴重という。

  

記録には、藩主・姫君・側室など松島遊覧、幕府巡見等宿泊接待の施設「御仮屋」に使用されていた。

「どんぐりコロコロの石碑」
「青木存義」 1879-1935 松島出身の唱歌作詞家・小説家(我が人妻等)・国文学者 東京帝大・東京音大教授等。
    

次回は、石巻方面へ。

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