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国府台と千葉商大

2013-06-13 | 気まま旅

京成「国府台駅」下車する。住所は千葉県市川市、県北西部で向かいは、東京葛飾区、江戸川区川に面している。
地名は、下総国府が置かれ、源頼朝より、下総守護に任ぜられた「千葉氏」の守護所。
下総台地の西南端、要害の地、戦国時代には、太田道灌により、城が築かれた所。1538年と64年に、安房里見氏と小田原北条の「国府台合戦」
の場である。一時北条氏の支配下にあった。
豊臣秀吉による小田原征伐後は、徳川家康の支配を受け、以後幕府領で、寺社領であったが、明治に入り軍事施設で拡張されていく。
市川国府台と云えば、万葉集伝説歌を収めた、真間の玉児奈橋「葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈けむ手児奈し思ほう」。
芭蕉・一茶も訪れており、勝海舟が別宅を構えていた。永井荷風や慶応義塾鈴木恒男教授や歴史文学の中国の郭沫若が1928年から10年
市川で波乱万丈の生活をしていた。又、戦前まで兵舎であった所に東京巣鴨商業専門学校(巣鴨商専)現在の千葉商大があり、歴史の街であり
桜の古木が多い街。

江戸川と京成電鉄陸橋(神社高台から)       この先商大、公園、国府台病院


「砲兵の歌」 作詞 平櫛  孝(41期) ・ 作曲 戸山学校軍楽隊

1、襟には栄ゆる 山吹色に           2、疾風電撃 天地を揺りて                                                                            
 赫々戦勝 基を拓く                軍の骨幹 誇りも高き              
 われらは砲兵 皇国の護り              軍の骨幹 誇りも高き             

1886年明治に入り、以降相次いで兵営が完成。
歩兵大隊に続き、砲兵大隊、工兵中隊、騎兵中隊、教導団本部、その病院など。
兵舎が建てられ、その跡地が現千葉商大・和洋・里見公園、国立国府台病院、住宅で、元は軍隊の練兵場で教練が行われた所である。
日本軍の優秀な下士官等は、国府台で養成されていった。戦前から国府台は、兵学校の町で知られる。


陸軍国府台砲兵の碑                            総寧寺の長い階段 
    

「総寧寺」は、 山号, 安国山。 曹洞宗. 寺格, 関三刹。

1383年、近江守護の佐々木氏頼(六角氏頼)が通幻寂霊を招聘して、同国坂田郡寺倉(現・米原市寺倉)に總寧寺として建立。
1530年、戦乱によって總寧寺が焼失。8世住持越翁宗超は、遠江国掛川に退避して同地に常安寺として再建された。
この常安寺は永禄年間に戦乱によって焼失。住持らは常陸国に落ち延びた。

1575年、常安寺は北条氏政によって関宿宇和田(現在の埼玉県幸手市)に移転。
これは常安寺再建を図る11世住持義翁盛訓の嘆願と関宿城の簗田氏に対する氏政の牽制策の合致によるとされている。
その後、総寧寺の旧称に復す(時期は不詳)。北条氏からは20貫、同氏滅亡後の新領主・徳川氏からは改めて20石が与えられた。
1617年、徳川秀忠によって関宿内町(現在の千葉県野田市)に移転。
1663年、徳川家綱によって現在地(国府台城跡地)に移転。これは江戸川の洪水を避けるためという。
2年後に寺領として128石5斗を与えられ、曹洞宗関東僧録司となった。
1850年焼失し、1862年再興された。

総寧寺境内に                     人間会館の門が講堂            仁王像
    

文化財は、小笠原政信夫婦供養塔2基(市文化財指定)、里見弘次の墓、 小笠原貞頼の墓。

1663年の四代将軍徳川家綱により国府台に移転し、当時は、広大な寺域を占めていたてら。
寺領128石5斗 山林6万7千余坪 総寧寺の住職は全国曹洞宗の寺院の総支配権を持っていたという。

境内                        古木の桜                    楼門
    

「国府神社」の伝えによると、景行天皇の皇子、日本武尊が東征のおり、下総の賊を平定してこの台地に陣を張り、武蔵国に向かおうとした。が、下総と武蔵の台地の間には、たくさんの河川が形成し、船を使わず浅瀬を渡ることはできないものかと思案。
このとき一羽のコウノトリが現れ、尊の前にかしこまって「私が浅瀬をお教えいたしましょう、どうぞ私について来てください。」と申し、
尊は、大軍を率いてコウノトリの後に続き、難なく武蔵国の台地に着くことができという。

尊はコウノトリの功績をほめて、下総の台地をコウノトリに授けることにしました。
このことから、この台地がコウノトリに与えた台地、即ち「鴻之台」と呼ばれるようになったと言う。
神社は、この伝承に基づいて、御祭神を日本武尊、そして「コウノトリの嘴」を御神体として、1087年の創建と伝えている。
「鳳凰大明神」と呼ばれたこともある。

国府台駅から10分ほど坂の途中、小さな神社であるが古社で、日本の歴史を見つめてきている。

国府台の歴史を見つめてきた小さな国府台神社                   境内から江戸川が
    

「千葉商科大学」は、1928年 文学博士遠藤隆吉が財団法人巣鴨学園を創設し「巣鴨高等商業学校」設立の伝統校。

前学長が、加藤 寛先生 1926年ー 2013年1月の死去、 日本の経済学者。学位は経済学博士(慶應義塾大学)、慶應義塾大学名誉教授。
政府税制調査会会長、内閣府規制改革担当顧問、信念、社会に役立つ学問を。

戦前の山手線大塚駅は、学生街で、巣鴨商専、都立大、拓殖、早稲田、御茶ノ水、女学校など集中していた。その巣鴨商専が戦後千葉県に移転
している。

千葉商大校庭内                 遠藤隆吉先生の碑           芝と桜並木が
    

「遠藤隆吉」先生は、武士的精神を忘れたことが商業道徳の頽廃をもたらしたことを歎き、外国貿易の不振もそれが原因であるから、実業家として世に立つ者に商業道徳を身につけさせ、武士的精神を注入することが急務であると指摘した。
商業は人と人との交流であり、未知の人と国や民族を超えて交流するには、相手を信頼し、約束を守る倫理が存在しなければならない。
そのためには、日本の精神に基づいて世界の在り方を考える視点と武士的精神の涵養が重要です。巣鴨高等商業学校設立の意義は、まさに当時の商業道徳の頽廃を打破することにありという。

明治以降、国府台は、学問を志す若者の環境を備えている。

体育館(兵舎の面影は無い)                    本館            桜並木と緑の多いキャンパス
    

千葉商大生諸君に、江戸川河川敷に「河津桜並木」を近郊の学生と地域の皆さんで入植してはどうか。

次回は、里見城跡の里見公園です、千葉県はこれで終了します。

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